2005年 12月 04日

『すいか』ロングレビュー

■「すいか」とは

「でも、私も逃げたい。親から、仕事から、こんな自分から、あらゆるものから、私も逃げたい」
「そりゃ、誰だってそうです。でもね。ここに居ながら、にげる方法が、きっとある、それを自分で考えなきゃダメです」     
                                  すいか第4話より
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 すいかは「野ブタ。をプロデュース」の脚本家木皿泉とそのスタッフによって2003年夏に日本テレビの土曜9時枠で放送された連続ドラマだ。
 放送時は地味な題材で視聴率も低かったが今に至るまで熱狂的な大人のファンが多く
 04年には向田邦子賞も受賞している。
 もし「野ブタ。~」を見て華やかな学園モノの裏にある切ない部分、ある種の無常観に裏打ちされた優しさが気になった方がいらしたら是非見てほしい作品だと思う。
本稿ではそのささやかなガイドラインを提示したい。

 物語の内容は親友の失踪をきっかけにハピネス三茶という下宿に32歳にしてはじめて一人暮らしをすることになった早川基子を主人公に、彼女を通して大袈裟に言うなら「今・ここ」でどう生きていくか?を描いた話だ。
と言っても、描かれているのは地球の滅亡とか燃えるような恋愛みたいないわゆるドラマテックな題材は存在しない、基本的には小さな下宿で繰り返される、日々の暮らしだ。当時はあまりに地味な題材のためそれがドラマになること自体に驚いた、
 脚本の木皿泉は「やっぱり猫が好き」に脚本で参加している(ただし98年度版)が、あのドラマにあったような女の子のとりとめのないおしゃべりの日常感覚,マンガで言うと岡崎京子の「くちびるから散弾銃」や高野史子の「るきさん」を思いうかべてもらえると以外と近いのではないかと思う。ただし「やっぱり猫が好き」や「唇から散弾銃」は80年代バブルのど真ん中に放送されていて、80年代後半と2003年という舞台の違いは否応なく現れている。
 その違いは「今・ここ」で生きていくことの不安、あるいは社会の外へ逃げ出したいという願望だ。このドラマには普通に生きている人の不安が細かく描写されている。


■「世界の終わり」から「世界の外」へ

 物語は冒頭、中学生時代の早川基子と双子の姉妹(内片方はのちに再会する絆)がハルマゲドンの話をする場面から始まる。夕暮れ時、隣の家からのカレーの匂いを嗅いだ三人は、「この匂いもなくなってしまうのかなぁ」と切なくなる。そして舞台は現代に飛び
「それから20年後の2003年、夏。地球はまだあった」とクレジットが入る。
ハルマゲドンという非日常とカレーの匂いという日常の対比から来る、あらゆるものが終わりゆく無常観「野ブタ。をプロデュース」をご覧になってる方ならご存知のあの切なさは「すいか」の時点ですでに完成していたといってもいい。
 そしてこの世界を知る上で重要なのは、世界が終わらないという閉塞感だ。
 もしかしたら、何故「世界が終わらない」ことが辛いのか?今の若い子にはよく理解ができないかもしれない。俺が思春期の頃90年代前半はやや賞味期限が切れ気味とはいえノストラダムスの大予言はそれなりに人気で内向的な中高生にとっての一般教養だった。
 1999年恐怖の大王が降臨する。よくわからないが(当時は核戦争なんかがイメージされてた)1999年に世界は終わる、あるいは最後の戦いが始まる。その日に備えてがんばろう?
 そんないつか来るあの日を思えば、「今・ここ」をうまく生きられる。その意味で滅亡すら未来だった。人はどんな形であれ未来があれば、そこに向かって生きていける。
 だからこそ例えば鶴見済の「完全自殺マニュアル」のデカイ一発はこない。という言葉は強烈だった。これに岡崎京子のリバーズ・エッジで描かれた「平坦な戦場」そしてオウム事件以降に宮台真司が提唱した「終わりなき日常」、これは言うなれば未来という言葉の死亡通告に等しかった。
 あの時、世界滅亡という甘美な未来を私たちは失ったのだ。


■早川基子と馬場万里子

 さて世界が終わらない、いつもと同じことの繰り返しの世界で人はどう生きるか?
「すいか」には、その「今・ここ」に耐えられず、世界の外にはみ出してしまった人物と早川基子のような苦しみながらこちら側に止まってる人間とが対比になっている。

