週刊 野ブタ。
2011-09-18T07:49:24+09:00
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テレビドラマ「野ブタ。をプロデュース」の視聴ガイド
Excite Blog
「週刊 野ブタ。」INDEX
http://nobuta2nd.exblog.jp/3022089/
2006-01-14T23:08:00+09:00
2011-09-18T07:47:26+09:00
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INDEX
このブログはドラマ『野ブタ。をプロデュース』の魅力を徹底解析します。
第二次惑星開発委員会がお届けする「野ブタ。」ガイドの決定版です!
第1話 第2話 第3話 第4話 第5話
第6話 第7話 第8話 第9話 第10話
座談会『野ブタ。をプロデュース』
原作ロングレビュー
『すいか』ロングレビュー
第二次惑星開発委員会発行のミニコミ誌「PLANETS」Vol.2に『野ブタ。』の脚本家・木皿泉さんのロングインタビューが掲載されます。(8月13日 コミックマーケット70にて発売)
『週刊 野ブタ。』ご愛読のみなさんは、ぜひご覧になってください!
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惑星開発座談会『野ブタ。をプロデュース』
http://nobuta2nd.exblog.jp/3021834/
2006-01-14T22:34:56+09:00
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座談会
「週刊 野ブタ」の総決算として、本サイト第二次惑星開発委員会にて、座談会を行いました。
惑星開発座談会
第18回『野ブタ。をプロデュース』
こちらもあわせてご覧ください。]]>
第10話
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2005-12-22T23:23:52+09:00
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第10話
公式サイト
■善良な市民
前話(第9話)で「ラスボス」蒼井かすみとの決着がつき、最終話(第10話)は拡大枠でじっくりと3人組の時間の「終わり」が描かれる。父親の転勤で修二は学校から去り、彰と信子はそれを受け入れて次のステージに進んでいく。そう、「野ブタ。」の事実上の最終回は第9話であり、この第10話は「次」へ行くための回なのだ。この物語を通して、「世界のすべてを恨んでいるような」存在だった信子は「笑えるように」なり、教室の中のキャラ売りゲームにしか関心のなかった修二は、そのゲームの限界を知り「どこへ行っても生きていける」という確信を手に入れる。楽しく、美しく、特権的な時間は終わりを告げたが、それと引き換えに彼等は「次」へ行くための武器を手に入れたのだ。
少し突っ込むと、このドラマの主人公はやはり修二だったのだと思う。そう、これは冒頭、教室の中の小さなゲームの有能なプレイヤーにすぎなかった修二が、物語の最後では世界に無数にちらばる「小さなゲーム」のどれに参加しても「生きていける」(「勝てる」ではない)ようになるまでの物語に他ならない。前回までのようなスリリングな展開を期待していると肩透かしを喰らうが、今回はいわばこれまで観てくれた視聴者に対するサービス&総まとめだ。じっくり味わって感慨に浸って欲しい。
■成馬01
本筋の話は前回8,9話で終わっていて、この回は後日談という感じで終始おだやか。
前回までの緊張感を覚えてるとあまりの平和加減に拍子抜けするが むしろここに木皿泉はたどり着きたかったんだろうなぁと最後の幸福感を満喫しながら思った。
多分大方の視聴者が「?」と思うのは修二の転校先に彰が付いてきたことで、「いいの?」と思っただろうけど、かつて修二と彰が居た机がポツンと残る教室と一人になった(正確にはまり子と歩いているのだが)野ブタを見て、一瞬修二と彰は最初から居なかったというオチなのか?と疑った。もちろんそんなことはないのだが、彼ら二人は大島弓子がよく描いてたような10代の何もない不安な女の子にとっての架空の王子様のような存在だったのかなぁと思った。
まぁそれは若い視聴者にとってのアイドルなのだが、最後の最後で正しいアイドルドラマへと帰還したなぁと思う。そしてラストの「俺たちは何処ででも生きてゆける」というモノローグを聴いて「あぁ平坦な戦場から、やっと此処まで来たんだ」と納得した。
それにしてもラストの廊下を走る野ブタのカットから海辺の修二と彰のシーンへの流れはすばらしい、つい脚本の言葉の良さに関心が行きがちだけど、それをうまく咀嚼した演出のすばらしさも、この作品を支えた要因だったんだなぁと再確認させられた。 とにかく幸福な「お別れ」であり最終回だったと思う。
■中川大地
映画や小説に比べて、民放連続ドラマというメディアのどうにもツラいところは、リアルタイムの視聴者の反応が、物語の要請とは関係なしに表現の枠が、内容や尺の面で大きく影響を受けてしまうこと。下手に人気が出たために、物語的にやることが残っていないのに「最終回○分拡大スペシャル」にせざるをえなくて、各登場人物への「キャラ萌え」だけが目的の不要なエピソードを延々つなげている感は否めず、伏線と主題と演出が緊密に設計されていた『野ブタ。』の構成美に魅せられていた身としては、最後にちょっぴり残念な気分にさせられてしまいました。まあ、話自体は前回で決着がついているし、あとはこれまで応援してくれた視聴者に向けて余韻を提供するファンサービスとしては充分に役割を果たしてるんですけどね。
ただ、『木更津キャッツアイ』が最終回でも「いつも通り」を踏襲しつつ、きっちり練り込まれた仕掛けで最後の最後まで主題的・演出的なテンションの落ちないさまを見せてくれたことを思い起こすと、その水準を超えられなかったという点では不満は不満。もっとも、『木更津』と同じく第9回を事実上の最終回と考えて今回は『日本シリーズ』みたいなオマケと考えれば見劣りしないで済む……なんて考えてしまうのは我ながら贔屓の引きだおしも過ぎるか(笑)。
しかし、すっかり健気で可愛い不器用キャラとして上がった野ブタ、順当に優しい気配り屋に大成した修二に比べ、あくまで子供チックな快楽原則で最後のワガママを通してしまう彰をオチにしてくれたことは、寂寥感一辺倒にならずに彼らがまだ成長途上な青春のただ中にあるってことで良かったのじゃないでしょうか。信子はそして、修二と彰(とかすみ)を媒介に、教室内の空気に流されないまり子という最強の青春アミーゴを得て。
屋上から3人が眺めてきた空は、一貫してずっと黄昏のオレンジ色だったけれど、旅立つ日の後は抜けるような青空をお互い見上げ合う絵が、すごく綺麗なラストだった。
【今週のチェックポイント】
■サンタの夢
冒頭、夢の中でサンタに欲しいものを尋ねられた野ブタが、自分は欲しいものがないから修二に振り、次は修二の夢に出てきたサンタを彰の方へと振るが、彰は思わずカレーパンと口走ってしまう。案の定、その話をしていた直後に商店会の催しでサンタの格好をしていたおいちゃんがカレーパンを持ってくるあたり、お互いの夢が通じ合って実現化する前回のブタのお守りの効果が続いている(?)わけだが、そこでバトンを野ブタに回して綺麗に「友情の円環」と作らなかった彰が責められて二人に速攻で帰られてしまうのが可笑しい。このあたり、後のクリスマスでのプレゼント交換の伏線……というほどでもない前フリである。(中川)
■下の名前を覚えてもらってなかった彰
屋上に呼び出した修二と野ブタへの彰の改めての頼み事が、「下の名前で呼んで」。で、「下の名前って何?」というお約束すぎる修二(笑)。ここで最終回にして初めて野ブタに名前で呼んでもらうわけだが、「アキラッッ!」と怒ったような不自然でぎこちない発音になってしまうあたりの萌え設計はあざとすぎるだろ演出ッ!! とにかくこの最終回、実はなにげに全編にわたってアキラッッ!のヨゴされっぷりが際立っている。(中川)
■不発のドリカム状態
この仲良し3人組はいわゆる「ドリカム状態」にある。彰は信子が好きなのだが、7話以降の描写を考えると信子が好きなのは明らかに修二の方だ。これはサークルクラッシュを期待させる(笑)展開なのだが、勿論本作では不発に終わる。この最終回でも、お守りをどちらに渡すかで迷った信子は結局どちらにも渡さず川に投げ捨ててしまう(その直前に彰に譲ろうとする修二もポイント)。これは後半、恋愛がこの「美しい関係」(笑)の終わりをもたらすものとして描かれている(彰が恋心に気付くことで関係が壊れかけて、諦めることで持ち直す)ことを考えると興味深い。彰も信子も、恋愛に鈍感なのではなく十二分に自覚していながらもそれをあえて引っ込めているのだ。恋愛よりも大切なものがあるのだとでも主張するかのように、3人のドリカム状態は壊れることなく終わりを迎える。……まあたしかにここで三角関係でドロドロしたら、一生の友達にはならないだろうけどね(それはそれで青春だけど)。 (市民)
■3人の打ち明け話
おいちゃんの家で、「あのさ」と同時に真情を告白しようとする3人。野ブタは、突撃レポートで人気者になるのがいい加減辛いのでそれを辞めたい、と。彰は、一度はぬか壷に封印して忘れようとした修二を後ろから抱きしめる野ブタの件を、やっぱり訊ね直そうとするが、壷の中からなかなか写真が見つからない。そして、それを彰が探す間に修二は、年明けには転校して皆とお別れになることを話す。ショックで飛び出す野ブタを彰は追い、公園で悲しみに暮れる野ブタの背を、あの写真のシチュエーションと同様に抱きしめられる位置まで来るのだが、ついに彰にはそれは出来ず、彼女にマフラーを巻くだけに終わる。
思えばここでその背を抱いて彼女の中に踏み込み、残される二人の世界を築くという選択が可能なだけの成熟を彰ができていなかった時点で、彼がラストにああいう行動をとるのは必然だったのである。(中川)
■プロデュース成功?
お昼の放送番組が決定打となって、ついに人気者になった信子。しかし信子はその状況に戸惑い、番組を降りたいと漏らす。そしてプロデューサーである修二自身「人気者になるのがいい、というのがわからない」と漏らす。たしかに修二たちのプロデュースは成功した。だが、それはプロデュースの課程でもっと大切なものを手にいいれた彼らにとっては既に「どうでもいいこと」だったのだ。
■野ブタの巫女バイト
で、「寂しいのは私たちじゃなく修二の方だ」と独力できっぱり立ち直った野ブタは、修二のために何ができるかと問うが、これに横からアイディアを出したのも彰。巫女さん姿で野ブタパワー注入してほしい、と……。そう、優しさや思いやりは一番だけど、自己の欲望や快楽原則のカタチを自覚できてないゆえに、自分との関係を築きたがってる相手に適切な要求ができない修二と、前の瞬間には思ってもいなかったような欲望の形象化が可能で、ときに甘えが暴走してしまう彰とはまさに「二人でひとつ」なのだ。
そして即座に「たのもー!」と実はデルフィーユの実家だった神社を訪ねて巫女ちゃん化してしまう野ブタの天然系の萌え属性は、ほぼ彰の潜在欲求が開発したものだ。彼女が将来、これを自覚的・無自覚的に駆使するようになると……そら恐ろしい置きみやげをしてくれたものだ。(中川)
■神木を折ったバチ
誤って神社の神木を手折ってしまった野ブタ。そのバチが彼女の一番大切な人に当たってしまうのだという。バチを回避するお札を、修二と彰のどちらに渡すべきか迷った挙げ句、川に投げて「3人で一緒にバチ当たろう」と覚悟する彼らだが、実際に階段から転げ落ちて大けがをするバチかぶったのは、なんとシッタカだった……。このへん、第5話以来放りっぱなしだった彼を意外なオチに使った単なる肩すかしギャグとも思えるが、あえて深読みすれば、シッタカが代わりにバチかぶることでじいさん介抱で株を下げた件を清算し、修二も彰もいなくなる今後の教室で彼が野ブタの一番大事な人になれる可能性を回復するという「救い」なのかもしれない。(中川)
■誰かのために
父親の「ここに残ってもいいぞ」という提案を拒否し、結局自分を殺して修二は転校を決意する。周囲の人間は彼に言う「もっと自分のことを考えていい」と。しかし修二は言う、自分も信子のために何かをしているときが充実していた、だから「誰かのために」でいいのだ、と。修二がこの数ヶ月で得たもの、学校の中でのキャラ売りゲームの外側で得たものは、要はこういうことだったのだろう。そう、この最終回のテーマを強いてあげるならこの「他の誰かのために」という思いに他ならない。だから修二は転校を選び、彰は修二を追いかけ、信子は自身の想いを封印して彰を修二の元に送るのだ。(市民)
■「考えとく」
前の一件以来学校を休んでる蒼井の家に向かう野ブタ。
「また小谷さんのこといじめちゃうから」という蒼井に対し「いじめられても平気になるから」という野ブタ。このシーンの前に修二が誰かのために動いてる時のほうが自分らしい、あいつもそうなんじゃないか?と言うが、思えば野ブタはいつもそういう対応(嘘付かれたらついたほうも辛いんじゃないか?、引っ越す修二の方が辛いんじゃないか?)をとっていた。そこら辺が最後の最後でいじけてし引きこもってしまわなかった野ブタの資質だったんではないかと思う。
そしてその野ブタに対してわかったでなく「考えとく」と答える蒼井。安易な和解は描かない代わりにその予兆をしめした時点でギリギリOKかなぁと思う。 (成馬)
■キャサリンの餞別とクリスマスのプレゼント交換
終業式の日、3人に二つ集めると幸せになれるという人形を一つずつ渡し、運と努力でこれを増やして、他の人に幸せを分けてあげられる人間になるよう、キャサリン教頭は最後のメッセージを伝える。そしてクリスマスの夜、プレゼント交換をした3人ともがそれぞれ自分が貰った人形を贈ったため、結局3人の手元には一つずつの人形が残る。努力だけでなく、自分の力ではどうにもならない運をも幸せへの道にカウントするあたりが、このドラマらしい価値観だ。(中川)
■まり子との最後の時間と野ブタ
ホワイトクリスマスで窓の外を眺めながら極めてイイ雰囲気で、「好き」という気持ちを教えてくれた野ブタに言葉にしつくせない感謝を告げていた修二が、最後に口にしたのはまり子への気持ち。「まり子はどうするんだよ、まり子は!」とハラハラしながら二人の語らいを見守っていた全国のまり子派は、キターー(゚∀゚)ーーッ!!と快哉をあげたことであろう(笑)。
かつてまり子とテキトーなその場繕いで交わした「海へ行く」約束を、教室の手作りデコレーションと彰・野ブタが協力しての波の音放送で果たし、自作の弁当を食べさせてあげる修二に、こっちのバーチャル乙女心はキュンキュンキュンキュンときめきっぱなしだっつーの(;´Д`)。「次に会うときには、もっとまともな人間になっているから」という彼の言葉も、まり子という女、否、人間の価値をよくわかっていて、清々しいことこの上なし。
修二が最後に学校で見たのが、仲良くするまり子と野ブタだったという光景も心に染みる。うんうん、好きな女の子たちが喧嘩せず仲良くしてるのって、ホント幸せな気持ちになるもんだよね……。(中川)
■すべてのゲームに勝とうとするな
ラスボスを倒した後の長いエピローグである第10話には、セリフで直接テーマを語ってしまう大サービスが満載だ。横山先生が転校する修二に贈った言葉はその代表例と言ってもいいだろう。「お前の悪いところはすべてのゲームに勝とうとすることだ」……そういって横山先生は修二を「スペードのエース」にたとえる。たいていのゲームにおいて最強のカードである「A」。しかしゲームによっては「2」の方が強かったりもするし、「大富豪」では革命も起こる。だから横山は言う「自分の勝てるゲームで勝負しろ」と。……これは第1話から繰り返されてきたこのドラマの基本的な世界観をついにセリフで言ってしまった場面だ。
世の中は、異なるルールをもつ小さな世界の集合体であって、その小さな世界ごとのルールをメタ視したものが勝つ……。修二はメタ視するところまでは出来ていたのだが、それで満足してしまい、自分のやりたい事、欲しいもの、適性などを吟味して「自分に合ったゲーム」を選び取るという可能性が視野に入っていなかったのだ。日本語でこういう人間を「器用貧乏」という(笑)。 (市民)
■修二を見送るクラスメイト
普通のドラマなら感動の別れのクラスメイトに見送られるシーンだが、今までの展開から考えて白々しさを感じる人もいるかもしれない。
まぁそこら辺は九話の中川さんの分析にもあるように、そもそも、大衆とはその場の感情のみで動き後に引きづらない忘れっぽい存在なのだと作り手が思ってるのだろう、結局修二たちが翻弄されてたのは蒼井でなく、この無責任さで、これには誰もかなわなかった(まぁ戦う必要もないのだが)。むしろここで大事なのは修二が取り囲むクラスメイトでなく後ろにいる彰と野ブタ、そして外れの方にいる蒼井に目をやることで、この距離感と視線の交差がそのまま今までの人間関係の縮図になっている。まぁこれ自体、生徒役のコたちへのボーナスカットみたいなものなのだろうが、修二の中の優先順位が露骨に出ててドライなシーンに仕上がってるなぁと思った。(成馬)
■修二の転校先に転校する彰
親父の仕事のやむなき都合で望まぬ転校をした修二を追って、親父のスネをかじってカネの力でヘリまで出させてムチャな望みをかなえてしまう彰をどうとらえるか。第6話で自ら望んで道ばたの10円玉をやることにし、第7話で「諦める」ということを知るという成長を、お前は果たしたはずではなかったのか!
……というようなボンボンな彼の相対的な未成熟へのツッコミも庶民感覚では当然であるが、それは違うのである。第1話で、自分の欲望について修二以上に空虚で、ただ父親の決めた不自由な道を歩むのが嫌だというだけだった彼が、野ブタと二人の世界を築くには男を磨き足りていない自分を自覚し、その足りないところを補ってくれる「二人でひとつ」ともいえる半身を、自分の境遇で頼りうる最大限の力にアクセスしてでも、遮二無二求められるようになったのは大きな進歩なのだ。おそらく画面の裏では、親父と大喧嘩しながら筋を通し、将来シャチョさんになる覚悟もそれなりに固める「己の身のアキラめ」をしたうえでの選択だったことは、想像に難くない。
庶民には庶民の、金持ちには金持ちの相異なるリアリティがあり、それぞれなりのオーダーで現実のままならなさ(たとえば、彰の家の財力をもってしても、修二の父の転勤を取り消しにはできない)に立ち向かう成長像がある。つまり体験に恵まれない金持ちは、まっとうな人間になるために、若いうちの苦労さえカネを払ってでも買わなければならないということだ。そして彰にとってはこれも、横山先生の言う「自分の勝てるゲーム」を探すやり方のひとつなのである。(中川)
■野ブタスマイル
金の力にモノを言わせて強引に修二のあとを追ってきた彰。物語の余韻を台無しにしかねない大どんでん返しのギャグだが、これは最後、修二ではなく信子を一人に戻したかったのだと思う。ラストシーンの直前、ようやく獲得した笑顔を見せる信子の傍らには誰もいない。しかし、信子の物語としてはこれでいいのだと思う。彼女はやっとひとりで歩けるようになったのだ。(市民)
■川から海へ
都立隅田川高校を後にした修二と彰の新天地は、どこかの浜辺の県立網五(アミーゴ、ですね)高校。川のほとり(リバーズエッジ)に野ブタの居場所を作って旅立った彼らは、今度は大海をのぞみながら、早速ヤマザキと海ガメのために奔走する。第1話で川を下って、どこかに新たな生き場所をみつけ、また誰かの大事な心の支えになっているかもしれないあの柳の木のように。(中川)
■どこへ行っても生きていける
ラストシーン「どこへ行っても生きて行ける」と独語する修二。そう、今の彼は自分が拘泥していた小さな世界のローカルルールの外側に、しっかりと価値をみつけている。それが何かはもはや語る必要はないだろう。どんな場所のゲームにアクセスしても、ゲームのルールに左右されない確かなものを既に手に入れた修二は「どこへ行っても生きていける」のだ。 (市民)
※近日 このメンバーで「野ブタ。」総括座談会を企画中ですので、『野ブタ。』ファンのみなさんはお楽しみに! このブログでもお知らせします。
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第9話
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2005-12-15T22:25:51+09:00
2005-12-19T18:18:52+09:00
2005-12-15T22:25:51+09:00
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第9話
【今週のあらすじ】
修二たちのプロデュース作戦を邪魔する真犯人が信子の唯一の友達、蒼井かすみである事が判明し、修二は信子を傷つけまいと真実を頑なに伏せる。しかし蒼井は、修二の優しさや想いを利用し、3人にじりじりと接近してくる。
そんな矢先、蒼井が、プロデュース作戦に参加させて欲しいと言い出し、真犯人の秘密を守り通したい修二はその要求を受け入れる。修二、彰、信子の3人は、蒼井の強引なプロデュース作戦に振り回され・・・。
公式サイト
【今週のストーリー解説】
■善良な市民
蒼井かすみとの決着がつく第9話。蒼井かすみとは言ってみれば修二たちがこれまで対決した「悪意」の象徴だった。人間には「人の幸せを素直に喜べない」ところがある。蒼井はそんな負の感情の象徴であり、常に被差別階級を目の見えるところにおいて安心したがる大衆の象徴であり、そして、状況をメタ視する力を悪用する「もうひとりの修二」でもある。
結局、蒼井は敗北する。修二にではなく、自分にだ。蒼井の「修二たちの友情ゴッコがむかつく」「凡庸な自分を覚えておいてほしい」という欲望は、決して修二たちを追い詰めることでは解消しない欲望だったのだ。だから結局、蒼井は「取り返しのつかないところ」まで行くしかなかった……。
物語は蒼井を一度殺す。おそして夢オチという反則スレスレの技を使って彼女を呼び戻す。そう、ここで死んでしまうこと、世界を、日常を終わらせてしまうのはあまりにも安易だからだ。その底なしの空虚さを抱えて、蒼井はこれからも生きていかなければらなない。彼女になくて、「もうひとりの蒼井」である修二がもっていたものは何か……。それをラストでキャサリン教頭は優しく諭す。
この物語は少年少女たちに厳しい。簡単にセカイを終わらせてくれない。だがその一方ではとても優しい。いい大人たちが、ほどよい距離で見守ってくれている。
正直、やや通俗的なところが目立つ第9話だが、若ければ若いほど、この物語に出会えたことを大切にしてもらえたらと僕は思う。
■成馬01
率直に言うと、ここが「野ブタ。をプロデュース」の臨界点かなぁと思った。今更言うまでもないけど野ブタは優れた作品で自分が見てきたドラマの中でもベスト10に入る出来だと言っても言いすぎではないと思う。でもこの回、特に蒼井かすみの描き方次第ではよく出来たドラマ以上のものになる可能性があったのだ。ただそれは同時に今まで積み上げてきたものを徹底して破壊して終わる結果になりかねない、その危うい状況をなんとか、しのいで元の路線に軌道修正した形跡が多々見られる回だったなぁと思う。その意味で破綻すれすれの危うさが全体に漂っていた。
こう書くと読んでる人は蒼井の処遇、自殺が夢オチだったことに俺が不満を持ってるように感じるかもしれないけど、実はああいう流れになることは先週「セブン」を引き合いに出した時、何となく予測はしていた。夢オチ自体も四人が夢を見て、人型の後が残ってる描写によって精神的には死んだものと同じと捉えて納得している。ただそこに至るまでの過程というか展開が速すぎるし安易にまとめすぎな気がどうしてもする。あとクラスメイトと修二が野ブタのためといはいえ簡単に和解しすぎな気がした。それじゃ前回の絶望はなんだったの?そんなに簡単に回復するならどん底でも何でもないじゃんと思ってしまうと同時に結局彼らの鈍感さはジャッジされてないのだ。
今まで修二が対立してきたのは個人的な悪意でなく、もっとつかみ所のない匿名の集団が生み出す悪意だった。
一人一人はいい人で話せるんだけどそれが集団になった時得体のしれない鵺と対峙しているような気分になったことがないだろうか?無責任で飽きっぽく鈍感さゆえに暴力的な存在、あの場所で「野ブタ良いよなぁ」と言ってた人間がちょっと前までは平気で見下しいじめている。そういう存在の象徴として蒼井かすみがいたはずなのだ。(と同時に蒼井もまた彼らへの憎悪があったからこそメタ視点を持てたのだと俺は想像していた)せめて和解する前に彼らもまた試されるべきだったと思う。
この早急さが尺の都合なのか?木皿泉が深入りするのを避けたためなのか?はよく解らないが、そんな簡単に解消できる悪意だったの?と思春期には蒼井のように修二たちみたいな仲良しゴッコを嫌悪していた身としては思うのだ。
前回も書いたけど例えば自分が思春期にこのドラマを見て今のように素直に感動できたか?というと難しかったと思う。過ぎ去った過去だからこそ安心して感動できる部分はあるはずで、同時にソコに後ろめたさを感じていた。そういう欺瞞を壊すと同時に素直に野ブタへ行けない子をも取り込む最後の刺客こそ蒼井かすみだったんだけど・・・でもこれをこのドラマに望むのは筋違いな気もする、実際今回も例えばまり子が野ブタを励ますシーンにはホロっときたし、狭い共同体の人間ドラマとしての野ブタには不満はない。次週はいよいよ最終回なのでよく出来たアイドル青春ドラマとしてまとまってくれれば俺は満足だ。
■中川大地
まあ、まだ高校生だしねキミたち……てな印象。
これまでの展開や演出でこのドラマが垣間見せてくれた「とてつもない悪意」との対決というテーマ性からすると、正直食い足りない思いは否めませんでしたが、教室という狭い小社会の中でのちまい情報戦がすべてになりがちな子供たちの人間関係を、いろいろなマジックアイテム(今回はブタのお守り。チェックポイント参照)に仮託させるかたちで、大人たちの示唆や「外部」からの気づきが相対化し、ヤバイところに行かせずに乗り切らせていくというこのドラマの構造の集大成にはなっていたので、納得は納得。チェックポイントで見ていくように、一見通俗的な友情物語に落としたようでいて、細かいところを見ていくとなかなか皮肉な批評性も感じとれる部分もありますので。
今回の焦点はこのドラマの世界観における「ラスボス」になるかもしれなかった「蒼井かすみとは何者か?」ということだったと思うんですけど、「匿名の悪意の象徴」であるとか「修二の陰画としてのネガプロorメタプロ」といった意味性を過剰に突き詰めず、結局よくよく見れば、年相応の了見の狭さや寂しさや浅はかさを抱えた、修二たちをけまらしがってるフツーの女生徒に過ぎないんだというところに落とした「馬脚さらし」の選択はそれはそれで批評的だから、最終的には肯定かな、僕は。ただ、シリーズ全体のクライマックスとして、カタルシス的には拍子抜けではあるんだけど。
でもま、オイラ的には一貫してマジックアイテムの助けなしに自力でどんどんイイ女になってくまり子だけでゴハン3杯はイケルから、それでもう全部まるオッケーじゃけ!!
