週刊 野ブタ。

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2005年 11月 24日

第6話


【今週のあらすじ】
  
 何者かによる度重なる誹謗中傷で信子を人気者にする作戦を邪魔されてきた修二と彰は、噂を逆手に取り信子を人気者にする手段を探していた。
 そんな折、信子をモチーフにした彰お手製の「ノブタパワー人形」を目にした修二は、人形を流行らせることができれば、信子が人気者になる道も早いと考えた。
 そこで、修二と彰は、「ノブタパワー人形」を所持すれば、願い事が叶うという噂を作り上げ、マジナイや占い好きの女子高生の性質を利用すると、人形は一瞬のうちに大流行。
 面白いほど売り上げを伸ばした。 a0048991_2145179.jpg
 浮かれる修二たちだったが、ある落とし穴が待っていた――。
 そんな中、彰の実父が、会社を継がせる準備をさせるため、彰を実家に呼び戻すのだった。
 それを良しとしない彰は家出をし、修二の家に転がりこむのだった――。 
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【今週のストーリー解説】

■善良な市民
 第6話は『野ブタ。』のメインテーマのひとつ「価値観」をめぐるドラマが、「商品の流行り廃り」というわかりやすいアイテムで語られている。修二たちの売り出した「野ブタ。」キィホルダーは、修二の「噂」を利用した販売戦略が功を奏して発売当初こそ絶大な人気を見せて売れに売れまくるが、やがてその効力が切れた途端にまったく売れなくなる。まさに「人の噂も七十五日」だ。修二たちはこの挫折をきっかけに、自分たちが小さな世界の住人であること、そしてやがてこの時間が終わっていくことをを強く意識する。
 修二たちのやっている価値観の書き換えゲームは現実の社会でも行われていることだ。そう、彼等がやっていることは、決して学校という比較的小さな世界の中での「ごっこ遊び」ではないのだ。いや、今は確かにそうかもしれない。しかし、それはやがて彼等が踏み出していく「次」の世界へ続いていく「ごっこ遊び」なのだ。
この第6話では、「今、ここ」の瞬間の価値を美しいものとして提示しながら、やがてこの幸福な時間が終わっていくこと、「次」に行かなくてはいけないことを強く刻み付けられる。その結果もたらされたものは何か……。それは、彰の「信ブタを俺だけのものにしたい」というラストの宣言だった。そう、彰は「次」の段階へ進むことを決意したのだ。
 彼等の幸福な時間は、だんだんと終わりに近づいていこうとしている。だが、彼等は気付いているだろうか。それは「終わる」からこそ貴重なものだということを。a0048991_2146097.jpg

■成馬01

 仮に「野ブタをプロデュース」がどういう話?と問われれば「価値感を巡る話を学園モノの枠組みで描いた物語だ」と俺は答えると思う。
 今回の話はそれが一番良く出ていた2話でやったことの発展編でもあり、その挫折とプロデュースという曖昧な関係の終わりの予感を感じさせる回だった。つまり価値を巡る「問いかけ」と将来の進路とも絡む「今・ここ」が確実に終わっていく前兆。 そして学園モノ、あるいは青春モノは渦中の楽しさを描いていればいるほど、どういう風に、その時間が終わっていくのか? 居心地のいい世界からどう卒業するのか? が問われていく。 今回野ブタは「次に行かなくちゃ」と言い彰は「プロデュースをやめたい」とう所で終わり、幸福なトライアングルが一端終わり修二が取り残される予兆のようなものを感じさせる。また面白かったのは今回野ブタグッズ販売は修二たちにとって痛い失敗として終わり、修二はこんなことなら本気でやらなきゃよかったと後悔するのだが、見ている側からすると、例えば修二はビジネスの面白さに目覚め、野ブタは手先を使った仕事に将来進むのでは?という予感を与えてくれる。
 一見将来の進路を決めるということから逃避のたねに没頭してるように見えたことですら、ちゃんと繋がっているんだよ、という最後は作り手の優しい目線を感じる回だったなぁと思う。

