週刊 野ブタ。

nobuta2nd.exblog.jp
ブログトップ

カテゴリ:第7話( 1 )


2005年 12月 02日

第7話



【今週のあらすじ】

 信子に恋心を抱いた彰は信子を独占したいという想いから人気者にプロデュースする作戦を止めたいと申し出る。修二は彰の申し出に苛立ちを感じながらも受け入れざるを得ない。
そんな中、信子は唯一、出来た友人の蒼井かすみによる誘いで放送部へ入部。信子と少しでも一緒にいたい彰も又、放送部へ入部することに。そして、彰は信子への抑えられぬ思いのために、ある、とんでもない行動を取ってしまう・・・。
a0048991_2044133.jpg 修二はというと、クラスメイトと適当に遊びながら適当に距離を置くという元の生活に戻るが、日々の生活にぽっかり穴が空いたような空虚感がぬぐえなかった。さらに、まり子から、自分との関係をはっきりさせてくれ、本当の気持ちを教えてくれ、と問い詰められる・・・。そんな折、信子が『私の好きなもの』をテーマに映像作品を募集するコンクール作品を撮影することになり、3人が久しぶりに行動をともにすることになるが、そこにまた陰湿ないたずらが発生し・・・。
 
 公式サイト



【今週のストーリー解説】

■善良な市民
 突然だが、僕はこのドラマの中では主人公の修二が好きだ。器用に、要領よく立ち回ることを心得ているが故に孤独な修二……個人的には「あえてベタな偽善」を行うという最近はやりのキャラ全開の彰や、フツーに健気でいい娘の信子より、断然感情移入できるキャラクターだ。そんな修二の内面にいよいよスポットが当たったこの第7話では、ついに修二がまり子に本心を打ちあけて、原作のオチになっていた修二の転落劇がはじまることになる。原作ではいわば修二が転落して「因果応報」オチで終わるわけだが、この原作よりも何倍も深くて広いドラマ版では、修二にこそ、この経験を通して大きく成長して欲しいと思う。
 また、今回の第7話は「終わりのはじまり」だ。劇中で繰り返される「終わる」「諦める」というモチーフが示すとおり、修二、彰、信子の「3人組」の楽しかった時間はいつの間にか終わりを迎えていたのだ。それは基本的にはとても寂しいことには違いない。だが、逆を返せば、短い時間で終わるからこそそれは貴重な時間だったのだ。「終わる」「別れる」「諦める」というモチーフに貫かれたこの第7話だが、これは個人的には修二たちが次のステップへ進むためのジャンピングボードとして機能するんだと信じたいところだ。a0048991_20445477.jpg



■成馬01
 まず、6話のチェックポイントで中川大地さんが書いてた修二とまり子についての解説がまったく的確だったことに見ていて驚いた。
 俺はどうにも上原まり子みたいな普通にかわいい子についてはわからないので、そこまで想像力が及ばなかったけど、彼女も知らず知らずの内に追い詰められ傷ついていたのか?「ごめんよぉ~」って修二の変わりに謝りたい気持ちになったけど、あくまで自分と修二の関係を恋愛の問題と捉えるまり子と、どう他人と付き合うか?という問題と捉える修二とでは、コミュニケーションの捉え方が違いすぎる、という断絶が強調された気がする。まり子は修二と付き合うのにはマトモすぎる。こういう子はもっと普通のいい奴と付き合った方がいいと思った。
 さて、今回は今までの話をステージを上げて展開した気がして、その意味で目新しさはなかったと思う。ただ密度は濃い。テーマは「人の心の中」と「諦める」だろうか?以前も書いたが野ブタ~は「気付きの物語」で、彰は恋心の発展として嫉妬と独占欲から来る自己嫌悪を知り、野ブタは修二へのほのかな恋心?を知り、修二は自分が今まで冷たい人間だったんだということに気づく。(しかし、その冷たさは人が好きすぎる反動で嫌われるのは怖いという弱さから来ていることを野ブタに発見されている、まったくこういう男に女は弱いんだろうなぁ)彰は自分には野ブタを好きになる資格はないと一端諦め、修二はまり子に本心を伝えることで今までのごまかしの関係を諦めるが、この諦めるという行為が成長のモチーフになってることは前回のチェックポイントで市民さんが指摘してる通りだろう思う。それにしても写真とかビデオというものは過去を刻印するものだからか?郷愁のようなものを強く感じる回だった。予告を見る限り、このままラストまで連続した話が続くのかなぁと思う、一部原作を引き継いでるので比較しながら見守りたい 。