【今週のチェックポイント】
■ブタのお守り
前回母親からのおみやげで贈られてきたブタのお守りを修二が彰と野ブタに渡す所から今回は始まり、蒼井も修二の父親から余った一個をもらうのだが、これが最後の四人が同じ夢を見る伏線になっていたことに二度目に見た時に気づいた。そのことにはまったく触れてなく、修二にはわざわざ理由はわからなかったと解説させているが、野ブタが眠る瞬間、そして机のうずくまる蒼井の手にはしっかりブタのお守りが握られている。おそらく修二と彰もそうだったのではないだろうか?
そう考えると蒼井がブタのお守りを地面に叩き付けたシーンは3人から離れたという意味以上に彼女の身代わりとして壊れたことがしっかりわかる。ちょっと雑な構成だと思ってた自分が浅はかだと思った。(成馬)
■「仲間に入れてほしい」
桐谷家からブタのお守りを持ち帰り「仲間に入れてほしい」と口にする蒼井。彼女の動機のひとつが「青春を謳歌している3人組がねたましい」というものであることを考えると、これは意外と本音に近かったのかもしれない。(市民)
■彰にかすみの正体を話す修二
自宅を訪ねてきて嫌がらせの写真を渡し、野ブタのプロデュースに加えるよう要求するかすみのことを、前回のように独りで抱え込まず、修二は早々に彰に相談する。この時点ですでに修二自身の葛藤のドラマはほとんど終了していることを示す場面だ。シリーズで積み重ねてきたものの成果をはっきりエピソード化し、焦点をかすみの側の内面性に絞り込む作劇のメリハリ感が心地よい。(中川)
■呼び出しを受けた彰のおいちゃんとゴーヨク堂店主
この回のテーマは「友情」ともうひとつ、「騙される」だろう。おいちゃんは旧友の旅館の女将に呼び出され、「まさか」と訝る気持ちと淡い期待を抱きつつも、大量の健康食品を売りつけられた結果に放心する。デルフィーネは寂しそうな声の友達に夜の校舎に呼び出されるが、キャサリン教頭に「騙されたんじゃないんですか」と水を向けられながらも、現れない呼び出し主のことを思いつつ、月を見上げる時間を満喫する。かすみに騙されたことを許せなく思いながらも、彼女が自殺しなかった事実に安心しながら、その心持ちに思いを馳せる野ブタたちの心境と響きあわせる演出である。(中川)
■蒼井のプロデュース方法
3人の仲間に入った蒼井が提示したプロデュース方法はスカートの丈をかえて髪も結んで話し方も女らしくしたらどうか?というものだった。しかし評判はよくなく、普通とクラスメイトから言われてしまう。つまり欠点と個性ってのは紙一重なのだ。蒼井はプロデュースを自分じゃない自分を演出するという、実はこの回で蒼井がやってることはかつての修二がやろうとしたことだ。だからある意味でこの回は総集編的な作りになっていて、今までの負の部分を全部蒼井が担当しているという作りになっている。こういうことをするとどうなるのか?は観ている方はわかると思うが蒼井というキャラクターが突出してしまうのだ。だからショックを受けて引きこもる野ブタの再生劇や修二とクラスメイトの和解といった今までなら重要だったはずのエピソードが全部かすんでしまっている。
それくらい蒼井が放つ負の魅力が出てしまったのが、この回をバランス悪くしてしまっている理由の一つだ。(成馬)
■「いいよ、子供で。俺はただのガキです」
野ブタに我慢させ、辛抱させて、素の自分とは違うキャラを演じさせようとするかすみのプロデュース方針に対し、修二は無理な我慢や辛抱が他人に優しくできないイヤな人間ができるんじゃないの、と意見。そんなのは子供の言い分だと馬鹿にするかすみに、修二は迷うことなくそう即答した。第1話で、自分以外の周囲の人間を全員子供だとみなしていた彼の初期状態の演出と、くっきり対応させた台詞である。(中川)
■青春なんかうそ臭い
嫌がらせの犯人は自分だと告白し、信子たち3人の「仲良しゴッコ」がウソ臭い、と罵る蒼井。気持ちはわかる。いや実際に高校生やっている人間が、ドラマや映画で「美しい青春」を見せられれば、誰でも多かれ少なかれ「ケッ」という気持ちになるはずだ。けれど、安心していい。大人になればきっと許せるようになる。何を隠そう、この僕がそうだった(笑)。
ここで蒼井がイソップ童話の「酸っぱい葡萄」のような反応をしてしまっていることは想像に難くない。事実このドラマ自体「ジャニーズ主演の青春ドラマなんて」と思っている人は多いと思うが、君たちが蒼井にならないで済むためには、まずこの「酸っぱい葡萄」反応をしてしまうレベルから脱却することだ。素直になりなさい!
……少し横道にそれたけど、蒼井とは、こういう「素直になれない視聴者」の代表でもあり、この脚本はすでにそういった反応さえも劇中に取り込んでいる。(市民)
■蒼井VSまり子
「桐谷君は、本当はこの娘とデキているんだよ」
という蒼井の挑発に、「だから?」とまり子は動じない。やはり、まり子というキャラクターは、修二や蒼井が参加している「学校内のキャラ売りゲーム」の外側にいる存在なのだろう。だからゴーヨク堂で立ち読みもできれば、修二に本音を吐かせることもできる。そして蒼井の攻撃も通用しないのだ。舞台の外に立つ人間に対して、プロデューサーたちは無力なのだ。(市民)
■野ブタとまり子
蒼井の正体を知った野ブタのところに偶然(またしても)通りかかるまり子。
ショックで立ち上がれない野ブタのほっぺに焼き栗を当てるシーンは今回もっとも心温まるシーンだ。
そしてまり子と野ブタの「ずっと嘘つかれたまま仲良くしてた方がよかった?」「嘘つかれるのさみしいもんね」「でも、ずっと嘘ついてのも寂しいかも」「そうかもね」というやりとりは蒼井と野ブタの関系だけでなく修二とまり子の関係についてのやりとりでもあるのだ。
そして、この後の修二とまり子のやりとり「本当のこと受け入れるのすごく辛いけどできないことじゃないから」というのも同様だ。(成馬)
■修二とクラスの和解
かすみが嫌がらせの犯人だった事実を知ってショックを受けた野ブタを戻ってこさせるため、心からの言葉で頼む修二を、わだかまりの原因となったタニ以下クラスの皆は暖かく受け入れ、彼らの励ましで野ブタは帰ってきた。安易といえば安易だが、あえてヒネた見方をすれば、これも教室内世論を競う情報戦のうちのひとつである。誰だって悪者にはなりたくない。ここで野ブタの復帰に無関心を示すことは、今やクラス内での孤立を意味することになるのだ。そうした世論の動向を見きった修二は、ドブ板選挙で誠意を訴える政治家のごとく謙虚に深々と頭を下げて、見事、クラスの付和雷同な団結をうながす心地よい友情物語を大衆にギブしながら、野ブタ励ましと自身の地位挽回というテイクを得たのである。そして、それだけの成果を得るためには、自分自身もまた提供する物語を心から信じていなければならないのだ。
クラスの連中がジャッジされないのも当然。大衆とはそういうものだという諦念を前提に、より深く巧妙な人心掌握術をプロデューサー桐谷修二が体得していくのが、この『野ブタ。』というドラマの本質だという見方もできるからだ。(中川)
■ビデオレターの善意
この9話で一番引っかかるのは、登校拒否になった信子を学校に呼び戻すために、修二がクラスのみんなに呼びかけて、ビデオレターを作成する所だろう。これは、これまで仮面を被ってきた修二がはじめてクラスメートに真心で接して、それが通じるという感動的なシーンなのだが、このクラスメートたちは転校直後の信子をいじめ、そして修二たちのプロデュースによってあっさり手のひらを返すような連中である。と、いうより、基本的にこのドラマでは大衆と言うものはそう描かれている。なので、ここで急にクラスメート(大衆)が「ほんとうのことはどうだっていい/表面的なイメージだけが大事」な連中から「真心が通じる相手」に突然変化してしまっているのだ。ここはもう少しシビアに描かないと一貫しない。もちろん、彼等が信子をいつの間にか見直しているのはあくまで修二たちのプロデュースの結果なので、最低限押さえなければいけないところは押さえているのだが……。(市民)
■平気で笑っている蒼井
と、思いきや、ビデオレターに励まされて登校してきた蒼井は満面の笑顔で信子を迎え入れる。この描写はこれまでの「野ブタ。」らしい(笑)。蒼井の屈託のない笑みに心底ぞっとする。(市民)
■形勢逆転
最後の切り札(嫌がらせの犯人は自分だと暴露して信子を傷つける)を失った蒼井は、逆に嫌がらせの事実を暴露されることを恐れて追い詰められる。修二もそうだが、蒼井もまた、攻撃(表舞台には出ず、裏から他人をコントロールする)ことには長けているが、防御に回ると脆い。プロデューサーというのは、言ってみれば『ジョジョの奇妙な冒険』の「スタンド使い」のようなもので、本体を知られると弱いのだ(笑)。(市民)
■「覚えててほしい。嫌な思い出でも私がいたことを覚えていてほしい」
この前後にどうして人を試すような真似をするんだ?と彰は問い、修二は「こいつはこういうやり方しかできないんだ」という。観ていておしいのは前回予感させた修二と蒼井のドラマがここくらいしかなく(「桐谷くんは何でもお見通しね」という台詞にはあなただけが私のことをわかってくれるはずという期待に俺には聴こえてしまう)蒼井と野ブタの関系に焦点が行ってしまったことだ。
たしかにこのくらいの女の子にとって女友達は場合によっては恋人以上に大事な存在で、裏切られることはかなりショックのはずだが、今まで見ていて修二や彰に較べて濃密な関系を蒼井と野ブタが築けたとは思えないのだ。この回のテーマは明らかに友情や友達だが、それがどうも白々しく見えてしまう。
結局蒼井というキャラが作り手が決めた枠組みをはるかに超えて動きすぎているのだ。
さて、そんな蒼井のバックボーンや動機は結局明らかにされなかった。
あえて動機らしい動機といえば上の「覚えててほしい」だ。これは蒼井が匿名の悪意の象徴と考えれば納得のいく動機だが、物語だけ追ってる人にはさっぱりわからないだろうなぁと思う。
でも個人的には凄く納得がいってる動機だ。 (成馬)
■蒼井の動機
蒼井は信子に嫌がらせをした動機をこう語る。「たとえ嫌なことでもいいから、自分の存在を記憶していてもらいたかった」と。この発言は一見わかりづらい。だが、「野ブタ。」のテーマを考えていくと、ぐっとわかりやすくなる。
修二たちが戦ってきたのは、自分より弱い存在を蔑むことで、自己保身を図る「普通の人たち」の「普通の心情」だった。「自分」を持たず、なんとなく周りの空気に合わせてものごとを判断する「普通の人たち」の嫌らしさ……修二たちの「プロデュース」はそんなものとの戦いだったと言える。
そして、そこに立ちはだかった蒼井かすみとは能力的には修二と同じタイプのものを持ち、テーマ的にはその「普通の人たちの無自覚な悪意」を象徴する存在だったと考えればいい。
蒼井のような「普通の少女」が、このドラマで描かれているような「青春」を謳歌するのは難しい。事実、このドラマを、実際に高校に通っている10代の視聴者たちの中には現実の自分の学園生活と照らし合わせてしまい素直に見れない人も多いだろうと思う。そう、この「ねたましさ」こそが蒼井なのだ。決して物語の主役にはなれない「凡庸」な存在が孕む僻みの感情こそが「たとえ悪役でもいいから特別な存在になりたい」という蒼井の動機としてここでは語られている。
そう、蒼井というのはこのドラマ(青春、他人の幸福)を「素直に見れない奴等」の象徴なのだ。(市民)
■蒼井の自殺?
そして、そんな蒼井を信子は「許せない」と言う。ここでダメなドラマだったら、蒼井の動機はわかりやすい「過去のトラウマ」になっただろうし、信子はそのトラウマに同情して蒼井を「許して」しまっただろう。だが、このドラマはそんな絵空事には逃げない。信子は「許せない」と宣告し、蒼井は絶望して屋上から身を投げる。
だが、これだど話が重たくなりすぎてしまうと判断したのだろう。
蒼井の自殺シーンは夢だった、というオチがつく。だが、4人が揃って同じ夢を見ていたこと、学校に蒼井が落下した形跡がのこっていたことなどから、蒼井は実際に自殺してしまって、そこから何らかの不思議な力で時間が巻き戻ったのではないか、と思わせる演出になっている。
これは、第7話、8話でさんざん「回復不可能」というモチーフを繰りかえされてきただけに強烈だ。木皿泉は本当は蒼井を殺したかった、蒼井のような存在はこれくらい救われない存在なのだ、と思っているのではないか……そう思わせる描写だ。
ラストのキャサリン教頭と蒼井の会話は更に示唆的だ。
「取り返しのつかない場所へ行ったことありますか」 と尋ねる蒼井にキャサリン教頭は「ある」と答える。そして「友達が連れ戻してくれた」と。ここにはアイデンティティと言うフィクションの置き場はローカルな人間関係に置くしかないという作者の確信が見て取れる。その足場を持たない蒼井は、やはり本来は「帰って来れない」人間なのだ……。いや、もしかしたらあのブタを手にしている間だけ、蒼井はニセモノでも「友達」をもっていたのかもしれない。だから彼女は奇跡的に「戻ってこれた」のではないだろうか。(市民)
■「取り返しのつかない場所へ行ったことありますか」
取り返しのつかない場所を仮の社会の外や彼岸と言うなら、前作「すいか」でも繰り替えされたモチーフだ。ただし「すいか」の場合は取り返しのつかない場所へ行った友達という現象が先にあり、自明性の壊れた日常をいかに再構築していくか?がテーマで、つまりそこがスタート地点だった。
対して野ブタでは、つねに、その瞬間は回避され悲劇は起こりえるかもしれない可能性としてのみ現れる。それは多分木皿泉の(作中の大人に象徴されるような)良心的な部分なのだが、一方で最後の最後で一番ヤバイトコに踏み込めない限界として表れしまったように感じる。(成馬)
■ヨコヤマ復帰の嘆願
忘年会の席で酔っぱらって校長に暴言を吐き、勢いで意に反して自ら辞表を提出してしまった横山先生が辞めなくてすむようにするために、生徒たちは厖大な嘆願書をでっちあげ、ヨコヤマの辞職を食い止める。要は、実は誰も望んでいないヨコヤマ辞職を生徒の熱意が食い止める、という安っぽい物語をあえて演出する儀式が執り行われたわけである。蛇足的に差し挟まれた、このエピソードの意味とは何か? そう、野ブタ復帰の流れにまで至る、「一致団結するクラスの友情と善意」の予定調和性の戯画である。わざわざかすみとの葛藤の本筋の物語が終わった後にこうした挿話を入れ、修二にふたたび「桐谷修二」のセルフプロデュースを決意させるあたりには、感動のクライマックスにあってなお、通俗性を脱臼する教室世間への乾いた批評性が生きていることが見出せる気がする。(中川)
■「もう一度やってみようかな……」
あのクラスで、もう一度「桐谷修二」を作り上げていこうという修二。「また、人気者を目指すの?」と問う信子に、修二は答えない。今度の修二は人気者を目指しはしないだろう。きっと、彼は彰と信子と築いたような実体のある関係を、他の人とも時間をかけて築いていけたらいいと思っているのだ。しかし、その修二の「次」のフィールドは残念ながらあのクラスではなく……。(市民)
■そして、別離へ
エンディング近く、修二の父親が突然の転勤を告げる。修二はこのまま転校してしまうのか……?