■中川大地
 今回はあっと驚かせてくれる仕掛けが弱く、ちょっと物足りなかったかな。修二たち3人の活動に、親たちや先生たちの一見関係なさそうな挿話が意外なかたちで主題的に絡む、というのがこのドラマのプロット構成上の面白さのひとつなんですが、初登場の彰の親父や横山先生が過去に抱いていた将来の夢の話と、進路のことで揺れる修二・彰との絡ませ方はストレートすぎ、いまいちな印象でした。「お金よりも心」な通俗教訓話以上のハッとするような「気づき」も特に見出せなかったし。
 冒頭の桐谷家の会話(この家族大好き)で、「バラバラ死体をスーツケースに詰めて頼ってくる友達の話を黙って聞いてやるほど、友情にアツイ男になりたかった」修二父の話が、直後の彰の登場の前フリというだけでなくて、後半の仕掛けにも何か絡んでくれたら面白かったんだけど……。
 あとまあ、今となっては野ブタが修二たちに「プロデュースさせてやってる」感が漂ってしまうのも辛いとこですね。そういうモラトリアム関係の終わりの始まりがテーマの回だから仕方ないといえば仕方ないんですが、野ブタが普通にいい子すぎて感情移入しづらくなってきてる感はあります。売れ残りキーホルダーへのペンキの嫌がらせも、なんかプロット上のお約束の段取りみたいな感じで、「これで次行けるから」というのもウーンと思った。ま、「強くなる」ってそういうことなんだろうけど……。
 とはいえ、そういう不満点はたぶんこちらが擦れすぎてこのドラマへの欲が深くなりすぎてるがゆえのもので、この年頃の子らが人生の原理原則の噛みしめ方としては、すごく妥当だし丁寧に描かれてると思います。全10話が折り返してすぐに「終わり」を意識させる彼らの成長とシリーズ構成の未練のない早さに、こっちが寂しさを感じてるだけかもしれないな、とも。


【今週のチェックポイント 】

■噂には噂で対抗!
 そう、「野ブタ。」の基本的な世界観は「世の中にハッキリした価値の基準なんてない」というもの。だから噂を利用して信子の価値を上げてしまおうという修二の発想はまさにこの物語の基本に立ち戻ったものと言える。
a0048991_21463713.jpg 事実キィホルダーは修二たちの「やらせ」も効を奏して最初爆発的に売れ、キィホルダーのおまじない効果は抜群の信頼度を得ることになる。それにしても、修二の甘言ひとつで人を好きになってしまうクラスメイトというのは、まさに「野ブタ。」ならではの発想と言える。でも、割と世の中こんなものだよなあ。(市民)

■お金という数値化された価値感
 野ブタを人気モノにするためにグッズを作り広めるという目的がいつしか数字の魔力に当てられお金を稼ぐということに捕らわれてしまう修二。
 前作「すいか」でも主人公が信用金庫に勤めていた関係もあってかお金にまつわる話は何度も出てきたがお金は木皿泉作品にとって重要なモチーフかもしれない。 a0048991_2147699.jpg
 もっと言うとそれは数値化された価値観という方がはまりがいい。社会が流動的になり、わかりやすい国や神のような価値感が弱体化する中で私たちはお金のほかにも成績、体重、あるいは友達の数などの数字の価値感に囲まれて生きている。本来お金とは商品あるいは何らかの価値のある存在と交換できる存在として現れる。だからただ所有しているだけでは無価値なものだ。だが所有することで所有紙幣や効果の数字が可視化される時そこに具体的な力、価値感を感じ錯覚しいつしか数字の上昇が目的となってしまうことが残念ながら多々あるのだ。「すいか」ではお金の描写(数値化された価値感)と対抗するようにハピネス三茶での談話、食事のシーン(数値化できないもの)が何度となく繰り返されてきたがこれはきっと野ブタにおける見えるものと見えないものというドラマの対立項とも繋がっているのだろうと思う。 (成馬)

■進路調査のプリントで折られた紙飛行機
 他の生徒がしっかり進路のことを考えてることに驚く修二と対比される形で屋上で紙飛行機を折る三人。その姿はまるで将来という現実について考えることを保留にするためにプロデュースをしているかのように見える。この回ではプロデュースという言葉にくるむことで出来上がってたものが幸福なモラトリアムの時間だったことが、その崩壊を見せることで気付かせてくれる。だからこそ野ブタは最後に「私たち次にいかなきゃ」と言うのだろう。 (成馬)a0048991_21511846.jpg

■「こっちがオリジナルだろ」
 本来そういうジャッジをしない「みんながいい、と思うものがいい」という価値感を生きてるはずの修二がこの台詞を言うのがかなり可笑しい。 (成馬)

