週刊 野ブタ。

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カテゴリ:第3話( 1 )


2005年 11月 01日

第3話



【今週のあらすじ】

 いじめられっこの信子は、バンドーの嫌がらせで、年に一度、開催される文化祭の実行委員に指名されてしまう。  一方、信子をプロデュースしようと決めた修二と彰は、多数決で決まったお化け屋敷を成功させることが、信子を人気者に変えるチャンスになると考え、協力する。
 非協力的なクラスメイトを尻目に、信子は必死にお化け屋敷の作り物をこなしていく。
 果たして信子は文化祭を成功させ、人気者になることが出来るのか――!?
公式サイト


【今週のストーリー解説】


■善良な市民
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 文化祭の魅力って何だろうか。
 たぶん、それは「一瞬で終わる」ことだと思う。
 一瞬で終わる「ハレ」の場だからこそ発揮されるエネルギー……それが非日常の快楽をもたらすのだ。
 この第3話のテーマはそんな「非日常」の快楽だ。陳腐な言葉を用いるのなら、「青春」と言い替えてもいい。

 冒頭、いじめっ子たちに文化祭の準備を押し付けられた信子は「どうせなら楽しみたい」とお化け屋敷作りに夢中になる。しかし味方は修二と彰だけ。その上八方美人の修二は他の用事に時間を取られてしまい、なかなかお化け屋敷を手伝うことができない。一方の彰も「俺、今まで楽しいって思ったことないんだ」と口にする始末だ。しかし、そんな彰に信子は言う。「きっと楽しいことって、後から気付くんだと思うよ」――楽しい思い出というものは、それが通り過ぎてしまってから気付くと信子は言うのだ。

 文化祭という非日常の快楽を支えているものは、まさにこれなのだ。一瞬で終わるものだからこそ、そこには「他では得られないもの」という価値(=入れ替え不可能性)が発生する。

「野ブタ。」第3話は「青春」のメカニズムについて鮮やかに表現した回だと言えるだろう。
 

■成馬01

a0048991_23303925.jpg 俺は文化祭を舞台した話が大好きで、特にお化け屋敷は昔やったことがありいろいろ思い出し楽しかった。だが1,2話に較べると、楽しいだけで話が弱いかなぁと思っていたらラスト間際、バイトに誘った三人の生徒の正体が判明する所で今まで無意味に見えた要素が全部つながり主題が浮かび上がるというアクロバテックな仕掛けになっていた。
 こんな構成をよく思いついたものだと感心する。  

 今回のテーマはおそらく二つ。
 一つはモグラの挿話にもあるような「偶然の凄さ」とでも言おうか?
これは偶然を無意味と置き換えてもらってもいい。
 あらゆることは偶然でそこには意味はない。野ブタがいじめられているのも修二や彰と関わってるのも特に明確な理由があってのことではない。
 言うなれば、その偶然の不条理に野ブタは今まで苦しめられてきたとも言える。でも関わってしまった以上、後で楽しかったと思い出したい、そうやって引き受け向き合った瞬間ありふれた文化祭や人間関係は何倍も素晴らしくなる。そんな野ブタのひたむきさを見ていると意味は初めからあるのでなく積み上げていくことで生まれるものなのだと思わせてくれる。

 もう一つは三人の関係の小さな変化とその対比だ。お化け屋敷をやりとげた彰と野ブタに対して一日中走り回ってた修二、不器用だからこそ、一つ一つを濃密な体験として受け取め成長していく野ブタ、器用で要領がいいからこそ不器用な修二、そして天然の彰(笑)。
 修二に器用なだけで自分は何も生み出せないんじゃないか?という二人に対する小さな負い目が生まれる。今回彰と野ブタと修二は別行動だったが今後、修二と二人の距離が開き修二が置き去りにされるのではないか?と不安を暗示させる。
 正直、修二の話はまだ先だと思ってたので予想外だった。
 来週は野ブタの恋愛話っぽいけど、どうなるものか?


■中川大地

 今回もまた、テーマやストーリーの読み解き以前に、現実にはありえないご都合主義的なギミックや一部キャラの小ネタの寒さやアイテムの無茶さ、それに怪談的な超常現象というファンタジックな要素と、人間ドラマのリアリティとの接続具合が微妙で、入れる人とそうでない人がハッキリ分かれそうな度合いがさらに高まった感じ。
 自分に関しては、正直ちょっとこなれないなと感じました。たとえば『木更津キャッツアイ』などでは、画面をフィルム調にしたり絵作りや映像演出をわざとらしい様式でまとめることによって、「この世界ではこれはアリ、これはナシ」という暗黙の「律」を視聴者に直観的に伝え、「こんなのありえねえよ」という疑問につまづくことなくテーマやプロットの面白さに入れたのですが、そうした作品のリアリティを支える「律」構築の演出がどうにも中途半端で散漫な気がしました。なので、彰や信子の達成感にも、それを味わえなかった修二の引け目にもすんなりとは共感していけず、ちょっと辛かった。最後のキャサリン教頭の「いい文化祭でしたね」という台詞が全然ピンと来なかったし。
 ただ、その寓話・ファンタジーとしての「律」がはっきりしない散漫で雑駁な印象こそが、クラスでの文化祭企画に打ち込むやつとそうでないやつの温度差や、学校内の異なるしがらみで引っ張りだこにされてバタバタしてる修二の落ち着かなさの印象を支えて、あえて安易な文化祭ロマンに落とさない乾いた虚しさの演出につながってるような気もするので、現状での評価は避けたいと思います。 a0048991_23315048.jpg