最終回はやはり、シリーズを通して繰り返されてきた「楽しい時間はすぐに終わる(だからこそ美しい)」というモチーフの通り「終わる」ことがテーマになるのではないかと予測される。(市民)
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第8話
http://nobuta2nd.exblog.jp/2798218/
2005-12-08T20:02:54+09:00
2006-03-23T22:35:00+09:00
2005-12-08T20:02:54+09:00
nobuta2nd
第8話
【今週のあらすじ 】
ある夜、OLが酔っ払いに絡まれている現場に遭遇した修二は、傷害事件の容疑者として、交番で事情聴取を受ける。疑いははれたものの、「信じてもらえない」という事の恐怖をしる修二。そんな直後だけに、後日また別のケンカの現場を見てみぬ振りをしてしまう修二。しかし翌日、そのケンカの被害者がタニだと判明し、修二は友人のタニを見殺しにした冷たい人間として、周囲のクラスメイトから避けられてしまう。
孤独になった修二は、彰や放送部で昼の顔となり人気が出始めた信子を気にして、二人との距離をとろうとする――。
自分はもう誰にも信用されない人間――、そう烙印を押されたような気がして落ち込んでいる修二に、今まで信子に虐めを繰り返し、修二たちの作戦をことごとく邪魔をしてきた真犯人が接近する・・・。
公式サイト
【今週のストーリー解説】
■善良な市民
ついに始まった修二の転落と、妨害者=蒼井かずみの正体発覚……! 原作の小説ではこの修二の転落がオチになっていて、「おごれるものも久しからず」といった感じで綺麗に完結してしまうのだが、さすがこのドラマ版は一筋縄ではいかない。安易な脚本家なら原作どおりの落とし方にするか、もう一ひねりして、クラスの人気者の位置を失った修二を彰と信子が救済する展開(安心できる予定調和で泣かせる今回のオチ)で最終回にしてしまうところだが、なんとこのドラマはあと2話も残っている。特に、今後待っている蒼井かすみとの対決(?)は、修二派の僕としては一番興味を惹かれるところだ。
また、今回のテーマ「信じる」は、このドラマの一貫したテーマ「価値観」にひとつの回答を出している回だ。ドラマ版「野ブタ。」は第1話の、「世界共通の価値観なんかない」「小さな世界ごとの価値基準がタコツボごとにあるだけ」なので「そんなものは書き換えてしまえ」という認識からスタートして、回を追うごとに、そんな世の中でも何か信じるものがないと辛いこと、そして信じるに値するものはたとえば学校のような「小さな世界」のルールの外側にあるものではないか……そんなテーマを訴えてきた。そして、第8話ではこの展開を受けて「自分が信じたいものを信じるしかない」という立場がはっきりと語られる。これが果たしてこのドラマが出した結論なのかどうかはまだわからない。残すところ2話でこの「価値観」をめぐる物語がどう完結するのか非常に楽しみだ。
■成馬01
今回は割れずに地面に落ちてく玖珠玉のような修二の転落劇がメインだったのだが、前半は偶然とすれ違いの多用で回りが誤解していくという昔からよくあるパターンで段取り的に感じたのだが、むしろ話のメインは唐突のネガプロの正体判明と彼女による3人の中を引き裂く手口そしてその罠にどう三人が立ち向かうか?という話だったと思う。
ちなみに先週からの展開で俺が予想してた話はふとした偶然と誤解から修二がクラスメイトから孤立し彰や野ブタにも心を閉ざし人間不信になる。そして全ての関係性が奪われ孤立した所にネガプロ蒼井かすみが登場し修二に偽りの救いをもたらそうとする。そして9話で修二の影の面としての蒼井が狂った母性で飲み込もうとするのに対し野ブタと彰がどう立ち向かうか?みたいなものを考えていた。
だから始まって半分ぐらいで蒼井かすみが出てきてとっとと正体をバラし三人の仲を引き裂くために野ブタと彰に罠を仕掛けるという展開にも驚いたが。その罠に対して二人が修二を信じるという展開だが後半の蒼井かすみ登場から三人の関係を引き裂こうとする蒼井の策略を「信じたいから信じる」野ブタと「見なかったことにする」彰という荒業だ跳ねのける終わり方、そして最後に三人の信頼関係が残るという終わり方は予想をはるかに超えていた!というか彰の話に泣いたね俺は(笑) 。
蒼井が張った罠は隙のない完璧なものだと言える、特に誰からも信じられていない修二には弁明の余地が奪われている。これはミステリー的な罠でなく、彼らの友情が試されてるのだ。
それにしても人間は何処で試されるか?と言うと、どん底の時なんではないだろうか?極限状態に追い詰めらて人間の暗闇の部分が出る、そうやって90年代のホラーは狂気を安売りしてきたけど、極限状態だからこそ残る強さ、信頼関係もあるのだ(思えば女王の教室も辛辣な部分よりも追い詰められたからこそ開花していく子供たちの絆と強さにこそ面白さを感じてたっけなぁ)。残り二話はおそらく修二の再生と蒼井かすみの話になるだろうと思う。どう決着をつけるのかただ見守りたい。
■中川大地
さすが、大当たりでしたね。いや、妨害者が蒼井かすみだったなんてのは演出的にもキャスティング的にも当たり前だからそのこと自体じゃなくて、彼女の目的と存在がまさに「ネガティブプロデューサー」だったという第2話時点での成馬さんの慧眼に拍手。以後あたりまえのように本ブログではネガプロネガプロ言ってたわけですが((笑)初見の人わかんねっつーの)。
「噂」をめぐる情報戦という『野ブタ。』世界の基本律も改めてクローズアップされ、追いつめられる修二vsかすみの構図に(それこそカメラワーク自体が)収斂していくクライマックス感が満天で、原作のちまっとした教室内キャラ売り作戦のエッセンスをよくぞここまでスケール感のある世界観に発展させたと、あらためて舌を巻きます。展開的にも、級友がボコられてるのを見過ごしたことをきっかけに教室内での地位が転落する、という原作のエピソードが踏襲されてるわけですが、それをめぐる修二の内面がもうまるっきり違う、という原作版との対比がこれまでで最も鮮明なのと同時に、「自分は陰に隠れて他人を思い通りに変えるゲームを楽しみたい」という原作版修二の像が、むしろかすみの方によりダークかつメタな(チェックポイント参照)かたちで託されたことでしょう。その意味で、もう救いと成長の方向性が見えてる修二自身より、かすみの動機の掘り下げと末路こそが今後の作品テーマ上の注目点になりそうかな、と。
冷静読解以上。もう修二ッ、そこまで優しいヤツになるのマジ反則! 今回は完全に気持ちが野ブタ・まり子目線シンクロで終始かき乱されっぱなし。脳内オトメ心をオトコ心で押さえつけんのにどれだけ苦労させるんじゃ~!! 正気を保つのに、成長をみせた彰の男気だけが頼りでした。ヤバイなあ、もう…。
【今週のチェックポイント】
■割れない玖珠玉
冒頭、あらたな再出発を祝して彰の作った玖珠玉を割ろうとする。しかし玖珠玉は割れず地面にまっさかさま、そこで修二の自分の運命を暗示するかのようだというモノローグが入る(これはモノローグはいらなかったと思うがテレビでは仕方がないのか?)。冒頭の何かを誤魔化すかのようにプロデュースに専念しようとする三人の白々しさ(すでに終わってしまってる感)を割れない玖珠玉が象徴している。 (成馬)
■二つの揉め事と修二の転落
冒頭、商店街で酔漢に絡まれてる女性を助けに入ったら、女がやけに強くて逆に男をボコボコ殴るコミカルなゴタゴタの中で、誤解されて警官に交番に連れて行かれてしまうツイてない修二。そこで警官に自分の潔白を「信じてもらえなかった怖さ」が尾を引き、後に他校の生徒にフクロにされている誰かを通りがかりで見つけて助けようとデフォルトで身体が動きながらも、思いとどまって見過ごす選択をしてしまう。暴行されていたのが実はクラスメイトのタニで、今度は彼だと気づかなかったことを信じてもらえず、見捨てた薄情さを喧伝されることで、修二のクラス内の地位が転落する。原作版では、この後の事件から転落までに至る流れは同じながら、最初の騒ぎはなく、また後の事件も他人事としてまったく関心を寄せないのが修二であった。つまり原作での転落の契機は「地金を見破られる」不運なのに対し、ドラマでは「本質を誤解される」不運であるという、同じ事件が正反対の図式で描かれているのだ。(中川)
■できれば世界中の人が一人残らず幸せにになってほしい
という信子に修二は「それは無理だ」と断言する。みんな一緒に幸せにはなれない。だからこそ修二は、「最大多数の最大幸福」を勝ち取るために周囲にウソをついて角が立たないように人間関係をコントロールしてきた。だが、そのために彼はひとりも心を許せる人間がいなかった。「なぐさめてもらうように出来ていない」「寂しい人間」だったのだ。(市民)
■商店会の会長
交番で事情聴取されていた修二と居合わせ、「人生最高のときもあれば最悪のときもある、最悪になっても人生は簡単に終わってくれない」と語る、今回ゲストの「示唆キャラ」で、ゴーヨク堂店主の後輩。まさに90年代以降、繰り返し唱えられ続けてきた「終わりなき日常を生きよ」型メッセージの確認だが、「噂」が支配するちまい学校内秩序を、すぐ外を取り囲む、隅田川の流れるこの町の世間が鷹揚に相対化するという、空間的なコスモロジーの階層をこの会長やゴーヨク堂は体現しているのだ(もちろん、学校外の世間は優しいばかりではない。学校内の「噂」が通用しないからこそ、頑として修二は信じてもらえなかったのだから)。(中川)
■最低の日もある/最高の日もある
ゴーヨク堂は言う。「人生には最低の日もある、最高の日もある」と。第1話から再三修二たちが生きている学校世界が有限ですぐに終わってしまうことを示唆し続けるゴーヨク堂は、ここでも修二に学校世界でのキャラ売りゲームでの敗北が「すべての終り」ではないことを修二に示唆している。(市民)
■パンドラの箱
ギリシャ神話に「パンドラの箱」という有名な話がある。
その箱は神々がありとあらゆる災いを封印していたのだがパンドラという少女が開けてしまう。災いは世界中に飛び出してしまいパンドラはあわてて蓋をしめた。箱の中に最後に残ったのは希望だった。いろいろな解釈ができる話だが今回の話はそういうことだと思う。俺が野ブタ。一話を見た時に感じたのは面白さと同時にあらゆることが変わってく移ろいやすさと確かなものがない不安感で、そのいつかダメになる、終わってしまうんではないか?という不安感が張り付いていたから一見寓話的ないい話に見えても説得力を感じていた。
そしてこの回は一話から感じていた不安が表面化した回なのだが、そういう局面に追い詰められたからこそ見えるもの、わかるものがあるんだなぁとわかった気がした。
そして思えば、これは一話の抜き取られた柳の木が別の場所に植えられることを予感させるシーンやアフリカの子供が着ていた野ブタの体操着、誰かの宝箱に入っていた野ブタグッズ、と何度となく繰り返してきたことだった。あらゆるものが変わってくし終わってく、でも、だからこそ残るものもあるんだよ。
そういう話だったんだなぁと改めて確認した。(成馬)
■言葉が通じない
桐谷修二という人間は言葉を信じていない。自分自身が言葉を弄して周囲をコントロールしてきたという自覚があるからだ。そして、その言葉が通じなくなるとまったくコミュニケーションの手段がなくなってしまう。それだけ長い時間を過ごしても、彰や信子とのような関係を、修二は他のクラスメイトとはまったく築けていなかったのだ。逆を言うと、修二と彰、信子を結び付けていたものは「言葉」ではないのだ。(市民)
■「修二君の成長記録」
転落した修二の前についに姿を現した嫌がらせの真犯人、蒼井かすみの台詞。これまで直接的には野ブタを狙っての妨害活動かと思われていたが、あくまで彼女は「人質」で、陰に隠れての操作で他人を意のままに変えるゲームを楽しもうという正味の「ネガティブプロデュース」の対象は、修二なのではないかとも思われる。つまり、自分がプロデュースする側だと思っていた修二が、実はさらに高みからプロデュースされていたというメタ構造があることを、かすみの言葉は示唆しているのである。しかし、さらにその深奥にある動機は何だろう? 修二が前回漏らした「どうしてこんなに感情を剥き出しにできるんだろう」という感想は、強烈な感情を理解できない修二自身と同じ動機で妨害が行われていたことの皮肉な構図を示すフェイクだったのか。あるいはもしかすると、野ブタ転校前からの修二の振る舞いが、知らずにかすみの恨みを買っていたというような展開が待っているのかもしれない。(中川)
■蒼井かすみとは何者か?
「野ブタ。」を見ていて毎週感動している俺だが、例えば俺が10代の高校生だったらどう見ただろうか?と時々考える。もしかしたら修二や野ブタがあまりに眩しすぎて劣等感を感じ素直に見れなかったかもしれない。言うまでもないがアイドルとは羨望と嫉妬の対象だ。木更津キャッツアイの頃にも感じたのだが主演がジャニーズのタレントでヒロインがかわいいアイドルというだけで敬遠して批評眼が鈍る人は意外と多い。男なら亀梨、山下に女なら掘北に嫉妬するだろう、だからアイドルドラマにおいて男女のカップリングは難しい。下手に深い関係にすると双方のファンから反発があるからだ(あるアイドルが主演のドラマのカップルの女優の方には脅迫の手紙が来てノイローゼになったりしたらしい)。ここに執筆している俺等くらいの歳になると、「野ブタと修二くっつかないとなぁ~」「いや修二にはまり子だよ!」とか楽しくカップリングを夢想できるんだけど、同年代で信仰するかのようにアイドルを見て将来俺が掘北と結婚するんだ!とか思ってる童貞男子高校生や亀梨くんキャーとか思ってるジャニオタの女の子は気が気じゃないだろう。(それもあって原作にはない彰という要素を入れているのだろう、男女はいやだけど、やおい的な部分は許せる、という婦女子向けの意味で)意外に忘れがちだが、このドラマはアイドルドラマだ。どんなに高度なことをやってても主演はジャニーズで視聴率は彼らのファンである匿名の特に個性があるわけでもない美人でもかわいくもない普通の子らによって支えられている。だから野ブタが彼女らのシンデレラストーリーへの願望の体現なら蒼井かすみは「ファンの女の子たちのネガの部分」の象徴だと言っても言いすぎではないと思う。そもそも今まで存在を暗示されながら姿を現さず修二たちの行動の全てを知っている存在。これはそのまま我々番組視聴者の姿だ。(まぁここで評論家ならメタアイドルドラマとかもっともらしい言葉を付けるんだろうなぁカッコ悪いから言わないけど)そう考えると彼女が出てこないと、このドラマが終わらない理由は明らかだろう。
蒼井かすみがどのような末路を辿るのか?
悲劇かそれとも救済か、じっくり見守ろうと思う。 (成馬)
■ふたりのプロデューサー
妨害者の正体=蒼井かすみの目的は修二たちの「プロデュース」を妨害し、逆に信子をドン底に突き落とすことだった。まさに「ネガティブプロデューサー」だ。「どうしてそんなことを?」と尋ねる修二に、蒼井は答える。「面白いからだ」と。自分は影に隠れて、何も関係ないふりして、他人の人生をコントロールするのが面白くてたまらないのだ、と。そう、この1点において、修二とかずみは同質の存在なのだ。他人をコントロールするゲームを楽しむプレイヤーであるといいう点において、いや、教室と言う猿芝居を、舞台裏から管理する「プロデューサー」であるという点において、ふたりは同質であり、同等の能力を有していると言える。ただし、その結果他人を幸福にできたらいいと思っている修二に対して、蒼井の心の中には悪意が渦巻いている。(市民)
■修二の弱点
「桐谷君の弱点は草野君と小谷さんだもんね」……蒼井は嘲笑う。そう、実際のプロデューサーとは違い、教室のプロデュサーは自分自身が常に舞台の上に立たなければならない。そしてそんなプロデューサー兼役者にとって、舞台である教室の中に、舞台から降りた場所で大切にしたい人間がいるのは間違いなく弱点なのだ。そう、教室に彰と信子がいる限り、役者としての修二はどうしても完璧ではいられないのだ(例:冒頭で教室で信子に話しかけるしかなくなった修二)……。それに対して、今の蒼井には教室に「弱点」がない。今回、ラスト直前まで蒼井にやられっぱなしの修二だが、今の二人にはこういう「力の差」が開いているのだ。もっとも、どっちが幸福かと言うと微妙、いや明らかなのだが。
個人的には友情パワーで蒼井に反撃も美味しいが、できればプロデューサー・桐谷修二の知恵でも逆襲して欲しい所だ。(市民)
■バイバイ・エンジェル(ネタバレ)
余談だが、状況をメタ視できるふたりの登場人物(男女)がそれぞれ「探偵と犯人」という構図は、笠井潔の小説家デビュー作『バイバイ・エンジェル』を彷彿させる。全共闘崩れの日本人留学生(?)矢吹駆と新左翼テロリストの幹部をつとめる少女・マチルド―――状況をメタ視する力(階梯)においても、思想的にも同等の力を持つ駆とマチルド。同じ力をもつが故に、向いている方向(目的)が違う二人は相容れない存在だった。まさに今回の修二と蒼井である(笑)。駆とマチルドの対決は、僅かに力が上だった(その少し前にマチルドの位置を通過していた)駆の勝利に終わったのだが……果たして、修二と蒼井の対決の行方は如何に!?(市民)
■まり子の弁当
前回、修二にきっぱり想いを拒絶されながらも彼の分の弁当を作り続け、代わりに突撃レポートに入ってきた彰に食べさせる。前回チェックポイントで、この二人が「成長」するために踏むべき経験の性質が似てそうだと思ってワンセットの記述をした矢先だったので、もしかして!という気になってしまった……。そして教室に居場所をなくして孤独になった修二の後ろにそっとお弁当を置いてくさまに・゚・(ノд`)・゚・。 。。思えば最初からゴーヨク堂書店で立ち読みできたこの子だけが、「噂」をめぐる情報戦が価値の優劣を決める隅田川高校の法則秩序の外側にいて、「たった一人でも信じてくれればいい」と、「信じたい方を信じる」という今回の野ブタの気づきを先取りしていたのであった。プロデュース組3人は何も心配してないけど、この子の処遇はどうする気なんさ、木皿泉! もしかして……、あの、ひょっとしてまさか彰っすか…? ……う~ん、彰ねえ……。(中川)
■彰の乗り越え方、埋めるということ
まず写真を見た彰の反応の仕方「彰ぁ~ショック!」が彰らしくて面白い、なんと言うか「客観的にはここで俺はびっくりするんだろうなぁ、でも俺彰だし」って感じで驚いてる自分を客観視して彰らしく驚きを演じてるような、つまり彰ってそういう奴なのだ。おそらく彰は修二とは別の意味で彰というキャラを演じているのだろう。それが写真を見たことで彰というキャラと感情が揺れる自分との間で混乱している。その葛藤がとても伝わる。そして理性では彰らしく修二を信じて写真のことなど気にしないキャラで行きたい、でもうまく消化できない。そこで見なかったことにするにはどうすればいいか?と豆腐屋のおじさんに聞いた所ヌカミソを持ち出し埋めてみなかったことにしなさいといわれる。前回も少し触れたが「埋める」は木皿泉作品において多用されるモチーフだ、すいかでも思い出の品を埋めることで相手のことを忘れようとするシーンが登場する。それにしても埋めるというのは微妙な距離感で、これが燃やすや捨てるだと完全な抹消だが、「埋める」だと存在は残ってるのだ。消すほど思い切れないけど、一端保留にしたい、そういう彰の気持ちがよく現れているシーンだと思う。ホント後で笑い話になればいいなぁ。 (成馬)
■ジョン・ドゥ
シッタカのキャリーの話やお化け屋敷、そしてキャサリン教頭の魔女的たたずまいもそうだが、野ブタには全体的にホラーのモチーフを多用されている。
そう考えた時、蒼井かすみが自分から正体を現しむしろ積極的に近づき修二の価値感そのものを煽る展開には1995年に発表されたサイコホラーの傑作D・フィンチャー監督のセブンを思いださせる。キリスト教の7つの大罪もモチーフに異常犯罪を繰り返す犯人は物語の後半、自分から自首してきて、主人公たち刑事を挑発しある場所へ連れて行く、そして、そこで起こることこそ彼の真の目的だった。この犯人の特異なトコは犯行=異常殺人が目的でなく、主人公達刑事と私達視聴者の倫理を刺激し試すために現れ行動するトコだ、だから、この物語のラストは普通のミステリー以上に後味が悪く残っていく。もちろん、ここまで来てセブンみたいな後味の悪いオチになるとは思えないし思いたくないが。
ちなみにジョン・ドゥとは英語で「名無しのゴンベェさん」みたいな意味らしい。(成馬)
■地球上にひとりでも信じる人がいれば
キャサリン教頭は言う。「世界中にひとりでも信じる人がいれば、吸血鬼はいる」のだと。そして信子は蒼井と修二のどちらかを選ばなければならなかったとき「信じたいほう」=修二を選ぶ。
「一緒に信じてください」……これは、先述したように「価値観」を巡るこのドラマが出したひとつの結論だと言える。小さな世界の書き換え可能なルール(価値基準)しかないこの世の中、最後は「信じたいほうを選ぶ」しかないのだ。無論、この考え方は危険なものを孕んでいる。人々がそれぞれ「信じたいほうを選んで」ばかりいたら世の中は滅茶苦茶になってしまう。何でもかんでも「信じてしまえばいい」わけではない。だからこそ、このドラマは、ゆっくりとした歩みで3人のかけがえのない時間をしっかりと描いてきた。「信じられるもの」を手に入れることは、とても難しいことで、そして幸福なことなのだ。(市民)
■紐でつながる三人
「信じればどんなことも解決できる」「一緒に信じてください」クラスメイトの視線が集まる中教室の真ん中でまるで決意の儀式のように三本の紐を繋げる三人。
野ブタ。の世界ではコミュニケーションは視覚化されお約束の共有をすることで仲良しクラスメイトを演じる関系性が展開されてたが、この視覚化はむしろそういう視線への反発であり、「私達は仲間だ」というクラスの冷たい視線への宣戦布告だ。冷たいクラスメイトの視線に対抗する3人という構図が明確な形で映像化されている。他にもこの回の修二と蒼井かすみの間に挟まれてたたずむ野ブタのように。一カットの登場人物の立ち居地だけで物語における相関関係を可視化するシーンが野ブタには多い。脚本に刺激される形で演出もどんどん先鋭化しているのを感じる。 (成馬)]]>
『すいか』ロングレビュー
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2005-12-04T22:23:45+09:00
2005-12-18T20:17:01+09:00
2005-12-04T22:23:46+09:00
nobuta2nd
すいか
「でも、私も逃げたい。親から、仕事から、こんな自分から、あらゆるものから、私も逃げたい」
「そりゃ、誰だってそうです。でもね。ここに居ながら、にげる方法が、きっとある、それを自分で考えなきゃダメです」
すいか第4話より
すいかは「野ブタ。をプロデュース」の脚本家木皿泉とそのスタッフによって2003年夏に日本テレビの土曜9時枠で放送された連続ドラマだ。
放送時は地味な題材で視聴率も低かったが今に至るまで熱狂的な大人のファンが多く
04年には向田邦子賞も受賞している。
もし「野ブタ。~」を見て華やかな学園モノの裏にある切ない部分、ある種の無常観に裏打ちされた優しさが気になった方がいらしたら是非見てほしい作品だと思う。
本稿ではそのささやかなガイドラインを提示したい。
物語の内容は親友の失踪をきっかけにハピネス三茶という下宿に32歳にしてはじめて一人暮らしをすることになった早川基子を主人公に、彼女を通して大袈裟に言うなら「今・ここ」でどう生きていくか?を描いた話だ。
と言っても、描かれているのは地球の滅亡とか燃えるような恋愛みたいないわゆるドラマテックな題材は存在しない、基本的には小さな下宿で繰り返される、日々の暮らしだ。当時はあまりに地味な題材のためそれがドラマになること自体に驚いた、
脚本の木皿泉は「やっぱり猫が好き」に脚本で参加している(ただし98年度版)が、あのドラマにあったような女の子のとりとめのないおしゃべりの日常感覚,マンガで言うと岡崎京子の「くちびるから散弾銃」や高野史子の「るきさん」を思いうかべてもらえると以外と近いのではないかと思う。ただし「やっぱり猫が好き」や「唇から散弾銃」は80年代バブルのど真ん中に放送されていて、80年代後半と2003年という舞台の違いは否応なく現れている。
その違いは「今・ここ」で生きていくことの不安、あるいは社会の外へ逃げ出したいという願望だ。このドラマには普通に生きている人の不安が細かく描写されている。
■「世界の終わり」から「世界の外」へ
物語は冒頭、中学生時代の早川基子と双子の姉妹(内片方はのちに再会する絆)がハルマゲドンの話をする場面から始まる。夕暮れ時、隣の家からのカレーの匂いを嗅いだ三人は、「この匂いもなくなってしまうのかなぁ」と切なくなる。そして舞台は現代に飛び
「それから20年後の2003年、夏。地球はまだあった」とクレジットが入る。
ハルマゲドンという非日常とカレーの匂いという日常の対比から来る、あらゆるものが終わりゆく無常観「野ブタ。をプロデュース」をご覧になってる方ならご存知のあの切なさは「すいか」の時点ですでに完成していたといってもいい。
そしてこの世界を知る上で重要なのは、世界が終わらないという閉塞感だ。
もしかしたら、何故「世界が終わらない」ことが辛いのか?今の若い子にはよく理解ができないかもしれない。俺が思春期の頃90年代前半はやや賞味期限が切れ気味とはいえノストラダムスの大予言はそれなりに人気で内向的な中高生にとっての一般教養だった。
1999年恐怖の大王が降臨する。よくわからないが(当時は核戦争なんかがイメージされてた)1999年に世界は終わる、あるいは最後の戦いが始まる。その日に備えてがんばろう?
そんないつか来るあの日を思えば、「今・ここ」をうまく生きられる。その意味で滅亡すら未来だった。人はどんな形であれ未来があれば、そこに向かって生きていける。
だからこそ例えば鶴見済の「完全自殺マニュアル」のデカイ一発はこない。という言葉は強烈だった。これに岡崎京子のリバーズ・エッジで描かれた「平坦な戦場」そしてオウム事件以降に宮台真司が提唱した「終わりなき日常」、これは言うなれば未来という言葉の死亡通告に等しかった。
あの時、世界滅亡という甘美な未来を私たちは失ったのだ。
■早川基子と馬場万里子
さて世界が終わらない、いつもと同じことの繰り返しの世界で人はどう生きるか?