■「ニセモノに負けてられるかよ」
 しかしこの場合の勝ち負けとは何なのだろうか?
一方で彰の父親が「俺、金に負けちゃったよ」と回想で語るシーンが挿入される。そもそもこのドラマの「野ブタを人気モノにする」という目的自体が勝ち負けが曖昧なものだ。
勝負というものは同じルール、価値感を共有して初めて成立する。スポーツが人気なのはルールが明確で同じ価値を巡って争ってるという前提が疑いようがないからだ。
 だけど、「野ブタ~」で描かれてるような戦いはルール自体が曖昧で目的も人気モノにするとあるが、それがどういう状態なのかはおそらく修二ですらもよくわかっておらず、だからいつしか目的が摩り替わってしまったのだろう。今回の修二の敗北は金銭の獲得がゲームの勝利条件だというルールをいつの間にか受け入れていたからだといえる。
 逆にいうと、どのようなルールかに自覚的でないと、すぐわかりやすい対立項に飲み込まれてしまうのだ。また普段クールな修二が勝負になると熱くなり自分を見失う一方で今回終始クールな野ブタの描写の対比、そして最後に野ブタが励ましているのを見ると、いつの間にか力関系が変化していることに気付かされる。  (成馬)

■横山先生の詩集 (1)
 野ブタグッズの売れ行きと対比される形で描写されるダンボールに入っている横山先生の自主制作の詩集。これは横山先生の青春の思い出だった。3話の落書きを見に来る本屋のオヤジや生霊になって現れた元生徒など、この作品には思い出を大事に抱えている大人が多数登場し、それが彼らの人としての優しさの根拠になっている。またこの詩集は野ブタグッズのブームと入れ替わる形で生徒の間で大ブームとなる、ただし横山先生の執筆当初の意図とは別の「笑える本」として。
この詩集の挿話で、モノの価値や評価とは受けて次第でまるで意味は変わる曖昧なものだという価値感を更にダメ出しする。 (成馬)

■横山先生の詩集(2)
 修二たちが売りだしたキィホルダーのブームと入れ替わるように、ゴーヨク堂店主が売り出した横山先生の詩集がブームを起こす。一度は捨てられようとした横山先生が若い頃に書いた詩集が、ちょっとしたきっかけで大ブームを起こす。これは第1話以来繰り返されてきた、「小さな世界での価値観は簡単にひっくり返る」というこの物語における基本的な世界観の反復である。(市民)

■ゴーヨク堂と横山先生
 と、同時にこの第6話では、横山先生が詩人を諦めて生活のために教師になった「夢を捨てた大人」として描かれていることにも注目だ。横山はゴーヨク堂の店主に「(夢とお金でお金を取ったことを)後悔しているか?」と尋ねられて「していません」と答える。そして、(これまでの横山のやる気のない言動からは想像できないが)「今のこの仕事が好きなんです」と独白する。そしてゴーヨク堂の店主は、横山の詩集を自分の店で扱うことを提案する。
a0048991_2149719.jpg 第1話でゴーヨク堂店主は、店に逃げ込んできた信子に、小さな世界の価値観は書き換え可能であることを示唆する。そして第6話では横山に、彼が捨て去った「もう一つの可能性」をプレゼントする。ドラマ版「野ブタ。」において、ゴーヨク堂店主は、小さな世界のローカルな価値観に埋没しそうになっている登場人物に、それだけが全てではないことを気付かせる存在なのだ。もっとも、この6話の場合、ゴーヨク堂が横山にこういう提案をしたのは、「今の仕事が好き」な横山ならば、自分が詩集を売り出したところで勘違いし、自分を見失ったりしないという確信があったからだろう。(市民)

■「私は変わってないのに」
 今回修二が行った野ブタグッズ販売は学校内あるいはせいぜい近隣の中だけで行った小さな商売だったが、その小さな世界の中にモノを作り価値を与え売るということはどういうことか?そして追従するコピーが出回り、競争になり質を上げ価格を低下させる内に回りから飽きられゴミになって忘れられていくという、ある種の社会の縮図を描いている。ただここまでならよくある話でクドカンのタイガー&ドラゴンでも似たような話はあった。
 本来、衣食住つまり生活に関連しないものに価値を付加して大量消費させる、というのは言ってみればテレビドラマを作ってるスタッフの心情でもあるのだろう。
 前作「すいか」は質は高かったものの残念ながら高視聴率には結びつかなった。それに対し今回はジャニーズの人気アイドルを使いメジャーな学園モノという題材で同じテーマを展開したがための、平均15パーセントの数字を獲得し高い評価も得ている。野ブタの「私は変わってないのに」というのはまるで作り手の苦笑のようだ。だから今回の修二と野ブタの意見の食い違いは、そのまま「すいか」から「野ブタ」へ経由していく上での木皿泉やスタッフのジレンマだとも言えなくない。
 ただそれを迎合だと作り手が恥じているか?というとそれは違うと思う。すべてが終わり上辺だけのブームが過ぎた後、誰かの宝箱の片隅に残っている野ブタ人形を見ていると、そこに「本当にいいものは時間を得てもちゃんと残るのだ」という確信のようなものすら感じる。 (成馬)