 早川基子の同僚の馬場万里子は信用金庫のお金を使い込み失踪し亀田絆は双子の姉、結は結婚前に自殺し柴本ゆかの母親は男と駆け落ちし出て行っている。そして崎谷夏子の余命わずかの親友が居て、30年前に燃えるような恋をしたリチャードもなくしている。ここで世界の外に飛び出した人間を主役に添えれば例えば桐野夏生の「OUT」や「グロテスク」のような作品になるのだが、「すいか」では対となるこちら側の人間の側から描写される。例えば絆と結の双子の姉妹が象徴的だが、残された彼女たちはまるで自分の半身が切り取られたような喪失感を抱えていて、彼女たちの失踪、あるいは死をどう受け入れるか、そしてどう踏み止まるかが主題となる。
 基子や絆が抱えてるものは同じことの繰り返しと思ってた世界の自明性を壊された痛みだ。日常が強固でびくともしないのに、確実に押し寄せてくる死や不安。馬場万理子の失踪をきっかけに早川基子はその(自分もそうなってしまうかもという)不安、喪失感を埋め、抗うため、まず一人暮らしをはじめ、今までやってこなかったこと、例えば友達にお金を貸したり、ペーパードライバー返上のためドライブに出かけたり、子供の頃から溜め込んできた貯金箱を開ける。
 それは世界の外に飛び出す、犯罪や駆け落ち、あるいは自殺に較べるとあまりに小さな、小さすぎることだが、その小さな物語の積み重ねが私達視聴者に与える印象はとても豊かで面白い。同じように毎回挿入される食事や食べ物にまつわるシーンも豊かだ。
 そして最終話、早川基子を迎えにきた馬場万里子は、その生活の片鱗を見てこう言う。


「ハヤカワの下宿、行った時さ、梅干しの種見て、泣けた」
「朝御飯、食べた後の食器にね、梅干しの種が、それぞれ、残ってて――何か、それが愛らしいといっていうか、つつましいって言うか―――あ、生活するって、こういうことだなぁって、そう思ったら、泣けてきた」
「掃除機の音、ものすごく久しぶりだった、お茶碗やお皿が触れ合う音とか、庭に水まいたり、台所で何かこしらえたり、これ皆で食べたり―――みんな私にないもの」
「私、そんな大事なもの、たった三億円で手放しちゃったんだよね」  

                                 すいか10話より


 そして馬場万里子は飛行機のチケットと基子が頼まれた買い物のメモを並べてどっちだ?と問う
「ハヤカワの人生だからハヤカワが選びな」
 早川基子はメモを選ぶ、そして馬場万里子に「次、家に来るときさ、これ買ってきてよ」
と鍋の食材を書いたメモを渡す。馬場万理子は「大事にするよ、こっちに戻ってくるための切符だからね」と言う。
「すいか」の世界は切なく不安だが優しいのはこういう所だ。彼女には戻ってくる可能性と向い入れる人がいるのだ。

■「終わる」場所

 また時を同じくハピネス三茶から長年住んでいた崎谷夏子が出て行くという。
 大学を辞めた彼女はこれをきっかけに世界に出て学ぼうという。これもまた世界の外に出る行為だが否定的には描かれておらず肯定的だ。そして旅立つ崎谷夏子に対して柴本ゆかは言う。

「約束してくれますか?例え、ここを出て行っても、死ぬ時は必ず戻ってくるって」

 「すいか」の世界には当たり前に残酷な事実が自明のものとして描かれている。
 それは全ての事柄には始まりがと終わりが出会いと別れが生と死があるという、どうしようもない事実だ、どんなに豊かになっても自由になっても「終わり」から私達は逃れられず、むしろ自由であるが故に「終わること」あるいは死や別離の恐怖が肥大化しているとすら言える。
 だが柴本ゆかのこの台詞には終わりや死は避けられないかも知れないが「終わる場所」は選べるのではないか?という希望のようなものが見える。それは人によっては悲しい終わり方かも知れないが、それでも自分で選べるということはすばらしいのではないだろうか?
 物語のラスト、早川基子も他の登場人物も決して日々の苦痛が解消されるわけではない、ただ、今まで同じと思ってた日々が少しづつ違う日でそれは一度きりなのだということだけは実感する。

遠くまで届く宇宙の光 街中でつづいてく暮らし
ぼくらの住むこの世界では旅に出る理由があり
誰もみな手をふってはしばし別れる
                    小沢健二 「僕らが旅に出る理由」より

 もしかしたら「野ブタ。をプロデュース」を今楽しんでいる中高生のコにはまだこのドラマは取っ付きにくいかもしれない、でも「野ブタ。~」を見て切なさや無常観から来る優しさを感じとったなら、是非ためしに見て、そして今回はあくまで紹介に止めたため引用できなかった、宝石のような言葉の数々に出会ってほしいと思う。それはきっと私達の日常を豊かにしてくれるだろう。  (成馬01)
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by nobuta2nd | 2005-12-04 22:23 | すいか


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