「すいか」には、その「今・ここ」に耐えられず、世界の外にはみ出してしまった人物と早川基子のような苦しみながらこちら側に止まってる人間とが対比になっている。
早川基子の同僚の馬場万里子は信用金庫のお金を使い込み失踪し亀田絆は双子の姉、結は結婚前に自殺し柴本ゆかの母親は男と駆け落ちし出て行っている。そして崎谷夏子の余命わずかの親友が居て、30年前に燃えるような恋をしたリチャードもなくしている。ここで世界の外に飛び出した人間を主役に添えれば例えば桐野夏生の「OUT」や「グロテスク」のような作品になるのだが、「すいか」では対となるこちら側の人間の側から描写される。例えば絆と結の双子の姉妹が象徴的だが、残された彼女たちはまるで自分の半身が切り取られたような喪失感を抱えていて、彼女たちの失踪、あるいは死をどう受け入れるか、そしてどう踏み止まるかが主題となる。
基子や絆が抱えてるものは同じことの繰り返しと思ってた世界の自明性を壊された痛みだ。日常が強固でびくともしないのに、確実に押し寄せてくる死や不安。馬場万理子の失踪をきっかけに早川基子はその(自分もそうなってしまうかもという)不安、喪失感を埋め、抗うため、まず一人暮らしをはじめ、今までやってこなかったこと、例えば友達にお金を貸したり、ペーパードライバー返上のためドライブに出かけたり、子供の頃から溜め込んできた貯金箱を開ける。
それは世界の外に飛び出す、犯罪や駆け落ち、あるいは自殺に較べるとあまりに小さな、小さすぎることだが、その小さな物語の積み重ねが私達視聴者に与える印象はとても豊かで面白い。同じように毎回挿入される食事や食べ物にまつわるシーンも豊かだ。
そして最終話、早川基子を迎えにきた馬場万里子は、その生活の片鱗を見てこう言う。
「ハヤカワの下宿、行った時さ、梅干しの種見て、泣けた」
「朝御飯、食べた後の食器にね、梅干しの種が、それぞれ、残ってて――何か、それが愛らしいといっていうか、つつましいって言うか―――あ、生活するって、こういうことだなぁって、そう思ったら、泣けてきた」
「掃除機の音、ものすごく久しぶりだった、お茶碗やお皿が触れ合う音とか、庭に水まいたり、台所で何かこしらえたり、これ皆で食べたり―――みんな私にないもの」
「私、そんな大事なもの、たった三億円で手放しちゃったんだよね」
すいか10話より
そして馬場万里子は飛行機のチケットと基子が頼まれた買い物のメモを並べてどっちだ?と問う
「ハヤカワの人生だからハヤカワが選びな」
早川基子はメモを選ぶ、そして馬場万里子に「次、家に来るときさ、これ買ってきてよ」
と鍋の食材を書いたメモを渡す。馬場万理子は「大事にするよ、こっちに戻ってくるための切符だからね」と言う。
「すいか」の世界は切なく不安だが優しいのはこういう所だ。彼女には戻ってくる可能性と向い入れる人がいるのだ。
■「終わる」場所
また時を同じくハピネス三茶から長年住んでいた崎谷夏子が出て行くという。
大学を辞めた彼女はこれをきっかけに世界に出て学ぼうという。これもまた世界の外に出る行為だが否定的には描かれておらず肯定的だ。そして旅立つ崎谷夏子に対して柴本ゆかは言う。
「約束してくれますか?例え、ここを出て行っても、死ぬ時は必ず戻ってくるって」
「すいか」の世界には当たり前に残酷な事実が自明のものとして描かれている。
それは全ての事柄には始まりがと終わりが出会いと別れが生と死があるという、どうしようもない事実だ、どんなに豊かになっても自由になっても「終わり」から私達は逃れられず、むしろ自由であるが故に「終わること」あるいは死や別離の恐怖が肥大化しているとすら言える。
だが柴本ゆかのこの台詞には終わりや死は避けられないかも知れないが「終わる場所」は選べるのではないか?という希望のようなものが見える。それは人によっては悲しい終わり方かも知れないが、それでも自分で選べるということはすばらしいのではないだろうか?
物語のラスト、早川基子も他の登場人物も決して日々の苦痛が解消されるわけではない、ただ、今まで同じと思ってた日々が少しづつ違う日でそれは一度きりなのだということだけは実感する。
遠くまで届く宇宙の光 街中でつづいてく暮らし
ぼくらの住むこの世界では旅に出る理由があり
誰もみな手をふってはしばし別れる
小沢健二 「僕らが旅に出る理由」より
もしかしたら「野ブタ。をプロデュース」を今楽しんでいる中高生のコにはまだこのドラマは取っ付きにくいかもしれない、でも「野ブタ。~」を見て切なさや無常観から来る優しさを感じとったなら、是非ためしに見て、そして今回はあくまで紹介に止めたため引用できなかった、宝石のような言葉の数々に出会ってほしいと思う。それはきっと私達の日常を豊かにしてくれるだろう。 (成馬01)
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第7話
http://nobuta2nd.exblog.jp/2754310/
2005-12-02T20:51:17+09:00
2005-12-19T18:03:57+09:00
2005-12-02T20:51:17+09:00
nobuta2nd
第7話
【今週のあらすじ】
信子に恋心を抱いた彰は信子を独占したいという想いから人気者にプロデュースする作戦を止めたいと申し出る。修二は彰の申し出に苛立ちを感じながらも受け入れざるを得ない。
そんな中、信子は唯一、出来た友人の蒼井かすみによる誘いで放送部へ入部。信子と少しでも一緒にいたい彰も又、放送部へ入部することに。そして、彰は信子への抑えられぬ思いのために、ある、とんでもない行動を取ってしまう・・・。
修二はというと、クラスメイトと適当に遊びながら適当に距離を置くという元の生活に戻るが、日々の生活にぽっかり穴が空いたような空虚感がぬぐえなかった。さらに、まり子から、自分との関係をはっきりさせてくれ、本当の気持ちを教えてくれ、と問い詰められる・・・。そんな折、信子が『私の好きなもの』をテーマに映像作品を募集するコンクール作品を撮影することになり、3人が久しぶりに行動をともにすることになるが、そこにまた陰湿ないたずらが発生し・・・。
公式サイト
【今週のストーリー解説】
■善良な市民
突然だが、僕はこのドラマの中では主人公の修二が好きだ。器用に、要領よく立ち回ることを心得ているが故に孤独な修二……個人的には「あえてベタな偽善」を行うという最近はやりのキャラ全開の彰や、フツーに健気でいい娘の信子より、断然感情移入できるキャラクターだ。そんな修二の内面にいよいよスポットが当たったこの第7話では、ついに修二がまり子に本心を打ちあけて、原作のオチになっていた修二の転落劇がはじまることになる。原作ではいわば修二が転落して「因果応報」オチで終わるわけだが、この原作よりも何倍も深くて広いドラマ版では、修二にこそ、この経験を通して大きく成長して欲しいと思う。
また、今回の第7話は「終わりのはじまり」だ。劇中で繰り返される「終わる」「諦める」というモチーフが示すとおり、修二、彰、信子の「3人組」の楽しかった時間はいつの間にか終わりを迎えていたのだ。それは基本的にはとても寂しいことには違いない。だが、逆を返せば、短い時間で終わるからこそそれは貴重な時間だったのだ。「終わる」「別れる」「諦める」というモチーフに貫かれたこの第7話だが、これは個人的には修二たちが次のステップへ進むためのジャンピングボードとして機能するんだと信じたいところだ。
■成馬01
まず、6話のチェックポイントで中川大地さんが書いてた修二とまり子についての解説がまったく的確だったことに見ていて驚いた。
俺はどうにも上原まり子みたいな普通にかわいい子についてはわからないので、そこまで想像力が及ばなかったけど、彼女も知らず知らずの内に追い詰められ傷ついていたのか?「ごめんよぉ~」って修二の変わりに謝りたい気持ちになったけど、あくまで自分と修二の関係を恋愛の問題と捉えるまり子と、どう他人と付き合うか?という問題と捉える修二とでは、コミュニケーションの捉え方が違いすぎる、という断絶が強調された気がする。まり子は修二と付き合うのにはマトモすぎる。こういう子はもっと普通のいい奴と付き合った方がいいと思った。
さて、今回は今までの話をステージを上げて展開した気がして、その意味で目新しさはなかったと思う。ただ密度は濃い。テーマは「人の心の中」と「諦める」だろうか?以前も書いたが野ブタ~は「気付きの物語」で、彰は恋心の発展として嫉妬と独占欲から来る自己嫌悪を知り、野ブタは修二へのほのかな恋心?を知り、修二は自分が今まで冷たい人間だったんだということに気づく。(しかし、その冷たさは人が好きすぎる反動で嫌われるのは怖いという弱さから来ていることを野ブタに発見されている、まったくこういう男に女は弱いんだろうなぁ)彰は自分には野ブタを好きになる資格はないと一端諦め、修二はまり子に本心を伝えることで今までのごまかしの関係を諦めるが、この諦めるという行為が成長のモチーフになってることは前回のチェックポイントで市民さんが指摘してる通りだろう思う。それにしても写真とかビデオというものは過去を刻印するものだからか?郷愁のようなものを強く感じる回だった。予告を見る限り、このままラストまで連続した話が続くのかなぁと思う、一部原作を引き継いでるので比較しながら見守りたい 。
■中川大地
つるべ落としで終わりに向かっていくことを、これでもかこれでもかと強調する映像エフェクト、音効、モチーフ選択、画面構成、台詞回し、演技等すべての要素がガッチリはまりすぎて、序盤からもうギュンギュンギュンに胸締めつけられっぱなし……。カーッ、もう、せつな殺す気かっつうの、こんちくドらマぁめぇっ!!
今回はもうストーリーラインがどうとかガジェットの仕掛けがどうとかにまるっきり注意が回らないほど、修二の寂しさ、彰の気まずさ、野ブタの気持ちの持ってきどころなさ、そしてまり子のくるしさが、直接的な視聴覚演出のレベルで最短距離から撃ち込まれてくる感じで、マジやばかったです。
もうダダこね競争後の修二と一緒に悶える、悶えるよッ!!
でも負けずに、『寄生獣』でミギーになだめられて胸に手をあてて気持ちを鎮めるシンイチよろしく落ち着いて考えてみる。考えてみると、一話完結噺としての今回のお題はまさにそんな「心のコントロール」、より踏み込んで言えば「内的衝動と外的現実を調停すること」なのだと整理できると思います(「終わりの始まり」はシリーズ構成上の見え方ですね)。
現代の通俗的な価値観では、心のまま衝動のまま欲望のままに行動することは(ことに恋愛に関しては特に)基本的に正しいことだとされているけれど、それが本当に望ましい結果をもたらすとは限らない。彰は、野ブタと最終的には「結婚したい」とまでの独占衝動に正直になってプロデュースを打ちきったために彼が本当に好きだった3人でいるときの野ブタとの時間の喪失することになるし、野ブタも思わぬ衝動で打ってしまったパンチや抱きしめに悩む。修二は苦しませたくないと思ったがゆえにまり子を傷つけたり、野ブタを傷つけたくないと思いながらも身体が動かなかったりする。
制御できない心の中の思いと、ままならない現実の齟齬のありようがそれぞれに強調して描かれ、そのことは修二の「恋愛みたいに心がコントロールできなくなるようになるのは嫌だ」という台詞でも明示されます。あと、ネガプロがビデオテープを切り刻んだことへの、「こんなに感情をむき出しにできるなんて」という感想もまた。
で、そうなったときに一体どうすればいいのか、という心と現実との調停のビジョンこそ、劇中で繰り返し描かれる「諦める」という態度なわけですね。これについては後述の成馬さんのチェックポイントに詳しいように、決して西洋近代主義で常識とされているほど「諦める」ことはネガティブなことではなく、ままならなかった現実を心の中に取り込んで発見や成長の糧にするための、人生に不可欠な知恵だってわけです。
そう考えたとき、今回もまたキャサリン教頭や修二父が、いい「諦め方」の手本を見せてくれて(チェックポイント参照)、その示唆を受けた修二が彰に休日の校舎での「諦め放送」を促すというパターンがしっかり踏襲されてるんですよね。そんな仏教説話のような含蓄ある教訓性もまた、シリーズ終盤になっても崩れない、この作品の魅力の骨格になっていると思います。
【今週のチェックポイント】
■終わりの契機
男女混合の仲良しグループが、メンバー同士の恋愛が原因で崩壊するのはよくある話だ。それが男2×女1のいわゆる「ドリカム状態」ならなおのこと。勿論、修二たち3人組がそれに当てはまるかどうかは分からない。しかし、「男女の関係になる」というのは、モラトリアムの終了を意味するものに他ならない。第3話で紹介した押井守監督の『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』では、ヒロインが主人公に「責任取ってね」と迫る(関係を結ぶ)ことがモラトリアムの終わりを象徴するサインになっていた。
若者たちはラブコメ空間に憧れて群れる。しかし、実際に恋し始めた瞬間に「終わり」ははじまっていたのだ。「野ブタ。」で言えば彰が自分の気持ちに気付いた瞬間がそれに当たる。もっとも、知り合いの女性ライター(40代)は、「ここで恋愛を終わりの契機にするのは安易」と批判していたのだが……。(市民)
■プロデュース終了?
彰の「信子狙い」宣言によって終了したプロデュース。彰と信子は放送部へ、修二は元のクラスの人気者グループへと戻るかに見えたが、信子はあからさまに寂しがり、一見けろっとしている修二も仲間との遊びに全然集中できない。自分達でも気付かない間に、彼等は「本当に楽しいこと」が何か、それを味わうために必要な仲間がどんな存在かを知ってしまったのだ。まさに、第3話で語られているように「楽しかったことは後になってからそれが楽しかったと気付く」ものなのだ。(市民)
■スローモーションの演出
野ブタ。をプロデュースではスローモーションやコマ送りの演出が効果的に使われているが、今回はスローモーションが修二と周囲とのズレを強調するシーンで使われている。周囲が残像のようにぼやける中で訥々と語られるモノローグは無自覚な孤独感を強調する。
またスローモーションで過ぎていくまり子の修二が呼びかけるシーンでは、ここで修二が現実のまり子と自分の気持ちと向き合った、ということがわかりやすく表現されている。 (成馬)
■ダダこね競争
修二の家での食事シーンで、一つしかないメロンを誰が食べるかを決めるために、修二父は「一番ムチャでどうにもならないことをダダこねてみせた奴が勝ち」という競争を提案する。この「ダダこね」儀式もまた、ままならない現実と心の中とを調停する「諦め」のための知恵のあり方のひとつといえるだろう。こういうことを、いまどきメロン争いなんていうしょーもないシチュエーションでさらりとできてしまうこのオヤジの人生力はホントただ事ではない!
で、こういう感情マネジメントが図抜けて巧みな父や、その感化ですくすく育つ弟がありながら、修二がちゃんとダダこねられないのは多分、ヘビースモーカーだらけの家族で育った子がえてしてタバコ嫌いになってしまうようなのにも似たリアリティなのだろう(笑)。
ただ、こういう家族の下地があればこそ、野ブタが見破っている修二の本質的な人間好きな部分や機転の利くところ、そしてなんだかんだで周囲の前向きなメッセージを見過ごさず行動できるところなどの潜在的な長所が頷けるというもの。無意識のポテンシャルに、意識が追いついていないだけ。修二は決して、野ブタが過大評価しているわけでもなければ、まり子が恋するに値しないつまらん奴でもないと、僕は思う。で、彼(および野ブタ)に訪れるべき大人へのなり方とは、リニアに鍛えあげられて力を獲得してゆく「成長」というよりも、ある瞬間にパッと鱗が落ちるように切り替わる「脱皮」なのではないか、とも。(中川)
■修二の「コン」
「コン」とは彰がいつも登場シーンで行うジェスチャー。手を影絵のキツネの形にして、ドアをノックするジェスチャーを行う。おそらく、キツネの鳴き声とノックの音をかけているのだろうが、この彰の特徴的なジェスチャーが今回は修二に伝染している。特に、結局表面的な付き合いでしかないクラスの仲間たちとの遊びにノれない修二が、彰と信子の入る放送部を訪ねるときにこのジェスチャーを行っているのはポイントだ。(市民)
■どじっこ萌え
放送部制作の番組のレポーターとして活躍する信子。彼女の奮闘を見て笑うクラスの面々にもはや悪意はない。修二たちの「プロデュース」の効果は如実に表れていたのだ。(市民)
■彰の鼻歌
アンパンマンの替え歌
ナウシカの回想シーンの唄
マンガニッポン昔話のエンディングテーマ
加山雄三の「お嫁においで」
それぞれ彰の感情をうまく伝える使い方をしている。 (成馬)
■秋のセミ、別れの予感
この第7話のテーマが「終わる」「諦める」であることを考えると、この「秋のセミ」のシーンと、夕暮れ時の3人がそれぞれ別方向に別れて行くシーンは実にわかりやすい。ゴーヨク堂が指摘するように、これは否応なしにやってくる「終わり」なのだ。(市民)
■ヨコヤマ人形揚げ
300万円の宝くじをフイにしてしまった横山先生への怒りを昇華し、執着を断ち切るためにキャサリン教頭が作っていた呪いの藁人形的な手料理。手間暇かけてこんなものを作り、ガブリと食うことで、きれいさっぱり気分を変えるという儀式だ。「諦める」ということはただの内心の変化ではなく、具体的な行動をともない、しかも闇雲なストレス発散ではなく、代償行動としてちゃんと意味のある見立てがあることが望ましいという、何やら民俗学めいた知恵さえ垣間見える気がする。
なお、このヨコヤマ人形を頭からガブリと食いちぎった野ブタが、後のビデオ撮影で頭の切れている横山先生を撮っているという芸の細かさも可笑しい(さらに頭から食いちぎるというのも、前回の彰の鯛焼きの頭の方を食べると幸せな気分になる、というエピソードを引いているという重層構造)。(中川)
■「諦めたら、そこで終わりだ」
彰のおじさんも味のあるイイ大人ではあるんだけれど、「諦める」ということについての考え方は、こうした通俗的なものだった(いやまあ、そういう通俗道徳をちゃんと信じきってみせる度量もそれはそれで必要なんだけど…)。その点の人生哲学の深みの微妙な差が、修二と比較した場合の、彰のエゴの抑制という面における未熟さとして出てしまっていたように思う。彼は野ブタを諦めるという決断こそ自分でしたけれど、スパっと諦めるための具体的な儀式行動は、修二のサジェスチョンに依っていたからだ。だから彰(とかまり子)については、トライ&エラーを繰り返しながらの地道な「成長」が、まだまだ必要なんだな、と感じる。(中川)
■ビデオテープと宝くじ
それと連動するのが「宝くじ」と謎の妨害者にズタズタにされた「ビデオテープ」だ。どちらも、一度失われたら戻らない(回復不可能)なもの。「諦める」という今回のテーマも併せて、これはやはり修二たち3人の幸せな時間も、もう終わりを告げようとしていることを示すのだろう。ラスト近く、結局元に戻せなかったビデオテープの画像を、じっと見つめる彰の横顔が悲しい。(市民)
■三人の撮った映像
彰「犬が撮ったビデオみたい(地面や路地を撮る)」
野ブタ(風景や青空を撮るが採用していたのは横山先生の首から下のみ)
修二(人が多い)
修二のビデオを見て野ブタは修二が無関心なふりをしているが人が好きなことに気づく。そして彰は野ブタが修二を気にしていることに気づく。
また三人を撮っている豆腐屋のおじさんの視線がそのまま彼らを見守る大人の視線としてうまく作品の世界観を表している。 (成馬)
■修二の素顔
信子が語る修二の素顔は、やや過大評価といえる。確かに修二は「人が好き」なのだろうし、まわりを大事にするあまり、基本的に自分が我慢する「だだをこねない子供」だ。しかしそれはやはり「子供」のコミュニケーションにすぎない。事実、修二も本音では「ウソなんかつきたくない」と思っているのであり、その苦しさは確実に修二を蝕んでいる。「自分のエゴをむき出しにして他人を傷つける」ことと、「ウソをついて他人を傷つけないこと」は実はどちらも「子供」のコミュニケーションなのだ。人間同士のコミュニケーションは0と1にカッキリ別れるものではない。本音を語りつつ、相手にも合わせるという柔軟な態度が大事なのだが……。(市民)
■野ブタパンチ
野ブタが編集したテープを捨てようとする彰を思わず殴ってしまう野ブタ。一見コミカルだが倒れた彰から鼻血が出たりとかなりナマナマしい。ここは五話でシッタカが反射的に野ブタの唾液で汚れた手を汚いと拒絶するシーンと対になっている。
つまり今度は野ブタの側が反射的に傷つける側へと回ってしまったのだ。木皿泉の作品の登場人物は基本的に皆やさしいが、ふいに感情が湧き出し言ってはいけないことや行為をし傷つけてしまう描写が多い。あとあの野ブタパンチは4話で彰に習ったものだ。 (成馬)
■諦める。
仏教の世界ではで諦めるとは「明らめる」と書き、断念するということではなく、事実を明らかに見るということであり、現実を直視し、それをありのままに受け入れるという意味らしい、修二がそれを知っていたかどうかは不明だがまり子が「私は諦めない」と言った後ビデオの録画を止め修二の気持ちを確かめようとする行為は、その文脈で見た限りではちゃんと繋がっている。そして修二も自分の中のまり子への気持ちを明らめ、彰も野ブタへの気持ちを明らめる。
「すいか」の頃から思うのは木皿泉作品には諦念の美学とでも呼ぶものがある気がする。それは思い出の品を埋める(埋めるや穴は多用される)行為だったり、喪失感を受け入れたり、様々な行為を通して現れるが、同時にいろいろな発見に溢れていることを考えると諦める=「明らめる」とは中々よくできた解釈だなぁ、仏教やるじゃんと思わせる。 (成馬)
■「野ブタの読んでる本が好きだ」「野ブタの歩いている道が好きだ」「野ブタのいる屋上が好きだ」「野ブタのいる所は全部好きだ」
冒頭野ブタを独占したいという彰は、野ブタへの気持ちを断念した後休みの学校の放送室でこう演説する。彰は野ブタ。を独占して閉じ込めておくことよりも三人でいる時間が好きだということに気づく。彰の変化は人を好きになることの両面(独占所有したいという気持ちと彼女を知ることで世界を広がっていくという気持ち)を的確に表現している。どちらも人の心の中にある恋愛感情の両面なのだが前者は君と僕の世界に閉じていくものだが、後者は世界を広げてくれる。彰は野ブタだけでなく、野ブタを含めた周囲の世界を肯定したいという気持ちに気づいたのだ。それは情熱的な感情とは違う落ち着いたもので「すいか」の頃から一貫してスタッフに、こういう価値感があるってことを今の若い子へ伝えたいという気持ちが伝わってくる。 (成馬)
■「どうして感情をむき出しにできるのかなぁ?」「できちゃうのよ切羽つまった人間には」
野ブタの編集したテープがズタズタに切り裂かれた様を見て、その感情を理解できてしまう彰。
これはおそらくネガプロの今までの行動の動機が嫉妬からだと暗示しているのではないか?と予想させる。 この野ブタの世界では感情は唐突に湧き上がるものとして表現されている。
彰を殴ってしまったり反対に修二を抱きしめてしまう野ブタや、嫉妬の感情からビデオを捨てようとしてしまう彰。
彼らにとって感情が湧き上がることはどちらかというとネガティブなもので、感情を抑制し相手を気遣うことの方を美徳して描いてるところが少し他のドラマと違って見えるところだと思う。 (成馬)
■修二とまり子 お昼に野ブタのレポート映像を見て呆けて机に腰掛ける修二そして休みの学校で彰のアナウンスを呆けたように机に腰掛けて聴く修二それは仮面を被った修二が見せた素の表情だ。それに唯一気づくのがまり子だという描写が切ない。 (成馬)
■「俺は寂しい」
そう、修二は寂しい人間だ。視聴者はほぼ全員気付いていただろうが(笑)、修二はこのときはじめて気付いたのだ。スクールカースト(学校社会でのキャラ売りが決める位置づけ)を利用するのに長け、学園生活を「人気者キャラの椅子をめぐるゲーム」と割り切っていた修二だが、彰と信子との付き合いの中でそんな「ゲーム」には回収されないものに気付いたのだ。しかし、修二がそのことを自覚したそのとき、「仲良し3人組」の時間は終わりを告げようとしていたのだ。(市民)
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第6話
http://nobuta2nd.exblog.jp/2690471/
2005-11-24T21:52:48+09:00
2006-03-23T23:25:38+09:00
2005-11-24T21:52:48+09:00
nobuta2nd
第6話
【今週のあらすじ】
何者かによる度重なる誹謗中傷で信子を人気者にする作戦を邪魔されてきた修二と彰は、噂を逆手に取り信子を人気者にする手段を探していた。
そんな折、信子をモチーフにした彰お手製の「ノブタパワー人形」を目にした修二は、人形を流行らせることができれば、信子が人気者になる道も早いと考えた。
そこで、修二と彰は、「ノブタパワー人形」を所持すれば、願い事が叶うという噂を作り上げ、マジナイや占い好きの女子高生の性質を利用すると、人形は一瞬のうちに大流行。
面白いほど売り上げを伸ばした。
浮かれる修二たちだったが、ある落とし穴が待っていた――。
そんな中、彰の実父が、会社を継がせる準備をさせるため、彰を実家に呼び戻すのだった。
それを良しとしない彰は家出をし、修二の家に転がりこむのだった――。
公式サイト
【今週のストーリー解説】
■善良な市民
第6話は『野ブタ。』のメインテーマのひとつ「価値観」をめぐるドラマが、「商品の流行り廃り」というわかりやすいアイテムで語られている。修二たちの売り出した「野ブタ。」キィホルダーは、修二の「噂」を利用した販売戦略が功を奏して発売当初こそ絶大な人気を見せて売れに売れまくるが、やがてその効力が切れた途端にまったく売れなくなる。まさに「人の噂も七十五日」だ。修二たちはこの挫折をきっかけに、自分たちが小さな世界の住人であること、そしてやがてこの時間が終わっていくことをを強く意識する。
修二たちのやっている価値観の書き換えゲームは現実の社会でも行われていることだ。そう、彼等がやっていることは、決して学校という比較的小さな世界の中での「ごっこ遊び」ではないのだ。いや、今は確かにそうかもしれない。しかし、それはやがて彼等が踏み出していく「次」の世界へ続いていく「ごっこ遊び」なのだ。
この第6話では、「今、ここ」の瞬間の価値を美しいものとして提示しながら、やがてこの幸福な時間が終わっていくこと、「次」に行かなくてはいけないことを強く刻み付けられる。その結果もたらされたものは何か……。それは、彰の「信ブタを俺だけのものにしたい」というラストの宣言だった。そう、彰は「次」の段階へ進むことを決意したのだ。
彼等の幸福な時間は、だんだんと終わりに近づいていこうとしている。だが、彼等は気付いているだろうか。それは「終わる」からこそ貴重なものだということを。
■成馬01
仮に「野ブタをプロデュース」がどういう話?と問われれば「価値感を巡る話を学園モノの枠組みで描いた物語だ」と俺は答えると思う。
今回の話はそれが一番良く出ていた2話でやったことの発展編でもあり、その挫折とプロデュースという曖昧な関係の終わりの予感を感じさせる回だった。つまり価値を巡る「問いかけ」と将来の進路とも絡む「今・ここ」が確実に終わっていく前兆。 そして学園モノ、あるいは青春モノは渦中の楽しさを描いていればいるほど、どういう風に、その時間が終わっていくのか? 居心地のいい世界からどう卒業するのか? が問われていく。 今回野ブタは「次に行かなくちゃ」と言い彰は「プロデュースをやめたい」とう所で終わり、幸福なトライアングルが一端終わり修二が取り残される予兆のようなものを感じさせる。また面白かったのは今回野ブタグッズ販売は修二たちにとって痛い失敗として終わり、修二はこんなことなら本気でやらなきゃよかったと後悔するのだが、見ている側からすると、例えば修二はビジネスの面白さに目覚め、野ブタは手先を使った仕事に将来進むのでは?という予感を与えてくれる。
一見将来の進路を決めるということから逃避のたねに没頭してるように見えたことですら、ちゃんと繋がっているんだよ、という最後は作り手の優しい目線を感じる回だったなぁと思う。
■中川大地
今回はあっと驚かせてくれる仕掛けが弱く、ちょっと物足りなかったかな。修二たち3人の活動に、親たちや先生たちの一見関係なさそうな挿話が意外なかたちで主題的に絡む、というのがこのドラマのプロット構成上の面白さのひとつなんですが、初登場の彰の親父や横山先生が過去に抱いていた将来の夢の話と、進路のことで揺れる修二・彰との絡ませ方はストレートすぎ、いまいちな印象でした。「お金よりも心」な通俗教訓話以上のハッとするような「気づき」も特に見出せなかったし。
冒頭の桐谷家の会話(この家族大好き)で、「バラバラ死体をスーツケースに詰めて頼ってくる友達の話を黙って聞いてやるほど、友情にアツイ男になりたかった」修二父の話が、直後の彰の登場の前フリというだけでなくて、後半の仕掛けにも何か絡んでくれたら面白かったんだけど……。
あとまあ、今となっては野ブタが修二たちに「プロデュースさせてやってる」感が漂ってしまうのも辛いとこですね。そういうモラトリアム関係の終わりの始まりがテーマの回だから仕方ないといえば仕方ないんですが、野ブタが普通にいい子すぎて感情移入しづらくなってきてる感はあります。売れ残りキーホルダーへのペンキの嫌がらせも、なんかプロット上のお約束の段取りみたいな感じで、「これで次行けるから」というのもウーンと思った。ま、「強くなる」ってそういうことなんだろうけど……。
とはいえ、そういう不満点はたぶんこちらが擦れすぎてこのドラマへの欲が深くなりすぎてるがゆえのもので、この年頃の子らが人生の原理原則の噛みしめ方としては、すごく妥当だし丁寧に描かれてると思います。全10話が折り返してすぐに「終わり」を意識させる彼らの成長とシリーズ構成の未練のない早さに、こっちが寂しさを感じてるだけかもしれないな、とも。
【今週のチェックポイント 】
■噂には噂で対抗!