■中川大地

 つるべ落としで終わりに向かっていくことを、これでもかこれでもかと強調する映像エフェクト、音効、モチーフ選択、画面構成、台詞回し、演技等すべての要素がガッチリはまりすぎて、序盤からもうギュンギュンギュンに胸締めつけられっぱなし……。カーッ、もう、せつな殺す気かっつうの、こんちくドらマぁめぇっ!!
 今回はもうストーリーラインがどうとかガジェットの仕掛けがどうとかにまるっきり注意が回らないほど、修二の寂しさ、彰の気まずさ、野ブタの気持ちの持ってきどころなさ、そしてまり子のくるしさが、直接的な視聴覚演出のレベルで最短距離から撃ち込まれてくる感じで、マジやばかったです。
 もうダダこね競争後の修二と一緒に悶える、悶えるよッ!!

 でも負けずに、『寄生獣』でミギーになだめられて胸に手をあてて気持ちを鎮めるシンイチよろしく落ち着いて考えてみる。考えてみると、一話完結噺としての今回のお題はまさにそんな「心のコントロール」、より踏み込んで言えば「内的衝動と外的現実を調停すること」なのだと整理できると思います(「終わりの始まり」はシリーズ構成上の見え方ですね)。
 現代の通俗的な価値観では、心のまま衝動のまま欲望のままに行動することは(ことに恋愛に関しては特に)基本的に正しいことだとされているけれど、それが本当に望ましい結果をもたらすとは限らない。彰は、野ブタと最終的には「結婚したい」とまでの独占衝動に正直になってプロデュースを打ちきったために彼が本当に好きだった3人でいるときの野ブタとの時間の喪失することになるし、野ブタも思わぬ衝動で打ってしまったパンチや抱きしめに悩む。修二は苦しませたくないと思ったがゆえにまり子を傷つけたり、野ブタを傷つけたくないと思いながらも身体が動かなかったりする。
 制御できない心の中の思いと、ままならない現実の齟齬のありようがそれぞれに強調して描かれ、そのことは修二の「恋愛みたいに心がコントロールできなくなるようになるのは嫌だ」という台詞でも明示されます。あと、ネガプロがビデオテープを切り刻んだことへの、「こんなに感情をむき出しにできるなんて」という感想もまた。
 で、そうなったときに一体どうすればいいのか、という心と現実との調停のビジョンこそ、劇中で繰り返し描かれる「諦める」という態度なわけですね。これについては後述の成馬さんのチェックポイントに詳しいように、決して西洋近代主義で常識とされているほど「諦める」ことはネガティブなことではなく、ままならなかった現実を心の中に取り込んで発見や成長の糧にするための、人生に不可欠な知恵だってわけです。
 そう考えたとき、今回もまたキャサリン教頭や修二父が、いい「諦め方」の手本を見せてくれて(チェックポイント参照)、その示唆を受けた修二が彰に休日の校舎での「諦め放送」を促すというパターンがしっかり踏襲されてるんですよね。そんな仏教説話のような含蓄ある教訓性もまた、シリーズ終盤になっても崩れない、この作品の魅力の骨格になっていると思います。



【今週のチェックポイント】


■終わりの契機
 男女混合の仲良しグループが、メンバー同士の恋愛が原因で崩壊するのはよくある話だ。それが男2×女1のいわゆる「ドリカム状態」ならなおのこと。勿論、修二たち3人組がそれに当てはまるかどうかは分からない。しかし、「男女の関係になる」というのは、モラトリアムの終了を意味するものに他ならない。第3話で紹介した押井守監督の『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』では、ヒロインが主人公に「責任取ってね」と迫る(関係を結ぶ)ことがモラトリアムの終わりを象徴するサインになっていた。
 若者たちはラブコメ空間に憧れて群れる。しかし、実際に恋し始めた瞬間に「終わり」ははじまっていたのだ。「野ブタ。」で言えば彰が自分の気持ちに気付いた瞬間がそれに当たる。もっとも、知り合いの女性ライター(40代)は、「ここで恋愛を終わりの契機にするのは安易」と批判していたのだが……。(市民)