■修二と信子の路線対立
 第6話ではキィ・ホルダーの販売方針を巡って、修二と信子が対立する。修二は「ライバルたちに負けたくない」と言い、あくまで売り上げにこだわる。対する信子は「誰かを勇気づけられたらそれでいい」と言う。このふたりは、どちらも無自覚に「キィホルダー販売を通して信子を人気者にする」という当初の目標を忘れている。修二は自分の能力をお金と言うハッキリとした形で示すことを望み、信子は自分のつくったものにロマンチックな意味を求めている。これは決して不幸なことではない。彼等はまだ自覚していないが、こういうことを通して人間「自分のやりたいこと」が少しずつわかっていくものなのだ。(市民)

■お金の裏と表
 お金儲けに勤しむ修二たちに教頭は「お金には裏と表の顔がある」と諭す。この「表」とは価値観が数値化されることのメリットであり、「裏」とは価値観が数値化されてしまうことで見えなくなってしまうものがあるという暗黒面である。事実、修二はこのお金の「裏」の面に報復される。お金と言う「数値化された価値」でしか、物事の価値を測れなくなってしまい、それがもっと他の(数値化されない)充実感をもとめる信子との路線対立を生んでいくのだ。a0048991_21493841.jpg
 ちなみに、このお金の裏と表の話は彰の父が後半口にする「お前は道端の10円玉でいろ!」という台詞につながっていく。(市民)

■まり子の距離感
 前話以来、修二がどうやら彰・信子とは、自分の知らない「本当の姿」で関係を結んでいるらしいことが気になりだしてるまり子。前回チェックポイントで成馬さんが「人の可視化されたコミュニケーションを疑わない鈍感さ」がゆえにいい奴だと彼女を評していたけど、僕はそうではなく、自分には「本当の姿」を見せてくれない修二の不可視な部分をずっと気にして、そこへのアクセス方法を愚直に不器用に探しているコなのだと思う。今回、野ブタグッズづくりに入れ込む修二の「本気」に気づいていたし、そこになんとかコミットしたいと思ってヘコんでる修二に「私買ってあげる」と、下手だけどまっすぐな入り方をして苛立たせる。で、そこではじめて「本当の姿」に触れられることになった。「次に行かなきゃ」は、きっと彼女についても言えることなのだろう。ガンバレ、おれはきみを応援してる!  (中川)

■彰の父
 かつて会社を継ぐことを拒否して、妻と幼い彰を連れて家出したことがある彰の父は、横山先生と同じような「夢を捨てた大人」だ。だが、横山同様に、この物語はそんな「夢を捨てた大人」に優しい。彼等は決して「敗者」として描かれることもないし、「夢をなくした抜け殻」とも描かれない。今回の修二たちがそうであったように、試行錯誤を繰り返して少しずつ「自分にとって本当に価値があるものがなにか」を突き止めていった存在として描かれているのがポイントだ。(市民)

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■「お前は道端の10円玉でいろ!」
 最後の彰と彰の父親の会話で彰の父親は硬貨と紙幣が綺麗に分類された金庫の中を見せ「俺が住んでいるのはこういう世界だ」という。彰の父親は「覚悟を決めろ」と会社を継がせようとして現れた。今回の話はグッズを売る話と将来を考える話の二重構造だが、彰が将来について導きだした解答は急いで進路を決めることでなく、立場を保留にし曖昧な「今・ここ」でじっくり考えるということだ。
 a0048991_2241492.jpgそしてこの父親とのやりとりから逆算する形で今までの彰の行動が結果や外見・数字などの目に見えることにこだわる修二と「だれかの力になれた」とか「喜んでもらえた」などの内的な見えないものにこだわる野ブタの中間的な位置で行動してきたのだなぁと思い出させる。
 そしてその彰が「プロデュースを辞めたい」と言う=曖昧な関系の終わりを宣言するというラストが物語は確実に終わりに向かっていることをわからせてくれる。(成馬)