そう、「野ブタ。」の基本的な世界観は「世の中にハッキリした価値の基準なんてない」というもの。だから噂を利用して信子の価値を上げてしまおうという修二の発想はまさにこの物語の基本に立ち戻ったものと言える。
事実キィホルダーは修二たちの「やらせ」も効を奏して最初爆発的に売れ、キィホルダーのおまじない効果は抜群の信頼度を得ることになる。それにしても、修二の甘言ひとつで人を好きになってしまうクラスメイトというのは、まさに「野ブタ。」ならではの発想と言える。でも、割と世の中こんなものだよなあ。(市民)
■お金という数値化された価値感
野ブタを人気モノにするためにグッズを作り広めるという目的がいつしか数字の魔力に当てられお金を稼ぐということに捕らわれてしまう修二。
前作「すいか」でも主人公が信用金庫に勤めていた関係もあってかお金にまつわる話は何度も出てきたがお金は木皿泉作品にとって重要なモチーフかもしれない。
もっと言うとそれは数値化された価値観という方がはまりがいい。社会が流動的になり、わかりやすい国や神のような価値感が弱体化する中で私たちはお金のほかにも成績、体重、あるいは友達の数などの数字の価値感に囲まれて生きている。本来お金とは商品あるいは何らかの価値のある存在と交換できる存在として現れる。だからただ所有しているだけでは無価値なものだ。だが所有することで所有紙幣や効果の数字が可視化される時そこに具体的な力、価値感を感じ錯覚しいつしか数字の上昇が目的となってしまうことが残念ながら多々あるのだ。「すいか」ではお金の描写(数値化された価値感)と対抗するようにハピネス三茶での談話、食事のシーン(数値化できないもの)が何度となく繰り返されてきたがこれはきっと野ブタにおける見えるものと見えないものというドラマの対立項とも繋がっているのだろうと思う。 (成馬)
■進路調査のプリントで折られた紙飛行機
他の生徒がしっかり進路のことを考えてることに驚く修二と対比される形で屋上で紙飛行機を折る三人。その姿はまるで将来という現実について考えることを保留にするためにプロデュースをしているかのように見える。この回ではプロデュースという言葉にくるむことで出来上がってたものが幸福なモラトリアムの時間だったことが、その崩壊を見せることで気付かせてくれる。だからこそ野ブタは最後に「私たち次にいかなきゃ」と言うのだろう。 (成馬)
■「こっちがオリジナルだろ」
本来そういうジャッジをしない「みんながいい、と思うものがいい」という価値感を生きてるはずの修二がこの台詞を言うのがかなり可笑しい。 (成馬)
■「ニセモノに負けてられるかよ」
しかしこの場合の勝ち負けとは何なのだろうか?
一方で彰の父親が「俺、金に負けちゃったよ」と回想で語るシーンが挿入される。そもそもこのドラマの「野ブタを人気モノにする」という目的自体が勝ち負けが曖昧なものだ。
勝負というものは同じルール、価値感を共有して初めて成立する。スポーツが人気なのはルールが明確で同じ価値を巡って争ってるという前提が疑いようがないからだ。
だけど、「野ブタ~」で描かれてるような戦いはルール自体が曖昧で目的も人気モノにするとあるが、それがどういう状態なのかはおそらく修二ですらもよくわかっておらず、だからいつしか目的が摩り替わってしまったのだろう。今回の修二の敗北は金銭の獲得がゲームの勝利条件だというルールをいつの間にか受け入れていたからだといえる。
逆にいうと、どのようなルールかに自覚的でないと、すぐわかりやすい対立項に飲み込まれてしまうのだ。また普段クールな修二が勝負になると熱くなり自分を見失う一方で今回終始クールな野ブタの描写の対比、そして最後に野ブタが励ましているのを見ると、いつの間にか力関系が変化していることに気付かされる。 (成馬)
■横山先生の詩集 (1)
野ブタグッズの売れ行きと対比される形で描写されるダンボールに入っている横山先生の自主制作の詩集。これは横山先生の青春の思い出だった。3話の落書きを見に来る本屋のオヤジや生霊になって現れた元生徒など、この作品には思い出を大事に抱えている大人が多数登場し、それが彼らの人としての優しさの根拠になっている。またこの詩集は野ブタグッズのブームと入れ替わる形で生徒の間で大ブームとなる、ただし横山先生の執筆当初の意図とは別の「笑える本」として。
この詩集の挿話で、モノの価値や評価とは受けて次第でまるで意味は変わる曖昧なものだという価値感を更にダメ出しする。 (成馬)
■横山先生の詩集(2)
修二たちが売りだしたキィホルダーのブームと入れ替わるように、ゴーヨク堂店主が売り出した横山先生の詩集がブームを起こす。一度は捨てられようとした横山先生が若い頃に書いた詩集が、ちょっとしたきっかけで大ブームを起こす。これは第1話以来繰り返されてきた、「小さな世界での価値観は簡単にひっくり返る」というこの物語における基本的な世界観の反復である。(市民)
■ゴーヨク堂と横山先生
と、同時にこの第6話では、横山先生が詩人を諦めて生活のために教師になった「夢を捨てた大人」として描かれていることにも注目だ。横山はゴーヨク堂の店主に「(夢とお金でお金を取ったことを)後悔しているか?」と尋ねられて「していません」と答える。そして、(これまでの横山のやる気のない言動からは想像できないが)「今のこの仕事が好きなんです」と独白する。そしてゴーヨク堂の店主は、横山の詩集を自分の店で扱うことを提案する。
第1話でゴーヨク堂店主は、店に逃げ込んできた信子に、小さな世界の価値観は書き換え可能であることを示唆する。そして第6話では横山に、彼が捨て去った「もう一つの可能性」をプレゼントする。ドラマ版「野ブタ。」において、ゴーヨク堂店主は、小さな世界のローカルな価値観に埋没しそうになっている登場人物に、それだけが全てではないことを気付かせる存在なのだ。もっとも、この6話の場合、ゴーヨク堂が横山にこういう提案をしたのは、「今の仕事が好き」な横山ならば、自分が詩集を売り出したところで勘違いし、自分を見失ったりしないという確信があったからだろう。(市民)
■「私は変わってないのに」
今回修二が行った野ブタグッズ販売は学校内あるいはせいぜい近隣の中だけで行った小さな商売だったが、その小さな世界の中にモノを作り価値を与え売るということはどういうことか?そして追従するコピーが出回り、競争になり質を上げ価格を低下させる内に回りから飽きられゴミになって忘れられていくという、ある種の社会の縮図を描いている。ただここまでならよくある話でクドカンのタイガー&ドラゴンでも似たような話はあった。
本来、衣食住つまり生活に関連しないものに価値を付加して大量消費させる、というのは言ってみればテレビドラマを作ってるスタッフの心情でもあるのだろう。
前作「すいか」は質は高かったものの残念ながら高視聴率には結びつかなった。それに対し今回はジャニーズの人気アイドルを使いメジャーな学園モノという題材で同じテーマを展開したがための、平均15パーセントの数字を獲得し高い評価も得ている。野ブタの「私は変わってないのに」というのはまるで作り手の苦笑のようだ。だから今回の修二と野ブタの意見の食い違いは、そのまま「すいか」から「野ブタ」へ経由していく上での木皿泉やスタッフのジレンマだとも言えなくない。
ただそれを迎合だと作り手が恥じているか?というとそれは違うと思う。すべてが終わり上辺だけのブームが過ぎた後、誰かの宝箱の片隅に残っている野ブタ人形を見ていると、そこに「本当にいいものは時間を得てもちゃんと残るのだ」という確信のようなものすら感じる。 (成馬)
■修二と信子の路線対立
第6話ではキィ・ホルダーの販売方針を巡って、修二と信子が対立する。修二は「ライバルたちに負けたくない」と言い、あくまで売り上げにこだわる。対する信子は「誰かを勇気づけられたらそれでいい」と言う。このふたりは、どちらも無自覚に「キィホルダー販売を通して信子を人気者にする」という当初の目標を忘れている。修二は自分の能力をお金と言うハッキリとした形で示すことを望み、信子は自分のつくったものにロマンチックな意味を求めている。これは決して不幸なことではない。彼等はまだ自覚していないが、こういうことを通して人間「自分のやりたいこと」が少しずつわかっていくものなのだ。(市民)
■お金の裏と表
お金儲けに勤しむ修二たちに教頭は「お金には裏と表の顔がある」と諭す。この「表」とは価値観が数値化されることのメリットであり、「裏」とは価値観が数値化されてしまうことで見えなくなってしまうものがあるという暗黒面である。事実、修二はこのお金の「裏」の面に報復される。お金と言う「数値化された価値」でしか、物事の価値を測れなくなってしまい、それがもっと他の(数値化されない)充実感をもとめる信子との路線対立を生んでいくのだ。
ちなみに、このお金の裏と表の話は彰の父が後半口にする「お前は道端の10円玉でいろ!」という台詞につながっていく。(市民)
■まり子の距離感
前話以来、修二がどうやら彰・信子とは、自分の知らない「本当の姿」で関係を結んでいるらしいことが気になりだしてるまり子。前回チェックポイントで成馬さんが「人の可視化されたコミュニケーションを疑わない鈍感さ」がゆえにいい奴だと彼女を評していたけど、僕はそうではなく、自分には「本当の姿」を見せてくれない修二の不可視な部分をずっと気にして、そこへのアクセス方法を愚直に不器用に探しているコなのだと思う。今回、野ブタグッズづくりに入れ込む修二の「本気」に気づいていたし、そこになんとかコミットしたいと思ってヘコんでる修二に「私買ってあげる」と、下手だけどまっすぐな入り方をして苛立たせる。で、そこではじめて「本当の姿」に触れられることになった。「次に行かなきゃ」は、きっと彼女についても言えることなのだろう。ガンバレ、おれはきみを応援してる! (中川)
■彰の父
かつて会社を継ぐことを拒否して、妻と幼い彰を連れて家出したことがある彰の父は、横山先生と同じような「夢を捨てた大人」だ。だが、横山同様に、この物語はそんな「夢を捨てた大人」に優しい。彼等は決して「敗者」として描かれることもないし、「夢をなくした抜け殻」とも描かれない。今回の修二たちがそうであったように、試行錯誤を繰り返して少しずつ「自分にとって本当に価値があるものがなにか」を突き止めていった存在として描かれているのがポイントだ。(市民)
■「お前は道端の10円玉でいろ!」
最後の彰と彰の父親の会話で彰の父親は硬貨と紙幣が綺麗に分類された金庫の中を見せ「俺が住んでいるのはこういう世界だ」という。彰の父親は「覚悟を決めろ」と会社を継がせようとして現れた。今回の話はグッズを売る話と将来を考える話の二重構造だが、彰が将来について導きだした解答は急いで進路を決めることでなく、立場を保留にし曖昧な「今・ここ」でじっくり考えるということだ。
そしてこの父親とのやりとりから逆算する形で今までの彰の行動が結果や外見・数字などの目に見えることにこだわる修二と「だれかの力になれた」とか「喜んでもらえた」などの内的な見えないものにこだわる野ブタの中間的な位置で行動してきたのだなぁと思い出させる。
そしてその彰が「プロデュースを辞めたい」と言う=曖昧な関系の終わりを宣言するというラストが物語は確実に終わりに向かっていることをわからせてくれる。(成馬)
■タイムカプセル
信子が公園でみつけた、近所の子供のものらしいタイムカプセル。そこには彼女達が手作りでつくったキィホルダーが大切にしまわれていた。信子は修二と彰にこのタイムカプセルを見せて、自分たちのやったことは意味のないことではなかったのだと力説する。
これもまた、メディアを通してメッセージを発進し続けるスタッフの思いのようなものなのだろう。幸いにもこのドラマはヒットしているが、それが私たち視聴者の心に何を残したか……それが問題なのだとこのシーンは訴えている。(市民)
■次に進むしかない
結局、キィホルダー販売に失敗し、大量の在庫を抱えてしまった修二たち。止目に謎の妨害者に在庫を台無しにされてしまった彼等は「次に進むしかない」と言って失敗を認め、在庫を処分する。この挫折はかつて詩人への道を諦めた横山の失敗や、実家の会社を継ぐことを拒否して家出したはいいものに、すぐに経済的に行き詰って実家に戻った彰の父の挫折にも重なる。この物語において、失敗することは決して負の価値ではない。横山や彰の父と同じように、こうして試行錯誤を繰り返すことこそが大切なのだと、この物語は訴えているのだ。(市民)
■「鯛焼きの頭の方を食べてると幸せな気持ちにならない?」
彰は野ブタと修二にこのことを聞くが二人は「別に」と言う。 そういう気持ちになるのは父親との思い出が元にあり、それに気付くことがオチになっているのだが、一方で彰は「やっぱ俺だけか」とつぶやく。 みんないっしょだった一体感の喪失の予感は、ここでも暗示されている。(成馬)
■ちゃんとした人間になる。」
修二はラスト、進路希望用紙にそんな目標を書いた。そう、第1話で信子と一緒にいる修二の前にひらりと舞い降りたキャサリン教頭が、「こいつ、ちゃんとした人間に教育してやって」と、どちらに向けたのかをぼかすかたちでかけた言葉だ。結果的に、上辺のことにとらわれすぎな修二を、野ブタが導くというかたちで伏線が回収されたわけである。
これは第1話を観て以来の感想でもあるが、修二は最初から、決して自分が思っているほど、数量的な価値や勝ち負けだけを重視し、「心」を信じない上辺づくろいの空虚なゲームに身をやつしている人間ではない。何かに本気になって、それが挫折して今回のように余裕なくヘコむことを無意識に恐れているゆえに、万事を「ゲーム」と割り切るよう、常に自分に言い聞かせているだけなのだ。そうして自分を誤魔化している状態が「ちゃんとしていない」ことを、どこかでわきまえているからこそ、いつも最後の最後では大事なことにちゃんと気づくし、そういう彼の本質を見抜いているからこそ彰や野ブタは信頼を寄せる。あの家族の中で育って、そんなに虚ろな人間になるはずがないのだ。 (中川)
■不真面目なのか? いや、真面目なのか
ラスト前、修二、彰、信子の3人が提出した進路調査用紙を見て、横山先生はこう漏らす。「ちゃんとした大人になりたい」修二、「道端の十円玉」と書いた彰、そして「笑って生きる」と書いた信子。無論、こういう公の場で個人的な思いをぶちまけることは不真面目な行為に映るかもしれないし、「イタい」行為かもしれない。しかし横山先生はこれを「真面目」なのだと思い直す。冒頭での修二のモノローグにあったように、高校生が一週間やそこらで将来のことを決めるなんてまず無理なことだ。だから、彼等はジタバタともがきながら、試行錯誤を繰り返しながら、少しずつ前に進んでいく。確かに時間は限られているが、それを暖かく見守る大人たちに、幸いにも修二たちは恵まれているのだ。(市民)
■大人たちの背中
冒頭、「俺たちもあんな退屈そうな大人になるのかなあ」と出勤途中のサラリーマンを見つめていた修二の視線はラストシーンでは大きく変化している。そう、冒頭では自分が「大人になる」ことを想像もつかなかった修二だが、このシーンでは「あの人たちも自分と同じように葛藤を抱えていたんじゃないか」と想像している。これは決して妥協でもなければ敗北でもない。ゆっくりとした歩みではあるが、確かな成熟である。(市民)
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第5話
http://nobuta2nd.exblog.jp/2618872/
2005-11-16T19:51:52+09:00
2006-03-23T22:20:07+09:00
2005-11-16T19:51:52+09:00
nobuta2nd
第5話
【今週のあらすじ】
服装や髪型、外見をプロデュースすることで、見事、虐められっこの信子を大変身させた修二と彰だったが、信子には根本的な何かが不足しているように感じていた。
周囲のクラスメイト女子と比べ、信子に不足しているものは恋愛経験だと考えた修二は、タイミングよくして信子に想いを寄せるクラスメイト、シッタカの存在を知り、修二のガールフレンド、上原まり子を巻き込んで、ダブルデートを決行するのだったーー。
一方、信子に恋心を抱きはじめた彰は、そんなデート作戦がおもしろい筈もなくーー。
果たして、それぞれの恋の行方は―――!?