 で、長い前置きの末にようやくストーリーテーマ的な部分への感想。はじめ同窓生の三人がなんで幽霊でなく生霊なんだ?と首をかしげてしまったのですが、「楽しかった思いは時間を置かないとわからない」という信子の台詞に呼応していたことに、だいぶ時間を置いて気がついて納得(笑)。ただ、前回の体操着の件での発想転換に比べるとちょっと通俗的かな、とも。
 ともあれ、これで2~3話と、(1)「修二たちが協力する信子プロデュース企画」→(2)「信子を陥れるネガティブプロデューサーの妨害」→(3)「修二たちの想定外の『外部』的な転機による思わぬ問題解決」というパターンが続いたわけですが、これがフォーマット化するのかな?
 あと、今回は信子が最初から前向きなので、一応の本線であろう信子の成長過程を見せることによる「イジメ克服」モチーフが後退した部分は食い足りなかったところ。おそらくドラマ的には、信子本人よりも、今回だいぶ修二に放って置かれるかたちになったマリ子が伏線として利いてきそう。「イジメ克服」との関係の中での恋愛話という点で、『シガテラ』なんかのリアリティとどんな比較ができそうかなども楽しみ。



【今週のチェックポイント】


■視線の多様性

 本作が持つ豊かさは、その視線の多用さだ。例えば文化祭を描くにしても渦中にいる三人のひたむきな視線と、もうそこは過ぎてしまった先生や教頭、あるいは卒業生の郷愁の目線が交差した時、ありふれた高校の文化祭はとても豊かなものに思えてくる。こうやって外部と内部の様々な角度から見せられる時、一見つまらない日常も何倍も豊かなものだったのだと再確認させられる。同じものを見ていてもそれぞれ違うものを見て考えているものなのだ。 (成馬01)


■文化祭という制度

 文化祭っていうのは結構残酷な装置だ。主役になれるタイプ、自分で楽しみを見つけられるタイプの人間は思う存分楽しめるが、そうじゃないタイプはフォークダンスの輪から外れて「ケッ」といじけるしかない。ただ、輪に素直に入れない人たちにも言い分がある。文化祭なんて所詮「クラスの中心にいる主役たち」のために存在して、「クラスの隅っこにいる僕等」は脇役にしかなれず、貴重な個人の時間を割かれるだけだというのだ。この言い分には一定の説得力がある。

 では「野ブタ。」ではどうだろうか。a0048991_23311895.jpg
 ここではいじめられっ子の信子が文化祭の主役に抜擢されるという「ねじれ」がまずある。
 彼女に味方する修二は、最初はクラスメイトを焚きつけて準備を手伝わせようとするが早々にその路線は放棄する。ありていな青春ドラマみたいに「義務」や「責任」を訴えて「準備を手伝え!」とは決して言わないのだ。
 そして、替わりに、文化祭の見物に来ていた3人組を「文化祭を体験させてやるよ」とオルグして来る。
 つまり、修二は文化祭(のような非日常への動員)のもつ暴力性を十二分に自覚していている上に、それを補う動員のテクニックを熟知しているのだ。

 たぶん、修二はフォークダンスの輪に入れず、いじけている少年達を誘うときに「お前等も入れよ」とは誘わない。彼等はあの輪の中で自分達が主役になれないことを知っているから、輪の外にいるのだ。 
 そして、おそらくはこう誘うだろう。
「お前等がいないとどうしてもダメなんだ、ちょっと裏方手伝ってくんねーか」と、彼等を誘うに違いない。彼らが「主役」になれる場を提供すること……教室の人間関係をメタ視する「プロデューサー」桐谷修二ならではの発想である。(善良な市民)


■生霊たち
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 そして修二がオルグしてきた3人組だが……彼等は文化祭は「送り手」に回るのが面白いことを熟知していて、修二の誘いに二つ返事で乗る。そして終盤、彼等の正体は過去の卒業生たちの「生き霊」だということが判明する。現在、堂々たる中年となった彼等は日々の仕事に忙殺される余り、「あの頃に帰りたい」という思いが生き霊となって母校に出現したのだ。夜中に校舎に忍び込んで、自分の落書きを確認しに来た本屋の主人といい、この第3話では青春と言う特別な時間の入れ替え不可能性が再三反復される。 (善良な市民)