■タイムカプセル
 信子が公園でみつけた、近所の子供のものらしいタイムカプセル。そこには彼女達が手作りでつくったキィホルダーが大切にしまわれていた。信子は修二と彰にこのタイムカプセルを見せて、自分たちのやったことは意味のないことではなかったのだと力説する。
a0048991_2245076.jpg これもまた、メディアを通してメッセージを発進し続けるスタッフの思いのようなものなのだろう。幸いにもこのドラマはヒットしているが、それが私たち視聴者の心に何を残したか……それが問題なのだとこのシーンは訴えている。(市民)

a0048991_2150734.jpg■次に進むしかない
 結局、キィホルダー販売に失敗し、大量の在庫を抱えてしまった修二たち。止目に謎の妨害者に在庫を台無しにされてしまった彼等は「次に進むしかない」と言って失敗を認め、在庫を処分する。この挫折はかつて詩人への道を諦めた横山の失敗や、実家の会社を継ぐことを拒否して家出したはいいものに、すぐに経済的に行き詰って実家に戻った彰の父の挫折にも重なる。この物語において、失敗することは決して負の価値ではない。横山や彰の父と同じように、こうして試行錯誤を繰り返すことこそが大切なのだと、この物語は訴えているのだ。(市民)

■「鯛焼きの頭の方を食べてると幸せな気持ちにならない?」
 彰は野ブタと修二にこのことを聞くが二人は「別に」と言う。 そういう気持ちになるのは父親との思い出が元にあり、それに気付くことがオチになっているのだが、一方で彰は「やっぱ俺だけか」とつぶやく。 みんないっしょだった一体感の喪失の予感は、ここでも暗示されている。(成馬)a0048991_21503441.jpg

■ちゃんとした人間になる。」
 修二はラスト、進路希望用紙にそんな目標を書いた。そう、第1話で信子と一緒にいる修二の前にひらりと舞い降りたキャサリン教頭が、「こいつ、ちゃんとした人間に教育してやって」と、どちらに向けたのかをぼかすかたちでかけた言葉だ。結果的に、上辺のことにとらわれすぎな修二を、野ブタが導くというかたちで伏線が回収されたわけである。
 これは第1話を観て以来の感想でもあるが、修二は最初から、決して自分が思っているほど、数量的な価値や勝ち負けだけを重視し、「心」を信じない上辺づくろいの空虚なゲームに身をやつしている人間ではない。何かに本気になって、それが挫折して今回のように余裕なくヘコむことを無意識に恐れているゆえに、万事を「ゲーム」と割り切るよう、常に自分に言い聞かせているだけなのだ。そうして自分を誤魔化している状態が「ちゃんとしていない」ことを、どこかでわきまえているからこそ、いつも最後の最後では大事なことにちゃんと気づくし、そういう彼の本質を見抜いているからこそ彰や野ブタは信頼を寄せる。あの家族の中で育って、そんなに虚ろな人間になるはずがないのだ。 (中川)
 
■不真面目なのか? いや、真面目なのか
 ラスト前、修二、彰、信子の3人が提出した進路調査用紙を見て、横山先生はこう漏らす。「ちゃんとした大人になりたい」修二、「道端の十円玉」と書いた彰、そして「笑って生きる」と書いた信子。無論、こういう公の場で個人的な思いをぶちまけることは不真面目な行為に映るかもしれないし、「イタい」行為かもしれない。しかし横山先生はこれを「真面目」なのだと思い直す。冒頭での修二のモノローグにあったように、高校生が一週間やそこらで将来のことを決めるなんてまず無理なことだ。だから、彼等はジタバタともがきながら、試行錯誤を繰り返しながら、少しずつ前に進んでいく。確かに時間は限られているが、それを暖かく見守る大人たちに、幸いにも修二たちは恵まれているのだ。(市民)a0048991_21505360.jpg

■大人たちの背中
 冒頭、「俺たちもあんな退屈そうな大人になるのかなあ」と出勤途中のサラリーマンを見つめていた修二の視線はラストシーンでは大きく変化している。そう、冒頭では自分が「大人になる」ことを想像もつかなかった修二だが、このシーンでは「あの人たちも自分と同じように葛藤を抱えていたんじゃないか」と想像している。これは決して妥協でもなければ敗北でもない。ゆっくりとした歩みではあるが、確かな成熟である。(市民)
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by nobuta2nd | 2005-11-24 21:52 | 第6話


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