公式サイト
【今週のストーリー解説】
■善良な市民
前半戦だけで随分遠くに来てしまったなあ、というのが正直な感想。あの原作から、ここまで広がりを見せるとは正直思っていなかったので、これは嬉しい誤算。
例えば今回描かれた信子の密かな成長がそうだ。
修二の発案でとりはあえず「男に媚びる小手先のテクニック」を身につけるため、シッタカとデートすることにした信子だったが、結局「好きでもない人と付き合うのは、違うと思う」と自らその計画から降りてしまう。しかし、これは他人に媚びる(合わせる)ことを嫌う成熟拒否ではない。信子の中には、いつの間にか「ただ人気者になれればいい」という狭い世界での自己実現よりも、もっと大きな人間的な成長が視界に入っていたのだ。これってそこらのドラマだったら、この辺りを最終回のオチにして「視野の狭い若者達に大切なメッセージを伝えましたよ」とふんぞり返るところなのだが、なんてったってこのドラマはまだ5話である。まだ山の中腹にしか達していない。
いじめられっ子の信子は「笑える」ように、満たされているが故に空虚だった彰は「恋」を知り、そして修二は「人の幸せを喜べない奴には、絶対負けたくない」とはじめて思う……。
前半5話にして、何を目指し、何を求めればいいのかという「はじまり」の物語が一通り完結したかに見えるドラマ版「野ブタ。」。彼ら3人の目的は達成されるのか、それとも……。これからもその着地点を注意深く見守っていきたい。
■成馬01
前回自分の気持ちに気付いた彰が案の定おかしくなっててそのおかしさがかわいくてかわいくて俺は頭撫でてあげたくなるよ(笑)ホント男は恋をすると小学生になるなぁと自分のことをいろいろ思い出し愉快な気分になる。基本は野ブタとシッタカ、まり子と修二のWデートをのけ者にされた彰が遠くから尾行するという話で進み後半は以外な流れに~というもの。演出も変なカット割りやスローになったりとよりトリッキーになっている。
また今回は今までの一話完結の作りに較べるとオチが弱いというかわかりやすいカタルシスがないが、それはこのドラマが安易に結論を出せない部分に踏み込もうとしているからではないかと思う。また修二がネガティブプロデューサーの存在を意識したりと物語が動き出す予兆のようなものを感じさせる。
テーマ的な部分はチェックポイントに回すとして今回は三人がそれぞれ均等に描かれてるような気がした。このドラマの構成で俺が予想してたのは前半は野ブタの成長過程を描き、後半は原作ではおざなりだった修二の内面の問題に踏み込むと同時に彰と野ブタが修二を助けるような話になると想像していたのだが、今は三人それぞれが主役と言ってもいうような混沌とした物語になってしまった、と同時にシッタカ、バンドー、まり子などのサブキャラもちゃんと描かれている。
これは嬉しい誤算だ。1,2話で感じたような修二と彰のヒーロー性はどんどん落ち着き、逆に一方的な弱者に見えた野ブタは芯にもってた揺るがない強さが大きくなり、むしろ、その強さに修二と彰が影響を受けている。
それぞれがまだ未熟な10代の高校生でありながら、その限界の中でせいいっぱい最良と思う道をぶつかりながらも模索している、こういうのを青春って言うんだよなぁと思う。
■中川大地
アヒャヒャヒャヒャ、彰苦しんでる苦しんでるよ! もう嗜虐心そそられて顔ニヤケっぱなし。たまらん、たまらん、たまらんぜ~!!
シッタカの視線だけで野ブタへの恋心を一瞬にして見抜いてしまう修二が、まるっきりあからさまな彰の方にはお約束どおりベタに鈍感なのも可笑しい。まり子へのもっともらしい台詞と裏腹の彼女の態度へのテキトーさなんかとも相まって、自分自身が当事者になる想いに対しては、無意識に認識がシャットされてしまうということなんだろうな。
それにしてもまり子、いい女じゃんけんのう! 修二にちゃんと向きあってもらえない寂しさは実はこれまでの回でもさらっと描かれてきていたのだけれど、プロデュース作戦のWデートというかたちで初めて本気でコミットする修二と接して「今日は本当に楽しかったよ……って、届いたかな」と言うあたりは、自分のことをいろいろ思いだしズキンときました(苦笑)。
あと、シッタカが水族館でのデート中、じいさんを介抱して吐瀉物を手にぬぐった野ブタに触れられて思わず「汚ねっ」と叫んでしまった不作為で、惚れた子の信頼を失って後悔と自己嫌悪に陥るやるせなさとか……。
というような、これまで風景だったサブキャラたちの心象がクローズアップされた「普通の恋愛ドラマ」としての場面があれこれ心に染みる話でした。
でもって、それだけにじいさん介抱時に登場した彰がヒーローやって一緒に救急車に乗って、野ブタに「きれいな手だ」と言うあたりのオイシイとこ取りは、やっぱどーも釈然としないトコあるんだよなあ(笑)。はずれ者同士ゆえの聖性とか真実を共有する連帯、みたいなところへの落とし込み方が簡単すぎる気がして。
いやまあ、ドラマとして当然の予定調和であり、ちゃんと主役が主役として機能する安心感もきっちり感じているのだけど、あまりにも順調にまっとうに成長していく信子と彰が眩しくて、こちらの中のヒネクレ虫が騒いでるだけなんでしょうが……。
そんなわけで、放っておいてもスクスクと育つだろう二人(いや、彰も野ブタも可愛くてしょうがないだから言ってんだからね!)は、やはり僕なんかからするとあくまで主人公・修二の導き役という気がします。このドラマの根幹をなすリアリティや葛藤の体現者は、最終的には修二なのかなと。
その意味で、ついにネガティブプロデューサー候補(チェックポイント参照)が画面に登場し、第1話ラストのナレーションで示唆されていた「大きな悪意との対決」に向けて物語全体が転回していくターニングポイントなのだと感じさせる演出が随所にあった点は興味深いところ(話数的にもちょうど折り返しだし)。当面の憎まれ役だったバンドーとの決着がひとまず前話で済んでいるし、プロデュース組の屋上ブリーフィング風景までが写真に撮られていることから、修二が今回の信子への中傷ビラ撒きやこれまでの数々の妨害が別の一貫した悪意であることを意識する前提もできているわけで、このへんのシリーズ構成はよく練られているなあと思いました。次回のいかにも一話完結ネタ風にみえる予告がどう裏切られ深まっていくのか楽しみ。
【今週のチェックポイント】
■キャピキャピ感
クラスの女生徒の甘ったるい声やしなる体を見て野ブタに足りない女っぽさに気付く修二。ここで野ブタの動作が、いかにかわいい女の子の動きからズレたものだったかに気付く。まず全体的に重く、亀みたいにのっさのっさ歩く。
猫背で下を向き肩を張り大股で歩く。(ついでにスカートの丈も長くやぼったい)冒頭のラブレターを見た瞬間倒れるシーンもドサッて感じで10代の女の子の軽快な感じがまったくない。(でも、この重たい動作の野ブタがかわいいんだよなぁと見ている人は思っているはずだ。理由の説明は不要であろう。)
当たり前だけど実際の掘北真希は姿勢もちゃんとしてるしグラビアで見る限り身体もしなやかだ。だからこういう細かい動作から演技に入ってたんだなぁと逆に再発見させられた。それにしてもクラスの女子の媚びっぷりを冷静に見てる修二ってのは悲しいなぁ。 (成馬)
■手を握る。
この回では繰り返し手を握るシーンが出てきた。修二を野ブタに見立て暗に告白する彰や野ブタをリードするため先にまり子と手を繋ぐ修二、あるいは汚れた手ゆえしったかに拒絶される野ブタ。そして救急車の中で汚くないと野ブタの手を握る彰。体を触るという行為は大きなコミュニケーションだが、それぞれの手を握るシーンの意味合いはまったく違っている。 (成馬)
■噂と相場
この学校を支配する価値観はわかりやすい強者の権力でなく情報である。生徒の評判はどれだけ好意的な信頼性のある情報を得ているかであり、その人気には相場がありその上下に皆が右往左往する。だからこそネガティブプロデューサーは誹謗中傷のビラをばら撒く、その情報が正しいかどうか?は問題ではなく、不特定の誰かがよく思ってないということが学校では問題なのだ。その威力を知っているからこそ修二は焦り(それはまた修二の武器でもあるからだ)逆に彰と野ブタはあまり動じてないのが興味深い対比だ。この作品は小さな教室という舞台を使いある種の社会を体現しているそして来週の予告を見ると貨幣まで絡むようではないか!
これではまるで市場経済だ。 (成馬)
■不吉な九官鳥の笑い声
1話の猿の手、3話の生霊、4話のホントおじさんなど、怪談チックな現象がサブプロット的に絡みつつ(そしてその狂言回しになるのが、人間離れした魔女のような存在感で描かれるキャサリン教頭)、本筋の主題を暗喩的に示して修二たちの気づきを促すガジェットとして機能するのが『野ブタ。』の世界観と作劇の特徴だが、今回は「聞くとクラスに不吉な事件が起こる」という噂の奇妙な笑い声が出てくる。その正体はこれまでのような超自然の怪異ではなく、九官鳥の真似声にすぎなかったことがわかるが、不吉の予感どおりWデートの翌日に学校中に貼り出された中傷ビラ事件で信子やまり子への悪い噂が流れることに。おそらくは誰かの人為による悪意が人々の口にのぼることで、真実から目をくらます信念になってしまう構造を示唆しており、修二がネガプロの存在感に気づく、という伏線だと思われる。 (中川)
■上原まり子
上原まり子はいい奴だ、それは彼女が人と人の可視化されたコミュニケーションを疑わない鈍感さから来ている。彼女はお弁当を作り「ありがとう」と心をこめて言えば相手(修二)が喜んでくれると信じている。修二にとって大事なのは表層で心というものを保留にすることで今の自分を維持しているという昔の宮台真司みたいな奴だから、簡単に「心をこめて」と言える、まり子をいい奴だと思えても好きにはなれないのだと思う。噂に対してまり子は「誰か一人だけ本当のこと知っててくれればそれで充分」と修二に言う、だが修二にとって本当の自分を見せられるのはまり子でなく彰や野ブタなのだ。原作ではまり子は追い詰められた修二を聖母のように救おうとするが修二に拒絶される。この二人の関係は今後どうなるか?は修二のホントの姿をまり子が知った時わかるだろう。 (成馬)
■シッタカの映画ネタ
今回クラスの風景の中から浮かびあがってきたのが、あだ名どおり第1話で修二に「自分には一生関係ないようなテレビの話しかしないやつ」的なモノローグで揶揄されていたシッタカ。彼が水族館で信子に話していたデート会話は映画ネタ。スティーブン・キング原作、ブライアン・デ・パルマ監督の『キャリー』についてだった。
ハイスクールでいじめられる変わり者の少女が超能力に目覚める復讐劇として有名なサイコ・ホラーの金字塔をここに持ってくるあたり、彼がなぜ信子に惹かれたのかのバックボーンをそれとなく匂わせる描写になっているのと同時に、『野ブタ。』の作品性ともダブらせるメタな暗喩にもなっている。
だが、深読みするとそれだけでなく、今回ふられたシッタカ自身がダークな方向に行くかもしれない暗示になるかも?という気もするので、今後に注目。 (中川)
■修二-母と信子-父のクロスオーバー
Wデートのさなか、いろいろ野ブタに気をもむ修二に、「修二君って小谷さんのお父さんみたい」と告げるまり子。信子の「お父さん」といえば、母の再婚相手で幼少期にコミュニケーションに失敗してその後の性格形成の原因になった継父である。
また、海外に出ずっぱりでなかなか帰ってこないという設定の修二の母ノブコが、第1話以来の登場。しかしずっと寝てばかりで、ろくに修二とのコミュニケーションはとれずじまいでまた海外へ。その飛行機を見送りながら、滅多に会えないからこそ自分のことを知ってくれてる人との絆が欲しくて母と結婚したのだという父との会話で、母の愛称が「ノブタン」だったと知り、修二は驚きながら野ブタのことを思う。
これが野ブタのことをもっと知ろう、自分が彼女の自然な笑顔を見たいからこそプロデュースをするのだという気づきに結びついていくのだが、修二と信子がお互いにコミュニケーションに不全を感じている親の存在感が重なりあう相手だという構図がほのめかされているわけだ。二人がそれぞれ抱く欠落が、片やキャッチボールのできない心の閉ざしに、片や過剰で空疎なコミュニケーションスキルに繋がっていたという。
そんな二人ともお互いの存在によって、初期の限界からかなり踏み出して成長してきているわけだが、その必然を改めて図解きして説明する場面なのである(彰はその図式からすると「触媒」なんだな。その無意識の自覚が、野ブタへの恋心への戸惑いに繋がってるところもあると思う)。 (中川)
■プロデュースからキャッチボールへ
この回で修二は「人気ものになりたくないのか?」と野ブタに問い、野ブタは「(人気ものになって)みんなにありがとうと言いたい」という、そして修二は「俺がお前を人気モノにしたい」と言う。いつしか人気モノになりたいという目標よりも三人の関係こそが大きなものになっている。これがもし最初から友情とか仲間みたいなものを前面に出したものだったら三人は手を組めなかっただろう、ある種プロデュースというドライな関係からはじまり、序々に信頼を築いていったのだ。
また「二人にボールを投げてもらうのを受け取るのが精一杯だからいつかボールを投げ返したい」と野ブタは彰に言うが、実は知らず知らずの内に野ブタは二人にボールを投げ返していることが最後に修二が球を投げるシーンでわかる。しかもその球は野ブタへの誹謗中傷が書かれたビラを丸めたものだ。
その意味でこのキャッチボールのシーンがそのまま、この作品全体を象徴するシーンだと言える。 (成馬)
■キャッチボール
「会話のキャッチボール」という会話があるように、キャッチボールというアイテムはコミュニケーションの暗喩として使われることが多い。
最近で有名なのはやはり名作『木更津キャッツアイ』でのぶっさん(岡田准一)と美礼先生(薬師丸ひろ子)がキャッチボールをするシーンだろう。
ストレス過剰で勤務先の高校で問題を起こし、謹慎処分を喰らって「引きこもり」になった美礼先生を、ぶっさんが元気付けるためにキャッチボールに誘う。そしてボールを追ってキャッチボールを続ける間に、いつの間にか二人は学校にまでやって来てしまう……。そう、ぶっさんはキャッチボールをすることで美礼先生にもう一度学校に戻って欲しかったのだ。
これに対して「野ブタ。」第5話のキャッチボールは、同じようにコミュニケーションの暗喩として用いられながらも若干ニュアンスが違う。ここではもらったボール(心のこもったコミュニケーション)を投げ返すという行為は、相手の誠意に対等な立場から誠意をもって返すということを意味している。前話で修二からも大切な仲間と認識され、今回、それに応えるために独り隠れて努力するさまが描かれた信子は、今回ようやくボールを投げ返す資格を手にいれたのだ。その手つきはまだおぼつかない。だが、それは大きな第一歩、いや「第一球」のはずである。 (市民)
■だれか一人でもいれば
世界中を仕事で飛び回る修二の母と、それを見送る父。父は語る。「世界中でたったひとりでも、俺のことをちゃんと知っていてくれる人がいるって思えれば、それでいいんだ」と。また、修二がプロデュースしたWデートでのやらせ演技のせいで、学校中に悪い噂が広まった上原まり子は「修二さえ本当のことを知っていてくれれば、それでいい」と意に介さない。父やまり子の語る「思想」は、学校という期間限定の箱庭での「キャラ」を演出することに長け、その「期間限定の小さな世界」でしか通用しないはかなさを達観して、平気で受け流そうとする修二の思想とは対極を成している。父やまり子の大切にしているものは「永遠」でこそないものの、時間をかけて培った中・長期的な入れ替え不可能性の高い(笑)関係だ。今のところ、物語は入れ替え可能な「キャラ設定」で満足していた修二が、「入れ替え不可能なホンモノの関係」のよさに気付くという形で進行していっている。これからはじまる後半戦、この修二の物語がどういう展開を見せるかは、もっとも注目すべきポイントのひとつだろう。 (市民)
■シッタカの失敗
だが、この「君さえいれば」思想は実は非常に危うい部分を孕んでもいる。この思想はやもすれば少年の自意識の問題を解決するために、ご都合主義的に設定されたオタク好きする美少女にセカイごと彼等を承認してくれるなんていう、どうしようもないマッチョイズム(オトノノコの他者なきセカイ系ロマンス)に墜しかねないからだ。今回、シッタカというオタク少年を登場させ、その身勝手な他者なきロマンスに冷淡なスタンスを見せたこの作品が、それでも「ホンモノの関係」を志向する中でどういう着地点を見せるのかは非常に楽しみだ。それはたとえば修二の父母のような男女の関係として提示されるのだろうか。それとも、学園祭で3人並んで撮ったポラロイドの中に閉じ込められたような美しい関係として提示されるのだろうか。あるいは……? (市民)
■黒いソックスの女生徒
第2話以来、野ブタのプロデュースを邪魔するネガティブプロデューサーの女生徒のショットがたびたび描かれていたが、今回は黒いソックスを履いた足元が映し出される。
そしてラスト、野ブタが介抱して助けたおじいさんの孫だという女生徒が、「野ブタ」の初めての同性の友達として登場してくるのだが、彼女もまた黒いソックスを履いていた……。
果たして今後、視聴者に対する正体探しには幕を引いた上で、この子をネガプロの正体としてキャラクター同士の対立劇に進むのか、あるいはこれをさらなるフェイクとしてより手の込んだミステリーに進んでいくのかも、目が離せない。 (中川)
■「人の幸せを素直に喜べない奴にだけは俺は絶対負けたくない」
しかし人の幸せを素直に喜べない奴とはどんな内面を抱えた人間なのだろうか?野ブタにしてもバンドーにしてもまり子にしても、ある種の突出した存在で、だからこそ憧れられたり逆に虐げられたりする。だが学校は羨望も侮蔑も無縁のまま古い言葉で言うなら「透明な存在」のまま過ごす生徒がほとんどなのだ。そんな彼女?にとって野ブタはどう映るのだろうか?
前作「すいか」では最終回で唐突に同級生を刺そうとする男子生徒が登場したが、ここまで掘り下げただけに、そういう匿名性の中に埋没しているがゆえの悪意までこの作品は掘り下げようとしているのでないか?と期待させる。 (成馬)
■悪意、そして「敵」の存在
今の世の中、なかなか「敵」の見つけるのは難しい。いや、ある種の慎重さを思考から排除してしまえば、簡単に敵を見つけて噴き上がることができる。でも最低限度の繊細さを持ち合わせた人間にそれは難しい。そんな中で『野ブタ。』が前半戦5話をかけてじっくり提示しつつある「敵」らしきものが、修二のいう「人の幸せを素直に喜べない奴」=ネガティブプロデューサー(?)の存在をどう描くかがは、たぶん一番難しいところだと思う。この「敵」が「悪」として描かれるのか、それとももっと別の形を取るのか。そして修二たちは、どう立ち向かっていくのか……。これから後半戦を迎えるこの物語の最大のポイントのひとつだ。 (市民)
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第4話
http://nobuta2nd.exblog.jp/2532352/
2005-11-08T21:59:31+09:00
2006-03-23T22:10:42+09:00
2005-11-08T21:58:03+09:00
nobuta2nd
第4話
年に1度行われる隅田川高校の恒例行事!
公衆の前で『愛の告白』を行うという『1・1・4 (イイヨ)』の日、11月4日がやってきた。
信子は、バンドーの嫌がらせから、修二に愛の告白をすることになってしまう。
一方、修二は信子をプロデュースする立場からか、
信子の告白への応えに当惑するのだった――!
はたして、信子は修二に愛の告白をすることが出来るのか――!?
そして、修二はどう決断をくだすのか――!?
公式サイト
【今週のストーリー解説】
■善良な市民
それにしても学校というのは不思議な空間だ。「クラス」というせいせい何十人かの共同体の中での、相対的な力関係で「すべて」が決まってしまう。まるで物語の「登場人物紹介」に記されたキャラ設定のように、それは実際の人間関係を強力に規定してしまう。無論、これは学校に限らず、会社だろうが村の寄り合いだろうが、個人的なサークルだろうが、どんな人間関係にも当てはまることだ。しかし、学校という舞台装置が特殊なのは、この「キャラ設定」を通用させるための儀式が、きっちり制度化されていることだ。定期試験、体育祭、文化祭、生徒会役員の選挙……学校におけるすべての行事は無論「ごっこ遊び」だが、その本質はむしろ「キャラ設定」を根拠付けるための儀式として作用するところにある。
その典型例がこの第4話の「114(いいよ)の日」のイベントだろう。
彼らも高校生だ、おそらく誰一人としてこの「114(いいよ)の日」の効果を本気で信じていない。けれど、彼等はこの儀式の存在を受け入れ、楽しみにしている。それは学校にいるという行為自体が、この「儀式によって根拠づけられるキャラ」を受け入れること=「キャラ売りゲーム」のプレイヤーであることを受け入れてしまうことに他ならないからだ。
修二たちはこの強力なルールを逆手にとって信子を人気者にしようとし、バンドーはこの強力なルールを使って、周囲の自分に対する視線を裏切ってみたくなる。……これも小さな変化には違いない。
この第4話は言ってみれば「展開編」だ。これまでの修二→信子の指導する→されるという関係、バンドー→信子のいじめる→いじめられるという(力)関係にほんの少しほころびが生まれ、次の展開を予感させる。
更に言えば彰は信子への恋心に気付き、信子はバンドーに対する敵意を昇華させる。そして、修二ははじめて「仲間」を思いやる気持ちに目覚める。
そして注目すべきは、この変化のどれもが、「学校」という小さな世界を支配する「キャラ売りゲーム」のルールから逃れる方向へと作用していることだ。信子を庇った修二とバンドー、敵対者に理解の目を向け始めた信子……そのどれもが、修二の会得していた「平坦な戦場を生き抜く知恵」の外側にあるものだ。 第4話にして予想外の射程の広がりを見せる「野ブタ。」。これはますます見逃せない。
■成馬01
前3話に較べると話が弱いが登場人物たちの細かい描写や設定が多く(特に彰が空手が得意だというのには何故か笑った)今後の人間関係の伏線がバラかまれた回になったと思う。
その意味で「野ブタパワー注入」のような単純に好きなシーンが多い。
話自体は無理やり野ブタが修二に告白せねばならなくなり、全校生徒の目前で大恥をかかされてしまうのを、どう防ぐのか?というのがメインの筋なのだが。今までと大きく違う点がある、それは悩むのが野ブタでなく修二で、つまりクラスの人気モノの地位を守るか野ブタと彰の関係を選ぶか?という葛藤こそが問題だという点だ。
実は野ブタの物語は2話で終わっている。状況はあまり改善されていないし小説のように外見が綺麗になったわけではないが「自分は変わる」という硬い決意を野ブタは2話で獲得していて、以降は不器用ながら一歩づつ歩んでいる過程を見せているにすぎない、今回の野ブタパワー注入のシーンはその極めつけだ。逆に「野ブタと彰」or「クラスの人気モノ」という板ばさみで悩む修二に少しづつ視点が移っていて物語の作りは野ブタがどう切り抜けたか?ではなく修二が何を選ぼうとしたか?という手帳に書かれたあみだクジの結末と3人の写真こそが真のクライマックスとなっている。
また前回見ていて印象的だった修二の底の浅さが更に強調され逆に彰と野ブタは殴られているバンドーをかばったりと外れもの故の強固さを見せている。
多分今後は修二と野ブタの二人の比較で物語は進んでくと思うがどうなることやら。
それにしてもあんな誕生日祝いしてほしかったなぁ。
■中川大地
もうダメッ。野ブタかわいいよ野ブタ!