■プロデュース終了?a0048991_20454027.jpg
 彰の「信子狙い」宣言によって終了したプロデュース。彰と信子は放送部へ、修二は元のクラスの人気者グループへと戻るかに見えたが、信子はあからさまに寂しがり、一見けろっとしている修二も仲間との遊びに全然集中できない。自分達でも気付かない間に、彼等は「本当に楽しいこと」が何か、それを味わうために必要な仲間がどんな存在かを知ってしまったのだ。まさに、第3話で語られているように「楽しかったことは後になってからそれが楽しかったと気付く」ものなのだ。(市民)


■スローモーションの演出
 野ブタ。をプロデュースではスローモーションやコマ送りの演出が効果的に使われているが、今回はスローモーションが修二と周囲とのズレを強調するシーンで使われている。周囲が残像のようにぼやける中で訥々と語られるモノローグは無自覚な孤独感を強調する。
 またスローモーションで過ぎていくまり子の修二が呼びかけるシーンでは、ここで修二が現実のまり子と自分の気持ちと向き合った、ということがわかりやすく表現されている。 (成馬)
a0048991_20461360.jpg


■ダダこね競争
 修二の家での食事シーンで、一つしかないメロンを誰が食べるかを決めるために、修二父は「一番ムチャでどうにもならないことをダダこねてみせた奴が勝ち」という競争を提案する。この「ダダこね」儀式もまた、ままならない現実と心の中とを調停する「諦め」のための知恵のあり方のひとつといえるだろう。こういうことを、いまどきメロン争いなんていうしょーもないシチュエーションでさらりとできてしまうこのオヤジの人生力はホントただ事ではない!
 で、こういう感情マネジメントが図抜けて巧みな父や、その感化ですくすく育つ弟がありながら、修二がちゃんとダダこねられないのは多分、ヘビースモーカーだらけの家族で育った子がえてしてタバコ嫌いになってしまうようなのにも似たリアリティなのだろう(笑)。
 ただ、こういう家族の下地があればこそ、野ブタが見破っている修二の本質的な人間好きな部分や機転の利くところ、そしてなんだかんだで周囲の前向きなメッセージを見過ごさず行動できるところなどの潜在的な長所が頷けるというもの。無意識のポテンシャルに、意識が追いついていないだけ。修二は決して、野ブタが過大評価しているわけでもなければ、まり子が恋するに値しないつまらん奴でもないと、僕は思う。で、彼(および野ブタ)に訪れるべき大人へのなり方とは、リニアに鍛えあげられて力を獲得してゆく「成長」というよりも、ある瞬間にパッと鱗が落ちるように切り替わる「脱皮」なのではないか、とも。(中川)


■修二の「コン」
「コン」とは彰がいつも登場シーンで行うジェスチャー。手を影絵のキツネの形にして、ドアをノックするジェスチャーを行う。おそらく、キツネの鳴き声とノックの音をかけているのだろうが、この彰の特徴的なジェスチャーが今回は修二に伝染している。特に、結局表面的な付き合いでしかないクラスの仲間たちとの遊びにノれない修二が、彰と信子の入る放送部を訪ねるときにこのジェスチャーを行っているのはポイントだ。(市民)


■どじっこ萌え
 放送部制作の番組のレポーターとして活躍する信子。彼女の奮闘を見て笑うクラスの面々にもはや悪意はない。修二たちの「プロデュース」の効果は如実に表れていたのだ。(市民)a0048991_20463692.jpg


■彰の鼻歌

アンパンマンの替え歌
ナウシカの回想シーンの唄
マンガニッポン昔話のエンディングテーマ
加山雄三の「お嫁においで」

 それぞれ彰の感情をうまく伝える使い方をしている。 (成馬)