■モグラの喩えと出口のメッセージ
 
 そしてもうひとつ。青春の「入れ替え不可能性」の根拠となるものが、劇中で彰が口にする「モグラの喩え」が示すものだ。モグラは普段地中に単体で暮らしていくが、発情期になると異性を求めてひたすら動き回り、そして偶然遭遇した異性と結ばれるという……そう、「今、この」瞬間を特別なものにしているものは一期一会ともいうべき出会いの奇跡なのだ。それは一瞬で終わるものかもしれない。しかしだからこそ「入れ替え不可能性」を確保することができるのだ。a0048991_23175760.jpg
 信子は自分達が置かれている状況がどんなに貴重なものか、察したのだろう。お化け屋敷の出口に、今、側にいる人との出会い、一期一会の奇跡の素晴らしさを訴えるメッセージを残す。 (善良な市民)


■プロデューサーという生き方
  この第3話は、器用で八方美人、コミュニケーションスキルに長けた修二よりも、不器用でぱっとしない信子や彰の地道な努力の方が実を結んだことに、修二がショックを受けるという終わり方をする。
 たしかに、原作の修二は自らのうわべを繕う力に溺れて、内実のある人間関係を築くことを疎かにした結果、手痛いしっぺ返しを喰らう。だが、このドラマはそんな修二に少し優しい。物語のラスト、「自分はうわべだけの人間だ」と自己嫌悪に陥る修二に、彼の弟は言う。お兄ちゃんは決して悪い奴じゃない、と、お兄ちゃんもいないとダメなんだ、と。確かに修二の力は今回の文化祭でも大きく貢献している。だが修二自身はそのことに気付いていない。彼もまた「通り過ぎてみないと」それが楽しいことだったと気付かない段階にいる少年なのだ。 (善良な市民)


■修二の弟、信子の継父

 今回はそれぞれの二人の家庭バックグラウンドを示唆する新しい家族が一人ずつ登場。修二弟は、兄の裏表ある器用さを観察・告発し、自分の空虚さに向き合わせる役割ながら、信子プロデュースの約束だけは頑なに守るあたりを素直に褒めたりする。
 信子継父は、「僕は君のお母さんと結婚したけど君のお父さんじゃない」と、幼少期の信子に言ったことで彼女の今につながる性格のトラウマ源になったと示唆されながら、彼女を気遣って文化祭に差し入れを持ってくるなど、不器用なだけで決して悪い父親ではない。 a0048991_2332937.jpg
 どちらも関係性が多面的で、修二・信子それぞれが抱える問題を安易に家庭環境に還元せず、コミュニケーションの努力も普通に行われているというあたりは、この作品の良いスタンス。それは、決して作劇が暗さに引きずられない前向きさであり、世の悩みが決してあからさまな悪意や問題のせいで生まれるとは限らないという真理でもあろう。 (中川大地)


■ビューティフル・ドリーマー

 学園祭という「非日常」の快楽を扱った作品とえいば、やはり『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』の名前を忘れるわけにはいかない。
 高橋留美子による原作漫画は「時間の流れの止まった、永遠のラブコメ空間」を描き、当時のオタクたちに男女を問わず圧倒的な支持を受け、その現実逃避的な想像力の源泉となった作品だった。
 これに反抗したのがテレビアニメ版の監督だった押井守だった。押井は高橋が「終わりなき日常」を永遠の楽園として描くことの欺瞞を告発した。それがこの映画『ビューティフル・ドリーマー』だ。
 物語は主人公たちが通う高校の文化祭の「前日」。彼らはいつものように楽しくバカ騒ぎしながら文化祭へ盛り上がる気分を満喫するが、ある日、登場人物のひとりが自分たちがもう何日も知らず知らずの間に「文化祭の前日」を繰り返していることに気付く……。a0048991_23363212.jpg

 無論、この「永遠に繰り返す文化祭の前日」とは原作版「うる星やつら」の作品世界と、そこに現実逃避するファンたちのライフスタイルのことである。そして、物語は主人公たちがその「永遠に繰り返す文化祭の前日」から脱出を試みるという形で進行する。そう、ここには押井の高橋的な世界への懐疑が込められているのだ。では、その懐疑とは何か? それは本稿をここまで読み進めたみなさんにはもうお分かりだろう。
 そう、文化祭は「終わる」から、「二度と戻ってこない」からこそ楽しいものなのではないか? 押井は「終わらない文化祭」に逃避する若者たちにそう問いかけたのだ。
 そして、押井はこの懐疑をヒロインが主人公に「責任とってね」と告げる(楽園を放棄して、成熟に向かうんだよ、と告げる)ことで示している。随分と悪趣味だが、そのパンチ力は凄まじい。 (善良な市民)
 
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by nobuta2nd | 2005-11-01 23:37 | 第3話