……と、ちょうどこの回の放映日11/5が映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の公開日で、堀北真希が集団就職で上京した田舎娘を好演していたのを観たばかりだったから、地味だけど芯の強い、イマドキから距離のある子の役のうまさを実感したばかりだっただけに、「野ブタパワー、注入」には完璧やられました。。。
成馬さんご指摘のように、確かにもう信子のイジメ克服話自体は、すでにほぼアガリになってしまってるんですよね。いまや修二やバンドーを逆に変えてしまう、主体的で魅力あるヒロインにすっかりなってて。あと、彼女を見る周囲の目もだいぶ違っていて、「1・1・4の日」の告白者に挙がっても誰一人「野ブタのくせに」的な嫌悪をみせることなく、隠れ美人で服のセンスもいい学園のアイドルまり子への対抗馬として、純粋に野次馬根性や好奇心を寄せている。
で、挙げ句の果てに信子自身がバンドーに対して、「私もクラスで浮いてるけど、あなたはもっと浮いてる」という状況を諭すという始末……。たしかに高校生にもなって同級生の誰かを殴る蹴るでイジめるような、しかも女の子なんて、まわりから相当距離を置かれるだろうし(というか第2話の時点であからさまなイジメには普通のクラスメイトは眉ひそめてましたね)、別に野ブタ自体が最初から嫌われていたわけではなく、バンドーみたいな粗暴なやつと関わり合いになりたくないから放っておかれてただけなんだろう、という図式が見えますね。そのへん、物語のメインプロットとは別に、さりげなくも入念に演出されていると思いました。
また、メインプロット上も、2話では修二の会心のアイディア(ペンキ文字流行)主導で、3話では修二の苦し紛れの功労(バイト依頼)と偶然(生霊)と信子のアイディア(鏡のメッセージ)が等分にはたらいて転換と解決に繋がっていたのが、今回は完全に信子主導での問題解決だったし。
反面、ヒーロー化しつつある彰の描写はいまいち乗り切れなかったところ。当初からウザイはずれ者的に説明されていながら、実際の描写としては周囲に流されない、かといって大した抑圧もないオイシイ立ち位置の不思議ちゃんでしかなく、そのうえ財力もあって腕っぷしも強いというのは、なーんか許せんなあ(笑)。もう野ブタへの恋でいっぱい悩め、苦しめ。
一方では、どんどん追いつめられてゆく修二に感情移入。がんばれ、彰の「天然だけど人の気持ちがわかる」キャラに喰われるのはまだ早い! もっとノリつつシラけ、シラけつつノりながら、ひねた自意識とスキルにだってここまでならできる、という限界線をきっちり見せてくれるよう、期待。
【今週のチェックポイント】
■「1・1・4の日」イベントと恋愛の相対化
これまでも「アフリカの子供」や「生霊」といった外的要素を契機に学校内のローカルなルールや価値観を根底から見直して土俵をずらしていく、というのが本作の事件進行のカタルシスだったわけだが、今回は「告白」と「交際」の儀式に縛られた恋愛ボケの制度を、野ブタの勇気がバンドーとの関係転換の場に転じる展開。結果、恋愛という物語を信じられない修二のキャラと、なまじ人並みに恋愛関係の体裁に縛れられるあまり彼氏から暴力をふるわれるバンドーと、まだ恋愛を介在させる準備のできていないプロデュース組3人のモラトリアム関係を救ってみせる。
あくまで周囲の押しつけるルールに乗って花を降らそうとした修二の内心の選択も、確かに「本当に大切なものに気づいた」彼の成長の証としてはアリだったけれど、恋愛という関係性への準備ができていない修二・信子の間で実行することはやはり不幸な結果にしかならなかったはず。だから修二の側も、このイベントの選択をいかに異化してズラして転ずるかを考えるべきではあっただろう。 (中川)
■セバスチャンの失恋 (1)
序盤の方で、木村祐一のセバスチャン先生の見合い相手が学校にやってきて、何やら言い合いの末ふられてしまう顛末が描かれる。当然セバスチャンの方がしつこく言い寄って一方的にふられたのかと思いきや、母か彼女かの二者択一を迫られ、ハグレ者だった自分を唯一認めてくれていた母の方が大事だと愚直にも答えてしまったゆえのことだったと修二に語る。
周りの生徒はそんなセバスチャン先生の選択を、女の前ではウソでも彼女の方を選んでおくものだと馬鹿にするが、理不尽な選択の強制を、自分の心を偽らずにする、という伏線が張られると同時に、必ずしも恋愛ばかりが優先すべき事項ではない、というモデルの呈示にもなっているあたりも、ありきたりを超えた注目点のひとつ。 (中川)
■セバスチャンの失恋 (2)
お見合い相手にマザコンを責められ、振られてしまったセバスチャン。「自分の親が好きで何が悪いんだ」と漏らすセバスチャンを、修二はじっと見つめる。これは無論、最終的に信子のために自分を犠牲にすることを選ぶ修二の決断への伏線である。修二は学校を支配する「キャラ売りゲーム」の価値観の外側に、大切なものがあるのではないかと感じ始めているのだ。(市民)
■彰の恋
今までは野ブタや修二に較べて飄々として掴みづらかった彰の見せ場が今回は多かった
バンドーを殴る彼氏を殴り、修二に水をかけるなと瓦割りセットを一式もって修二の家に行き瓦割りをして脅す。そしてホントおじさんにつめよられて、はじめて自分の気持ちを発見する彰。自分の気持ちに気付かず行動していたのがが男の子っぽくはじめて俺は彰を身近に感じた。特に恋愛に関してこのように鈍感な男の子は多いのではないだろうか?
彰は恵まれた境遇ゆえに修二や野ブタのようなある意味で過剰な内面は持ち合わせておらず人間関係に無頓着でその悩みの欠落からそこにこだわり悩む二人に自分にないものを感じ近づいたような気すらする。
今回、彼は自分の欲しいもの大切なもに気付いてしまった。
それは楽しいことだけでなく辛いことの始まりでもあるわけだけど彼はどう変わるのか? (成馬)
■「気付き」の物語
俺が思うに「野ブタ。」は「いかに気付くか?」の物語なのではないか?と思う。
それはゲーム的な桐谷修二の切り抜け方(今回はまったく出番なしだけど) の部分だけではなく、2話の感想で中川大地さんが指摘した外部の問題もそうだ。自分を取り巻いている世界が全てでないこと、自分の中にある気持ちに気づくこと、自分にとって大事なものに気づくこと 野ブタは自分の中の野ブタパワーに気づき彰は野ブタへの恋心に気づき、修二は大事にしたい仲間の存在に気づいた。
物語にはつねに小さな発見があり、その発見の数だけこの世界は豊かになっていく。 だが気付くという面には良いことだけではなく辛いこと悲しいこともあるのではないか?
例えば彰は野ブタへの自分の気持ちに気付いたけど他の二人はどうなのだろうか?
ラストの彰の気持ちの気付きが幸福なトライアングルの破綻を予感させ不安にさせる。でもその不安も含めて世界を肯定したいと思うような終わり方をしてくれるだろうと俺は期待している。 (成馬)
■彰のホワイトバンド
第4話にはホワイトバンドを装着し「愛と、勇気だけが友達さ」とアニメ「アンパンマン」のテーマを熱唱する彰が登場する。「ホワイトバンド」と「アンパンマン」。無論この二つは「偽善」または「しらじらしい善意」の記号だ。しかし第1話から明らかなように、「野ブタ。」の世界観はベタにこのような「偽善」的パフォーマンスを肯定するわけでもなければ、冷笑的に糾弾するわけでもない。
むしろ金持ちの息子として生まれ、「何をやっても楽しいと思ったことがない」と語る彰にこれらのアイテム(「愛」「勇気」「世界平和」)を装着させることにより、この種のアイテムを(肯定するにせよ否定するにせよ)パフォーマティブに消費するしかない僕等消費者の現実を確認しているのだろう。勿論、そんな彰がただひとつ得ている(偽善ならぬ)確かなものが何か、ということはこのドラマのテーマに直結していく。 (市民)
■本当のことを教えてくれ!
第4話で登場する「本当おじさん」。突然現れて「本当のことを教えてくれ」といいながら人を追い回す怪人だが、この怪人の出現により第4話のオチが綺麗に決まることになる。
「本当のことを教えてくれ」と連呼しながら校長を追い回していた怪人は修二たちに激突。結果、3人のお揃いの「野ブタ手帳」が入れ替わってしまう。その結果、信子は修二の本心を知り、修二は自分が信子と彰を大切に思い始めたことを再確認する。まさに「本当のことを教えに」怪人はやって来たのだ。 (市民)
■修二の変化
第4話ではイマイチ影の薄かった修二だが、ラストでなんと自分の「クラスでの美味しい位置」を投げ捨ててでも信子をかばうつもりだったことが判明する。つまり、この「キャラ売りゲーム」を最も熟知し、その恩恵を受けてきた(がために視野狭窄になりかけていた)修二が、「キャラ売りゲーム」の外側にも価値があること、教室の外側にも世界があることに気付き始めたのだ。もっともゲームに耽溺していた修二が、今、ゲームのルールに拠らない場所で、変わろうとしている。 (市民)
■戦メリ戦法
「戦メリ戦法」とは敵対する相手にいきなりキスして戦意を喪失させるテクニックのことで、漫画家・吉田秋生の『河よりも長くゆるやかに』に登場する。なんで「戦メリ」なのかというと、大島渚監督の映画「戦場のメリー・クリスマス」で主人公の米兵捕虜・ロレンスが、彼を虐待しようとする敵の日本軍士官・ヨノイに突然キスして周囲を驚かせるシーンに拠っているからである。ここでロレンスは、自分に敵意をもつヨノイに、無防備に自分をさらし、自分には敵意がないことを示すことで、ヨノイの敵意を解除することを試みたわけだ。
この第4話で信子がバンドーに対して取った戦術は、まさしくこの「戦メリ戦法」と言える。
「信子以上にクラスから浮いている」バンドーにとって、戦メリ戦法を取りいきなり「自分に敵意を向けない無防備な存在」として出現した信子は、その生き方を揺らがせるに充分すぎるほど衝撃的な存在に思えたに違いないのだ。 (市民)
■変わるの意味
野ブタは「人って変われますよね」と言うが、この変わるの意味は小説版とドラマ版ではかなり違う。
小説版の変わるは言うなれば本当の自分なんて入れ替え可能だよっていう意味で服装を変え清潔にすれば気分も周りの見る眼も変わるっていう表層的なものが全てを決定するって価値観で、それは人間関係も含めて全てが可視化されていく現実をうまく捉えているという評価はできないことはないが、対してドラマ版はそれでも見えないもの気付いてないものがあるんだよと追求する。
だからこのドラマにおいて「変わる」というのは自分の中にある強さを発見する、見つけるという意味合いが強い。 (成馬)]]>
第3話
http://nobuta2nd.exblog.jp/2461156/
2005-11-01T23:37:47+09:00
2006-03-23T23:10:27+09:00
2005-11-01T23:37:38+09:00
nobuta2nd
第3話
【今週のあらすじ】
いじめられっこの信子は、バンドーの嫌がらせで、年に一度、開催される文化祭の実行委員に指名されてしまう。 一方、信子をプロデュースしようと決めた修二と彰は、多数決で決まったお化け屋敷を成功させることが、信子を人気者に変えるチャンスになると考え、協力する。
非協力的なクラスメイトを尻目に、信子は必死にお化け屋敷の作り物をこなしていく。
果たして信子は文化祭を成功させ、人気者になることが出来るのか――!?
公式サイト
【今週のストーリー解説】
■善良な市民
文化祭の魅力って何だろうか。
たぶん、それは「一瞬で終わる」ことだと思う。
一瞬で終わる「ハレ」の場だからこそ発揮されるエネルギー……それが非日常の快楽をもたらすのだ。
この第3話のテーマはそんな「非日常」の快楽だ。陳腐な言葉を用いるのなら、「青春」と言い替えてもいい。
冒頭、いじめっ子たちに文化祭の準備を押し付けられた信子は「どうせなら楽しみたい」とお化け屋敷作りに夢中になる。しかし味方は修二と彰だけ。その上八方美人の修二は他の用事に時間を取られてしまい、なかなかお化け屋敷を手伝うことができない。一方の彰も「俺、今まで楽しいって思ったことないんだ」と口にする始末だ。しかし、そんな彰に信子は言う。「きっと楽しいことって、後から気付くんだと思うよ」――楽しい思い出というものは、それが通り過ぎてしまってから気付くと信子は言うのだ。
文化祭という非日常の快楽を支えているものは、まさにこれなのだ。一瞬で終わるものだからこそ、そこには「他では得られないもの」という価値(=入れ替え不可能性)が発生する。
「野ブタ。」第3話は「青春」のメカニズムについて鮮やかに表現した回だと言えるだろう。
■成馬01
俺は文化祭を舞台した話が大好きで、特にお化け屋敷は昔やったことがありいろいろ思い出し楽しかった。だが1,2話に較べると、楽しいだけで話が弱いかなぁと思っていたらラスト間際、バイトに誘った三人の生徒の正体が判明する所で今まで無意味に見えた要素が全部つながり主題が浮かび上がるというアクロバテックな仕掛けになっていた。
こんな構成をよく思いついたものだと感心する。
今回のテーマはおそらく二つ。
一つはモグラの挿話にもあるような「偶然の凄さ」とでも言おうか?
これは偶然を無意味と置き換えてもらってもいい。
あらゆることは偶然でそこには意味はない。野ブタがいじめられているのも修二や彰と関わってるのも特に明確な理由があってのことではない。
言うなれば、その偶然の不条理に野ブタは今まで苦しめられてきたとも言える。でも関わってしまった以上、後で楽しかったと思い出したい、そうやって引き受け向き合った瞬間ありふれた文化祭や人間関係は何倍も素晴らしくなる。そんな野ブタのひたむきさを見ていると意味は初めからあるのでなく積み上げていくことで生まれるものなのだと思わせてくれる。
もう一つは三人の関係の小さな変化とその対比だ。お化け屋敷をやりとげた彰と野ブタに対して一日中走り回ってた修二、不器用だからこそ、一つ一つを濃密な体験として受け取め成長していく野ブタ、器用で要領がいいからこそ不器用な修二、そして天然の彰(笑)。
修二に器用なだけで自分は何も生み出せないんじゃないか?という二人に対する小さな負い目が生まれる。今回彰と野ブタと修二は別行動だったが今後、修二と二人の距離が開き修二が置き去りにされるのではないか?と不安を暗示させる。
正直、修二の話はまだ先だと思ってたので予想外だった。
来週は野ブタの恋愛話っぽいけど、どうなるものか?
■中川大地
今回もまた、テーマやストーリーの読み解き以前に、現実にはありえないご都合主義的なギミックや一部キャラの小ネタの寒さやアイテムの無茶さ、それに怪談的な超常現象というファンタジックな要素と、人間ドラマのリアリティとの接続具合が微妙で、入れる人とそうでない人がハッキリ分かれそうな度合いがさらに高まった感じ。
自分に関しては、正直ちょっとこなれないなと感じました。たとえば『木更津キャッツアイ』などでは、画面をフィルム調にしたり絵作りや映像演出をわざとらしい様式でまとめることによって、「この世界ではこれはアリ、これはナシ」という暗黙の「律」を視聴者に直観的に伝え、「こんなのありえねえよ」という疑問につまづくことなくテーマやプロットの面白さに入れたのですが、そうした作品のリアリティを支える「律」構築の演出がどうにも中途半端で散漫な気がしました。なので、彰や信子の達成感にも、それを味わえなかった修二の引け目にもすんなりとは共感していけず、ちょっと辛かった。最後のキャサリン教頭の「いい文化祭でしたね」という台詞が全然ピンと来なかったし。
ただ、その寓話・ファンタジーとしての「律」がはっきりしない散漫で雑駁な印象こそが、クラスでの文化祭企画に打ち込むやつとそうでないやつの温度差や、学校内の異なるしがらみで引っ張りだこにされてバタバタしてる修二の落ち着かなさの印象を支えて、あえて安易な文化祭ロマンに落とさない乾いた虚しさの演出につながってるような気もするので、現状での評価は避けたいと思います。
で、長い前置きの末にようやくストーリーテーマ的な部分への感想。はじめ同窓生の三人がなんで幽霊でなく生霊なんだ?と首をかしげてしまったのですが、「楽しかった思いは時間を置かないとわからない」という信子の台詞に呼応していたことに、だいぶ時間を置いて気がついて納得(笑)。ただ、前回の体操着の件での発想転換に比べるとちょっと通俗的かな、とも。
ともあれ、これで2~3話と、(1)「修二たちが協力する信子プロデュース企画」→(2)「信子を陥れるネガティブプロデューサーの妨害」→(3)「修二たちの想定外の『外部』的な転機による思わぬ問題解決」というパターンが続いたわけですが、これがフォーマット化するのかな?
あと、今回は信子が最初から前向きなので、一応の本線であろう信子の成長過程を見せることによる「イジメ克服」モチーフが後退した部分は食い足りなかったところ。おそらくドラマ的には、信子本人よりも、今回だいぶ修二に放って置かれるかたちになったマリ子が伏線として利いてきそう。「イジメ克服」との関係の中での恋愛話という点で、『シガテラ』なんかのリアリティとどんな比較ができそうかなども楽しみ。
【今週のチェックポイント】
■視線の多様性
本作が持つ豊かさは、その視線の多用さだ。例えば文化祭を描くにしても渦中にいる三人のひたむきな視線と、もうそこは過ぎてしまった先生や教頭、あるいは卒業生の郷愁の目線が交差した時、ありふれた高校の文化祭はとても豊かなものに思えてくる。こうやって外部と内部の様々な角度から見せられる時、一見つまらない日常も何倍も豊かなものだったのだと再確認させられる。同じものを見ていてもそれぞれ違うものを見て考えているものなのだ。 (成馬01)
■文化祭という制度
文化祭っていうのは結構残酷な装置だ。主役になれるタイプ、自分で楽しみを見つけられるタイプの人間は思う存分楽しめるが、そうじゃないタイプはフォークダンスの輪から外れて「ケッ」といじけるしかない。ただ、輪に素直に入れない人たちにも言い分がある。文化祭なんて所詮「クラスの中心にいる主役たち」のために存在して、「クラスの隅っこにいる僕等」は脇役にしかなれず、貴重な個人の時間を割かれるだけだというのだ。この言い分には一定の説得力がある。
では「野ブタ。」ではどうだろうか。
ここではいじめられっ子の信子が文化祭の主役に抜擢されるという「ねじれ」がまずある。
彼女に味方する修二は、最初はクラスメイトを焚きつけて準備を手伝わせようとするが早々にその路線は放棄する。ありていな青春ドラマみたいに「義務」や「責任」を訴えて「準備を手伝え!」とは決して言わないのだ。
そして、替わりに、文化祭の見物に来ていた3人組を「文化祭を体験させてやるよ」とオルグして来る。
つまり、修二は文化祭(のような非日常への動員)のもつ暴力性を十二分に自覚していている上に、それを補う動員のテクニックを熟知しているのだ。
たぶん、修二はフォークダンスの輪に入れず、いじけている少年達を誘うときに「お前等も入れよ」とは誘わない。彼等はあの輪の中で自分達が主役になれないことを知っているから、輪の外にいるのだ。
そして、おそらくはこう誘うだろう。
「お前等がいないとどうしてもダメなんだ、ちょっと裏方手伝ってくんねーか」と、彼等を誘うに違いない。彼らが「主役」になれる場を提供すること……教室の人間関係をメタ視する「プロデューサー」桐谷修二ならではの発想である。(善良な市民)
■生霊たち
そして修二がオルグしてきた3人組だが……彼等は文化祭は「送り手」に回るのが面白いことを熟知していて、修二の誘いに二つ返事で乗る。そして終盤、彼等の正体は過去の卒業生たちの「生き霊」だということが判明する。現在、堂々たる中年となった彼等は日々の仕事に忙殺される余り、「あの頃に帰りたい」という思いが生き霊となって母校に出現したのだ。夜中に校舎に忍び込んで、自分の落書きを確認しに来た本屋の主人といい、この第3話では青春と言う特別な時間の入れ替え不可能性が再三反復される。 (善良な市民)
■モグラの喩えと出口のメッセージ
そしてもうひとつ。青春の「入れ替え不可能性」の根拠となるものが、劇中で彰が口にする「モグラの喩え」が示すものだ。モグラは普段地中に単体で暮らしていくが、発情期になると異性を求めてひたすら動き回り、そして偶然遭遇した異性と結ばれるという……そう、「今、この」瞬間を特別なものにしているものは一期一会ともいうべき出会いの奇跡なのだ。それは一瞬で終わるものかもしれない。しかしだからこそ「入れ替え不可能性」を確保することができるのだ。
信子は自分達が置かれている状況がどんなに貴重なものか、察したのだろう。お化け屋敷の出口に、今、側にいる人との出会い、一期一会の奇跡の素晴らしさを訴えるメッセージを残す。 (善良な市民)
■プロデューサーという生き方
この第3話は、器用で八方美人、コミュニケーションスキルに長けた修二よりも、不器用でぱっとしない信子や彰の地道な努力の方が実を結んだことに、修二がショックを受けるという終わり方をする。
たしかに、原作の修二は自らのうわべを繕う力に溺れて、内実のある人間関係を築くことを疎かにした結果、手痛いしっぺ返しを喰らう。だが、このドラマはそんな修二に少し優しい。物語のラスト、「自分はうわべだけの人間だ」と自己嫌悪に陥る修二に、彼の弟は言う。お兄ちゃんは決して悪い奴じゃない、と、お兄ちゃんもいないとダメなんだ、と。確かに修二の力は今回の文化祭でも大きく貢献している。だが修二自身はそのことに気付いていない。彼もまた「通り過ぎてみないと」それが楽しいことだったと気付かない段階にいる少年なのだ。 (善良な市民)
■修二の弟、信子の継父
今回はそれぞれの二人の家庭バックグラウンドを示唆する新しい家族が一人ずつ登場。修二弟は、兄の裏表ある器用さを観察・告発し、自分の空虚さに向き合わせる役割ながら、信子プロデュースの約束だけは頑なに守るあたりを素直に褒めたりする。
信子継父は、「僕は君のお母さんと結婚したけど君のお父さんじゃない」と、幼少期の信子に言ったことで彼女の今につながる性格のトラウマ源になったと示唆されながら、彼女を気遣って文化祭に差し入れを持ってくるなど、不器用なだけで決して悪い父親ではない。
どちらも関係性が多面的で、修二・信子それぞれが抱える問題を安易に家庭環境に還元せず、コミュニケーションの努力も普通に行われているというあたりは、この作品の良いスタンス。それは、決して作劇が暗さに引きずられない前向きさであり、世の悩みが決してあからさまな悪意や問題のせいで生まれるとは限らないという真理でもあろう。 (中川大地)
■ビューティフル・ドリーマー
学園祭という「非日常」の快楽を扱った作品とえいば、やはり『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』の名前を忘れるわけにはいかない。
高橋留美子による原作漫画は「時間の流れの止まった、永遠のラブコメ空間」を描き、当時のオタクたちに男女を問わず圧倒的な支持を受け、その現実逃避的な想像力の源泉となった作品だった。
これに反抗したのがテレビアニメ版の監督だった押井守だった。押井は高橋が「終わりなき日常」を永遠の楽園として描くことの欺瞞を告発した。それがこの映画『ビューティフル・ドリーマー』だ。
物語は主人公たちが通う高校の文化祭の「前日」。彼らはいつものように楽しくバカ騒ぎしながら文化祭へ盛り上がる気分を満喫するが、ある日、登場人物のひとりが自分たちがもう何日も知らず知らずの間に「文化祭の前日」を繰り返していることに気付く……。
無論、この「永遠に繰り返す文化祭の前日」とは原作版「うる星やつら」の作品世界と、そこに現実逃避するファンたちのライフスタイルのことである。そして、物語は主人公たちがその「永遠に繰り返す文化祭の前日」から脱出を試みるという形で進行する。そう、ここには押井の高橋的な世界への懐疑が込められているのだ。では、その懐疑とは何か? それは本稿をここまで読み進めたみなさんにはもうお分かりだろう。
そう、文化祭は「終わる」から、「二度と戻ってこない」からこそ楽しいものなのではないか? 押井は「終わらない文化祭」に逃避する若者たちにそう問いかけたのだ。
そして、押井はこの懐疑をヒロインが主人公に「責任とってね」と告げる(楽園を放棄して、成熟に向かうんだよ、と告げる)ことで示している。随分と悪趣味だが、そのパンチ力は凄まじい。 (善良な市民)
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第2話
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2005-10-24T21:33:49+09:00
2006-03-23T22:02:13+09:00
2005-10-24T21:33:34+09:00
nobuta2nd
第2話
【今週のあらすじ】
2年B組では、信子へのイジメが加速していた――。
そんな矢先、信子の制服が何者かによって、落書きされ、着られない程、ボロボロにされてしまう。
過去にも同じような経験を持つ信子は、諦めに似た落胆を覚えるのだが、信子のプロデュースを引き受けた修二が立ち上がり、この状況を打破すべく打開策を思いつく。
その作戦とは、とにかくまず美しくなること。
単純な作戦のようだが、まずは基本が大事。
そこで、信子のビューティーアップ作戦を始めるが・・・。
公式サイト
【今週のストーリー解説】
■善良な市民
第2話は「野ブタ。」のテーマである「小さな物語」の乱立状態とその「書き換え」をわかりやすく反復している。
物語は何者かに信子の制服にペンキで「ブス」と書かれてしまったところからはじまり、修二と彰は私服登校を余儀なくされたこの状況を逆手にとって、彼女の外見を大改造する。
作戦は一定の効果を上げるのだが、「自分たちも私服登校したい」と他の女子が騒ぎ始めたことで問題が別方向に走り出し、結局信子は再び「ブス」とペンキで書かれた制服で登校することになる。
そこで修二は起死回生の一手を考える。
自分達の制服にも「バカ」「キザ」おペンキで書きなぐり、敢えてその格好で登校することで「制服にペンキで殴り書きする」というブームを教室で起こすのだ。
作戦は成功し、学校中で制服ペインティングが流行り、信子も少しだけクラスに溶け込みはじめる……。
まず物語の大前提として、クラスのような小さな物語(=共同体)の中の価値観、「入れ替え可能」塗り替えられるというのがある。
しかし、そうやって作ったブームは、修二自身が語るように決定的なものにはなりえない。クラスなんてチンケな世界の物語を更新するのにも、積み重ねが肝要なのだ。
そして、物語は信子を意図的に落としいれようとする悪意の存在をほのめかして次回へ続く。
■成馬01
一話の面白さが続くか不安だったけど、いらん杞憂だったらしい。見ている間、震えた。
一話一テーマで物語を作り上げる手腕は見事で、前作「すいか」も、そういう方法論だったなぁと思い出す。
木皿泉は小さな世界のちまちました会話劇を得意としたが、その会話は一見くだらないことのようでありながら濃密であらゆることが詰まっている。今回は学校という舞台でそれを展開する。
今回のテーマは外見。
人気モノになるためにまず外見を清潔にするというのは原作と共通だがテレビ版は、何故変わるのか?変わりたいのか?外見を変えることが内面も変わるのか?ということを丁寧に描写する。
制服にペンキでブスと落書きされたことを逆手に使い、私服でお洒落して野ブタを登校させようと考え、どんな服装と髪型がいいか?を修二と彰の三人で考えるシーンは見ていて楽しく魅力的だ。
彰の経済力と修二の対人能力と彼女から仕入れた情報を元に、夜の街に出て買い物をする姿はある意味で野ブタと同年代の女の子にとっては憧れるシュチュエーションなのかもしれない。
このドラマがすばらしいのは難しいテーマを扱っていながらちゃんとライトなアイドルドラマに収まっている所だ。修二と彰の冴えた王子さまっぷりに俺の中の乙女心が少しキュンとなる(笑)
修二は本当の自分を出す勇気がないがゆえ全体を見回すことができる。状況は何も改善されていない、ただ視点がづれただけでやがては元に戻ってしまう。
ラスト、髪型を変え下手くそな笑顔を野ブタは練習する、その小さな変化が次へと期待させる。
■中川大地
率直な感想として、やはりいじめられ役としての堀北真希のルックスや人形という道具立てだとか、忌野や夏木マリの存在が半端にわざとらしい感じなので、このドラマの世界観全体のファンタジー度・寓話度を適切に解読できるリアリティ・フィルターを脳内に築けるかどうかが敷居になりそうな作品だなとは思いました。『女王の教室』ほどディフォルメが徹底しづらい、微妙な題材なので、いまどきの学校化社会の「平坦な戦場」問題をえぐり、斬ってみせるカタルシスが前番組ほど話題を呼んで多くに伝わるかどうかは疑問。
ただ、その技術的前提を越えれば、成馬さん、市民さんの感想にほぼ同意です。二人の感想にも言外に入っていることだとは思うけれど、僕が特に興味を引かれたポイントとしては、狭い小社会内に閉塞した問題を描いているようでいて、解決カタルシスへの転機になるのが、アフリカの子が着てる体操着を発見するという点ですよね。
僕の見ていない第1話での飛行機事故の件も、おそらくそういう意味合いを持っていたのではないかと思うのだけど、いかな閉塞的な日常といえど、必ず地続きの「外部」があることを唐突に認識させられることによって、いま・ここを相対化し、前向きで具体的な価値観の組み替えを駆動していくというあたりが、このドラマの演出の白眉だなと思いました。堀北の野ブタちゃんが雑誌を取り落とす転回の瞬間のシーンは素晴らしかった。
これは『リバーズ・エッジ』での死体の位置づけの進化系ってことなんだろうけれど、そこではあくまで「外部」をも「平坦な日常」のしんどさを慰撫するための閉ざされたツールに動員されてしまったのに対して、本来あるべき外への想像力のあり方・日常への持ち帰り方が、ようやく戻ってきたかなという感じがします。
このへん、『木更津~』よりもさらに解像度が高まって進歩しているかもしれませんね。
今後に期待。
【今週のチェックポイント】
■マフィアン・ルックの父親
第2話では、修二の父親がまるで「ゴッドファーザー」に出てくるコルシカ・マフィアのような姿に身を固めて会社に行き、周囲の不評で凹む姿が描かれる。
うなだれながら「若いうちに、好きな服着ておいたほうがいいぞ」という父親に、修二は「その格好で三社面談来ていいから」とやさしい声をかける。
学校社会で仮面を被る「ゲーム」を楽しんでいる修二も、本当は「ありのまま」振舞う気持ちよさを理解しているのだ。 (市民)
■他人にどう見られたいか?