■秋のセミ、別れの予感
 この第7話のテーマが「終わる」「諦める」であることを考えると、この「秋のセミ」のシーンと、夕暮れ時の3人がそれぞれ別方向に別れて行くシーンは実にわかりやすい。ゴーヨク堂が指摘するように、これは否応なしにやってくる「終わり」なのだ。(市民)a0048991_2047160.jpg


■ヨコヤマ人形揚げ
 300万円の宝くじをフイにしてしまった横山先生への怒りを昇華し、執着を断ち切るためにキャサリン教頭が作っていた呪いの藁人形的な手料理。手間暇かけてこんなものを作り、ガブリと食うことで、きれいさっぱり気分を変えるという儀式だ。「諦める」ということはただの内心の変化ではなく、具体的な行動をともない、しかも闇雲なストレス発散ではなく、代償行動としてちゃんと意味のある見立てがあることが望ましいという、何やら民俗学めいた知恵さえ垣間見える気がする。
 なお、このヨコヤマ人形を頭からガブリと食いちぎった野ブタが、後のビデオ撮影で頭の切れている横山先生を撮っているという芸の細かさも可笑しい(さらに頭から食いちぎるというのも、前回の彰の鯛焼きの頭の方を食べると幸せな気分になる、というエピソードを引いているという重層構造)。(中川)


■「諦めたら、そこで終わりだ」
 彰のおじさんも味のあるイイ大人ではあるんだけれど、「諦める」ということについての考え方は、こうした通俗的なものだった(いやまあ、そういう通俗道徳をちゃんと信じきってみせる度量もそれはそれで必要なんだけど…)。その点の人生哲学の深みの微妙な差が、修二と比較した場合の、彰のエゴの抑制という面における未熟さとして出てしまっていたように思う。彼は野ブタを諦めるという決断こそ自分でしたけれど、スパっと諦めるための具体的な儀式行動は、修二のサジェスチョンに依っていたからだ。だから彰(とかまり子)については、トライ&エラーを繰り返しながらの地道な「成長」が、まだまだ必要なんだな、と感じる。(中川)


■ビデオテープと宝くじ
 それと連動するのが「宝くじ」と謎の妨害者にズタズタにされた「ビデオテープ」だ。どちらも、一度失われたら戻らない(回復不可能)なもの。「諦める」という今回のテーマも併せて、これはやはり修二たち3人の幸せな時間も、もう終わりを告げようとしていることを示すのだろう。ラスト近く、結局元に戻せなかったビデオテープの画像を、じっと見つめる彰の横顔が悲しい。(市民)


■三人の撮った映像
彰「犬が撮ったビデオみたい(地面や路地を撮る)」
野ブタ(風景や青空を撮るが採用していたのは横山先生の首から下のみ)
修二(人が多い) a0048991_20473671.jpg
 修二のビデオを見て野ブタは修二が無関心なふりをしているが人が好きなことに気づく。そして彰は野ブタが修二を気にしていることに気づく。
 また三人を撮っている豆腐屋のおじさんの視線がそのまま彼らを見守る大人の視線としてうまく作品の世界観を表している。 (成馬)


■修二の素顔
 信子が語る修二の素顔は、やや過大評価といえる。確かに修二は「人が好き」なのだろうし、まわりを大事にするあまり、基本的に自分が我慢する「だだをこねない子供」だ。しかしそれはやはり「子供」のコミュニケーションにすぎない。事実、修二も本音では「ウソなんかつきたくない」と思っているのであり、その苦しさは確実に修二を蝕んでいる。「自分のエゴをむき出しにして他人を傷つける」ことと、「ウソをついて他人を傷つけないこと」は実はどちらも「子供」のコミュニケーションなのだ。人間同士のコミュニケーションは0と1にカッキリ別れるものではない。本音を語りつつ、相手にも合わせるという柔軟な態度が大事なのだが……。(市民)a0048991_20475879.jpg


■野ブタパンチ
 野ブタが編集したテープを捨てようとする彰を思わず殴ってしまう野ブタ。一見コミカルだが倒れた彰から鼻血が出たりとかなりナマナマしい。ここは五話でシッタカが反射的に野ブタの唾液で汚れた手を汚いと拒絶するシーンと対になっている。
 つまり今度は野ブタの側が反射的に傷つける側へと回ってしまったのだ。木皿泉の作品の登場人物は基本的に皆やさしいが、ふいに感情が湧き出し言ってはいけないことや行為をし傷つけてしまう描写が多い。あとあの野ブタパンチは4話で彰に習ったものだ。 (成馬)a0048991_20481394.jpg