「他人にどう見られたい、とか、考えたことなかったのか?」
「……そんなこと、考えたこともなかった」
「学校の連中はな、みんなそういうことばっかしか考えてないんだ、人に好かれたいとかバカにされたくないとか注目されたいとかみんなそういうことに神経すり減らしてるんだ、お前もちょっとでいいからそういうこと考えろ」
もちろん、この程度のことは「言わずもがな」の「当たり前」のことである。
これを敢えて取り出して見せたところには、「人間関係のことで頭がいっぱいの人生の貧しさ」といった方向に話が進みがちなのだが、今のところドラマ版「野ブタ。」はそういう方向には行っていない。
原作では予定調和的に、修二はラストで「人間関係のことで頭がいっぱいの人生の貧しさ」に報復されるのだが、ドラマではどう料理されるかが楽しみだ。 (市民)
■アフリカの子供たち
「捨てられたはずの体操服が回りまわってアフリカの子供が着てる、しかもそれ着て笑ってた、きっとどんな服を着てても笑えるんだよ、笑って生きてけるんだよ」
汚れた制服を着ていくことを決意した信子の台詞。
このとき信子はアフリカ難民の子供が、かつて自分が捨てた体操着(援助で支給されたと思われる)を着て笑っているのを観て勇気付けられているのだが、その姿を観た修二は「どんな服を着てても笑えるんだよ」という信子の言葉から、この状況を逆手に取ることを思いつく。
つまり「どんな服を着てても笑えるんだよ」(自分が捨てた服を着て笑っている子供がいるくらいだから、自分も頑張れるはず)→が「どんな服を着てても笑えるんだよ」(どんな服でも流行らせることができるんだよ)」と前向きに発想を転換しているのである。
こういうポジティブな発想の転換は「野ブタ。」全体を貫くモチーフでもある。「人生はすべてゲーム」「教室でキャラクターを演じている」という認識はすぐに「じゃあ本当の私って何?」みたいな90年代に大流行した安っぽい自分探しストーリーに回収されるケースが大半だが、「野ブタ。」はこういったローカルな共同体の安っぽさ、虚構性を逆手にとって楽しむという発想で物語がスタートしている。 (市民)
■ネガティブプロデューサー
ラストでは野ブタの制服にブスと落書きした女生徒らしき影が暗示される。
ここからは予想だが、一話で野ブタを追い回した女性徒たちがイジメの首謀者でなく、彼女たちも無自覚に踊らされていたのなら。だとしたら一方で野ブタをイジメの渦に巻き込み生徒たちの悪意の方向性を操ろうというネガティブプロデューサーがいることになる。
もちろんそれはまだ予測だが、そうなった時、修二がプロデュースするという意味合いは小説とはまったく違った意味合いの価値観を巡る情報戦となる。
野ブタのマイフェアレディとしての物語も注目だが、その方向性もまた期待したい。 (成馬)
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第1話
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2005-10-23T20:32:00+09:00
2011-09-18T07:49:24+09:00
2005-10-23T20:31:29+09:00
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第1話
着ぐるみに身を包むよう自分自身を演出し、人気者として君臨する2年B組・桐谷修二。
周囲をうまく盛り上げ、まさにクラスのリーダー。
そんな修二の唯一苦手な人物が、同じクラスの草野 彰。彰は優柔不断でおっちょこちょい。でもって、ちょっとピントがずれている。その性格からクラスでも浮いた存在の生徒。
そんな彰は、修二のことを「親友」と 思い込み、修二になにかと絡んでくるから修二としてはおもしろくない。
どうしても、こいつの前では調子がくるってしまうのだ。
そんなある日、修二の通う隅田川高校に転校生がやってきた。
転校生の名は小谷信子。
外見に無頓着で自身を飾ることをしない暗い印象を持つ、修二とは正反対の少女だった。
信子の、周囲に人を寄せ付けぬ態度や雰囲気が災いし、不良グループのリーダー、バンドーに睨まれてしまう。
そんな修二は、ひょんなことから虐められっ子、信子を人気者にする、プロデュースを引き受けるのだった。
やがて、それは、イジメへとエスカレート。クラスの雰囲気はだんだん、悪くなっていく。
それを見た修二は、「自分は関係ない」とたかをくくっていたが…。
公式サイト
【今週のストーリー解説】
●善良な市民
「狭くて小さな教室へようこそ!」
この第1話はドラマ版「野ブタ」の世界観を説明した回だ。
物語の舞台はとある高校の教室。大抵の高校生達がそうであるように、この教室の彼らもまた「クラス」という狭くて小さな舞台の上で、それぞれのキャラクターを無自覚に演じて(棲み分けて)生きている。中には主人公の修二のように、それが狭くて小さな舞台でのロールプレイング「ゲーム」のようなものだと悟って上手に立ち回り、おいしい位置を確保する人間もいるし、ヒロインの信子のように不器用で、あっという間に最下層の役を押し付けられる人間もいる。
しかし、修二が達観するように、それは狭くて小さな舞台で演じられる、小さな物語でしかない。教室を一歩出た途端にまったく通用しなくなる。例えば、修二のクラスの人気者らしい男子生徒ふたり組みが放つ一発ギャグは「クラスの外側」の人間である僕たち視聴者には寒くて仕方がないし、この構造に自覚的な修二は彼等を内心バカにしきっている。
この世界観を端的に表しているのが、ヒロインの信子が転校早々いじめられっ子になり、同級生に追い回されるシーンだ。
必死に逃げる信子は学校の外に逃げ出し、忌野清志郎が経営する本屋に逃げ込む。
「ケバイ女」が嫌いな忌野はいじめっ子を店の中には決して招き入れない。
バカな男子高校生の寒いギャグが市民権を得ている「小さな世界(物語)」があの狭い教室の中で成立しているように、ここでは忌野の美醜の感覚がすべてを決する「小さな世界(物語)」が成立しているのだ。
「教室」のルールやキャラ設定は、「本屋」では通用しない。だから信子は本屋に逃げ込むことで助かるのだ。
小さな世界(物語)が無数に乱立し、それぞれのルールとキャラ設定が他の世界ではまるで通用しない戦国時代(ポストモダン)……これが「野ブタ」ドラマ版の基本的な世界観だ。
そしてこれは、何もドラマの中で作られた虚構ではない。今、僕たちが直面している世界だ。
●成馬01
前作「すいか」のファンで木皿泉の新作は期待していたが、主演はジャニーズの亀梨和也と山下智久だし原作と変わるし野ブタが女になるし、しかも掘北真希でしょ、いじめられねーだろっ単なるアイドルドラマじゃん、と甘くみてたんだけど、予想以上に面白かった。
それにしてもこの枠は前作の「女王の教室」でも思ったけど、どうしちゃったんだろうね(笑)戦後民主主義的な平等空間としての学校は完全に終わってて弱い人間が食い物にされるっていうことが当然のこととして疑いなく描かれている。
だから「いじめ」という状況を悪とするんじゃなくて、いじめられる野ブタの問題に還元されて、どう自分が変わるか?って問いに向かっている。 正直いじめをやる奴が悪いんだから「殴れよ」って俺なんかは思ってしまう。
学校でのコミュニケーションが演技と監視の場になってる一億層踊るさんま御殿的な状況をさらりと描いていて岡崎京子のリバーズエッジを思い出す。
まぁ彰が金の力で何とかするってのはドラマとして反則と思ったけど、少し長いの以外は満足の出来だった。
裏読みとしてはこれは野ブタがジャニオタの女の子の分身で二人の王子さまに助けてもらうっていう願望充足ドラマでもあると思う。
「すいか」は作家性は強すぎて視聴率とうまく結びつかなかったので、今回はうまくいけばいいなぁと思う。
あと全体に漂う明るい虚無感みたいのがどうしようもなく気になった。
亀梨が心の拠り所としていた柳の木のある場所は冒頭から失われるし唐突に母親が飛行機事故にあったり(あとで無事とわかるけど)と、大切なものは簡単に失われるのではないか?という喪失の不安を暗示していて、その一方で山下がケーキをどっちもほしくないと言うような満ち足りているゆえの空虚さ。
ジャニーズファンの女の子が何の気なしに見たらどう思うのだろうか?それとも当然の気分として共有してしまうのだろうか?
この全能感から来るニヒリスティックな感じはちょっとデスノートの夜神月のあの感じに似ている。
この演技せざる追えないしんどさは何だろうか?リバーズエッジの頃は一部のとんがった子の背伸びした気分だったものが、今は土曜9時というドラマ枠で平然と流れている。
これからどこへ踏み込むのだろうか?気になる。
【今週のチェックポイント】
■修二と彰 ~満たされているが故の空虚さ
ここで修二と彰、ふたりの主人公について見てみよう。
主人公の修二は、自分の所属している教室という舞台が「狭くて小さな世界(小さな物語)」であることに自覚的だ。そのため、人間関係(小さな物語の中でのキャラ設定)をメタ視することができ、ある程度自由に自分のキャラを、脚本家や演出家のように立てることができる。しかし、その演出力を彼はせいぜい保身のためにしか使えていない。
彼の相棒の彰は、資産家の息子として育ち、何不自由ない生活を送ってきたために逆に空虚さを抱えている。
彰があえて貧乏下宿に住んでいるのは、何不自由ない実家での生活からあえて離れてみれば夢中になれる「何か」が見つかるかもしれないというありがちな発想である(自分探しに途上国へ旅行する学生やOLみたいなもの)。しかし、結局「夢中になれるもの」を見つけられずにいる。
修二は器用さ、彰は経済力をもっているが故にどこか空虚さを抱えている。
この第1話では、修二の母親が飛行機事故に遭ったという誤報で一家が動転するシーンが描かれ、続いてほっとした修二の父親が「この世界のどこかで、悲しみにくれてる家族がいるんだろうな」と他人事のように、でもどこか後ろめたそうに呟くシーンが続く。
一方の彰は下宿の主人と、茶飲み話のように「世界平和」を語り、その話題が「流される」。
これらは一見、無意味なシーンだがそうではない。この世界観では、主人公の母親が飛行機事故で死ぬみたいなドラマチックな事件は起こりようがないし、「世界平和」のような大きな物語には接続できないのだ(少なくとも第1話ではそう)。彼らが直面しているのは、いくらメタ視できていようとも、結局あの狭い教室という舞台で繰り広げられる「小さな物語」なのだ。 (市民)
■「小さな物語」を書き換えるために……!
そしてこの第1話では、そんな世界観の中で、主人公達が何を求めるのかも端的にまとめられている。
ここでも重要なのは、信子が本屋に逃げ込むシーンだ。
いじめっ子に追われて逃げ込んできた信子を忌野が諭す。
「私は自分で自分の(価値観が守られる)世界をつくったのだ」と。
自分にとって、居心地のいい小さな世界を、獲得すればいい、と。
そして信子は決意する。自分が生きているこの世界の価値基準を、自分で塗り替えると。
クラスという「狭くて小さな世界」の価値観(キャラ設定)を塗り替え、人気者になる……!
それは決して不可能ではない。
修二が言うように「みんながすごいと言えばすごい、みんなが欲しいと言えば欲しくなる」のが、この狭くて小さな世界だからだ。
そう、それは教室という狭い狭い範囲でしか通用しないローカルルールにすぎない。
だからこそ、ちょっとした工夫でひっくり返すことができるはずだ。
そして修二と彰も、そんな信子と出会うことによって、はじめて目的をみつける。
それは、信子をプロデュースして人気者にする(「小さな物語」を自在に書き換える)ことだ。
修二にとって、保身のための技術でしかなかった人間関係のメタ視が、ここではじめて「人生を楽しむためのアイテム」へと昇華したのだ。
それは小さな物語には違いないが、「大きな物語」に接続できない彼等の世界のすべてだ。完璧にコントロールするには全力でぶつかるしかない。それはまさに「誰もやったことがないすごいこと」なのだ。 (市民)
■平坦な戦場を思いっきり楽しむこと
「平坦な戦場で僕らが生き延びること」と傑作『リバーズ・エッジ』のあとがきで岡崎京子が言ったのは、もう10年以上前の話だ、
あれから10年経って僕らはうんざりするくらいこのフレーズを繰り返してきた。
この10年、日本のサブ・カルチャーは「平坦な戦場」で「絶望から出発」し「乾いた暗さ」をひたすら表現してきた。そして、それで満足してきた。
だけど僕は岡崎の言葉に出会ったときから「そんなの前提じゃん」と思っていた。
「敵がいない」「反抗するものがない」から僕等は辛い。自由で豊かな世の中だから、逆に物語がなくて辛い……。
「他人のせいにするなよ」と僕は思う。
セカイが、シャカイが、上の世代が与えてくれなかったから僕等は可哀相なんだ、特別な時代に生きているんだ……と、みんな口をそろえて言う。「僕等は不毛な世代だ、時代の犠牲者だ」と。
でも、それって単に甘ったれているだけじゃないだろうか?
「物語がない、という物語」……そんな甘えた物語が通用したのは、もうずっと過去のことじゃないかって思う。
基本的に世を厭うことでしか、「それでも僕は」と逆説的に前を向くことができなかった。
それはあらかじめロマンテイシズムに転化されることが宿命付けられた骨抜きのアイロニズムを、仮想敵として消費しているだけにすぎない。
「平坦な戦場」も「絶望から出発」も「乾いた暗さ」も、いい加減食傷気味だ。
だから何? そんなの大前提、「何を今更」だ。
修二と彰が直面しているのも、たぶんそんな世の中だ。
「平坦な戦場」に立っていることを嘆いていればウットリできた時代は、とっくに過ぎ去ったのだ。
彼等は平坦な戦場だからできることを見つけて、思いっきり楽しむことを選んだのだ。 (市民)
■スクールカースト
ドラマ版「野ブタ。」はスクールカーストが前提の学校を舞台に主人公の亀梨と山下が陰気ないじめられっこの堀北をプロデュースするマイフェアレディものになると思う。
「スクールカースト」とははてなダイアリーで一時期話題になった学校内で暗黙のうちに成立している階級制度。
くわしくはこちら⇒はてなキーワード
ただし俺はこの注釈のような階層の固定化はあまり信じてなくて、むしろ昨日の人気モノが明日にはいじめられっ子になってるような階層の流動化が今は激しいのではないか?と思っている。いうなれば全員が役者であり観客の演劇を演じてるような状態で俺は密かに劇場化と呼んでいる。
小説版「野ブタ。をプロデュース」は出来はともかく、その一点を押さえられたからこそ若い子を中心に人気があるのだう。 (成馬)
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原作版ロングレビュー
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2005-10-22T20:46:00+09:00
2005-12-08T20:11:43+09:00
2005-10-23T20:47:21+09:00
nobuta2nd
原作小説
■原作版ロングレビュー
●「キャラクター」を「プロデュース」する
「キャラクター」という言葉が、物語の登場人物の設定や性格付けのことを指す意味で使用されるようになったのは、いつ頃からだろうか? さらに、実際の生活で、本人が前面に押し出してくる自己イメージのことを指すようになったのはつい最近のことのような気がする。
これは、別に最近になって自分たちの属している人間関係を、「物語」としてメタ視する文化が浸透したということだろうか? たぶんそれは違う。今も昔も少し鼻の効く人間なら、誰だってこれくらいのことは自覚していたはずだ。おそらくは「キャラクター」という「和製英語」が浸透するにつれ、実際の人間関係を説明するのに便利な言葉として比喩的に用いられるようになったのだと思う。
『野ブタ。をプロデュース』は、そんな「人間関係のメタ視」が前提となった青春小説だ。語り手の桐谷修二は、周囲の人間をバカにしきっている嫌な奴だ。その割に他人の目ばかりを気にしている彼は「さわやか」で「ノリのいい」キャラクターを演出することで、クラスの人気者の座を勝ち得ている。そんな修二はひょんなことからいじめられっ子の転校生、信太(野ブタ)に慕われるようになり、興味本位で彼を「人気者のギャグキャラ」に「プロデュース」することになる……。
●「メタ視」の笑い
この小説の魅力は、やもすれば暗く、陰惨な内容になりかねない狭い人間関係のメタ視を、軽快な文章とユーモアのセンスである程度ポップにもっていった所にある。もちろん、この程度の「メタ視」なんて生ぬるいと感じる人もいるだろうが、結末で修二がたどる運命などを考慮すれば、こういったヌルさも作者の計算のうちだと納得できる。
これは確かに「みみっちい見栄の張り合い」に違いない。しかし、そうしなければとても住み辛い世の中に、僕等は生きている。そんな悲哀をさらりと笑えるブラック・ユーモアに仕立てたこの作品は、現代における青春小説の佳作と位置づけていいと思う。
僕は、この作品をぜひ、主人公の修二と同じ中校生のみんなに読んで欲しいと思う。リアルタイムで学園生活を送っている君たちには、この小説を笑い飛ばすことはできないかもしれない。もしかしたら、この主人公の修二に自分を重ね合わせたり、逆に反発を覚えることも多いだろう。
けれど、ここで忘れちゃいけないのは、この小説があくまで「コメディ」として書かれているということだ。だから、作者も最後の最後までは踏み込んでいない。この作者が敢えて踏み込まなかったものが何なのか、わかれば大したものだと思う。そして、こういったものにきちんと距離を取って楽しむことができるようになれば、君たちの生活は文化的にも、そして人間関係的にもぐっと豊かになると思う。
(善良な市民)
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