■諦める。
 仏教の世界ではで諦めるとは「明らめる」と書き、断念するということではなく、事実を明らかに見るということであり、現実を直視し、それをありのままに受け入れるという意味らしい、修二がそれを知っていたかどうかは不明だがまり子が「私は諦めない」と言った後ビデオの録画を止め修二の気持ちを確かめようとする行為は、その文脈で見た限りではちゃんと繋がっている。そして修二も自分の中のまり子への気持ちを明らめ、彰も野ブタへの気持ちを明らめる。
「すいか」の頃から思うのは木皿泉作品には諦念の美学とでも呼ぶものがある気がする。それは思い出の品を埋める(埋めるや穴は多用される)行為だったり、喪失感を受け入れたり、様々な行為を通して現れるが、同時にいろいろな発見に溢れていることを考えると諦める=「明らめる」とは中々よくできた解釈だなぁ、仏教やるじゃんと思わせる。 (成馬)
a0048991_20483681.jpg


■「野ブタの読んでる本が好きだ」「野ブタの歩いている道が好きだ」「野ブタのいる屋上が好きだ」「野ブタのいる所は全部好きだ」
 冒頭野ブタを独占したいという彰は、野ブタへの気持ちを断念した後休みの学校の放送室でこう演説する。彰は野ブタ。を独占して閉じ込めておくことよりも三人でいる時間が好きだということに気づく。彰の変化は人を好きになることの両面(独占所有したいという気持ちと彼女を知ることで世界を広がっていくという気持ち)を的確に表現している。どちらも人の心の中にある恋愛感情の両面なのだが前者は君と僕の世界に閉じていくものだが、後者は世界を広げてくれる。彰は野ブタだけでなく、野ブタを含めた周囲の世界を肯定したいという気持ちに気づいたのだ。それは情熱的な感情とは違う落ち着いたもので「すいか」の頃から一貫してスタッフに、こういう価値感があるってことを今の若い子へ伝えたいという気持ちが伝わってくる。 (成馬)


■「どうして感情をむき出しにできるのかなぁ?」「できちゃうのよ切羽つまった人間には」
 野ブタの編集したテープがズタズタに切り裂かれた様を見て、その感情を理解できてしまう彰。
 これはおそらくネガプロの今までの行動の動機が嫉妬からだと暗示しているのではないか?と予想させる。  この野ブタの世界では感情は唐突に湧き上がるものとして表現されている。
 彰を殴ってしまったり反対に修二を抱きしめてしまう野ブタや、嫉妬の感情からビデオを捨てようとしてしまう彰。
 彼らにとって感情が湧き上がることはどちらかというとネガティブなもので、感情を抑制し相手を気遣うことの方を美徳して描いてるところが少し他のドラマと違って見えるところだと思う。 (成馬)

a0048991_2049025.jpg
■修二とまり子  お昼に野ブタのレポート映像を見て呆けて机に腰掛ける修二そして休みの学校で彰のアナウンスを呆けたように机に腰掛けて聴く修二それは仮面を被った修二が見せた素の表情だ。それに唯一気づくのがまり子だという描写が切ない。 (成馬)


■「俺は寂しい」a0048991_20492979.jpg
 そう、修二は寂しい人間だ。視聴者はほぼ全員気付いていただろうが(笑)、修二はこのときはじめて気付いたのだ。スクールカースト(学校社会でのキャラ売りが決める位置づけ)を利用するのに長け、学園生活を「人気者キャラの椅子をめぐるゲーム」と割り切っていた修二だが、彰と信子との付き合いの中でそんな「ゲーム」には回収されないものに気付いたのだ。しかし、修二がそのことを自覚したそのとき、「仲良し3人組」の時間は終わりを告げようとしていたのだ。(市民)
[PR]

by nobuta2nd | 2005-12-02 20:51 | 第7話