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2005年 11月 24日

第6話


【今週のあらすじ】
  
 何者かによる度重なる誹謗中傷で信子を人気者にする作戦を邪魔されてきた修二と彰は、噂を逆手に取り信子を人気者にする手段を探していた。
 そんな折、信子をモチーフにした彰お手製の「ノブタパワー人形」を目にした修二は、人形を流行らせることができれば、信子が人気者になる道も早いと考えた。
 そこで、修二と彰は、「ノブタパワー人形」を所持すれば、願い事が叶うという噂を作り上げ、マジナイや占い好きの女子高生の性質を利用すると、人形は一瞬のうちに大流行。
 面白いほど売り上げを伸ばした。 a0048991_2145179.jpg
 浮かれる修二たちだったが、ある落とし穴が待っていた――。
 そんな中、彰の実父が、会社を継がせる準備をさせるため、彰を実家に呼び戻すのだった。
 それを良しとしない彰は家出をし、修二の家に転がりこむのだった――。 
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【今週のストーリー解説】

■善良な市民
 第6話は『野ブタ。』のメインテーマのひとつ「価値観」をめぐるドラマが、「商品の流行り廃り」というわかりやすいアイテムで語られている。修二たちの売り出した「野ブタ。」キィホルダーは、修二の「噂」を利用した販売戦略が功を奏して発売当初こそ絶大な人気を見せて売れに売れまくるが、やがてその効力が切れた途端にまったく売れなくなる。まさに「人の噂も七十五日」だ。修二たちはこの挫折をきっかけに、自分たちが小さな世界の住人であること、そしてやがてこの時間が終わっていくことをを強く意識する。
 修二たちのやっている価値観の書き換えゲームは現実の社会でも行われていることだ。そう、彼等がやっていることは、決して学校という比較的小さな世界の中での「ごっこ遊び」ではないのだ。いや、今は確かにそうかもしれない。しかし、それはやがて彼等が踏み出していく「次」の世界へ続いていく「ごっこ遊び」なのだ。
この第6話では、「今、ここ」の瞬間の価値を美しいものとして提示しながら、やがてこの幸福な時間が終わっていくこと、「次」に行かなくてはいけないことを強く刻み付けられる。その結果もたらされたものは何か……。それは、彰の「信ブタを俺だけのものにしたい」というラストの宣言だった。そう、彰は「次」の段階へ進むことを決意したのだ。
 彼等の幸福な時間は、だんだんと終わりに近づいていこうとしている。だが、彼等は気付いているだろうか。それは「終わる」からこそ貴重なものだということを。a0048991_2146097.jpg

■成馬01

 仮に「野ブタをプロデュース」がどういう話?と問われれば「価値感を巡る話を学園モノの枠組みで描いた物語だ」と俺は答えると思う。
 今回の話はそれが一番良く出ていた2話でやったことの発展編でもあり、その挫折とプロデュースという曖昧な関係の終わりの予感を感じさせる回だった。つまり価値を巡る「問いかけ」と将来の進路とも絡む「今・ここ」が確実に終わっていく前兆。 そして学園モノ、あるいは青春モノは渦中の楽しさを描いていればいるほど、どういう風に、その時間が終わっていくのか? 居心地のいい世界からどう卒業するのか? が問われていく。 今回野ブタは「次に行かなくちゃ」と言い彰は「プロデュースをやめたい」とう所で終わり、幸福なトライアングルが一端終わり修二が取り残される予兆のようなものを感じさせる。また面白かったのは今回野ブタグッズ販売は修二たちにとって痛い失敗として終わり、修二はこんなことなら本気でやらなきゃよかったと後悔するのだが、見ている側からすると、例えば修二はビジネスの面白さに目覚め、野ブタは手先を使った仕事に将来進むのでは?という予感を与えてくれる。
 一見将来の進路を決めるということから逃避のたねに没頭してるように見えたことですら、ちゃんと繋がっているんだよ、という最後は作り手の優しい目線を感じる回だったなぁと思う。

■中川大地
 今回はあっと驚かせてくれる仕掛けが弱く、ちょっと物足りなかったかな。修二たち3人の活動に、親たちや先生たちの一見関係なさそうな挿話が意外なかたちで主題的に絡む、というのがこのドラマのプロット構成上の面白さのひとつなんですが、初登場の彰の親父や横山先生が過去に抱いていた将来の夢の話と、進路のことで揺れる修二・彰との絡ませ方はストレートすぎ、いまいちな印象でした。「お金よりも心」な通俗教訓話以上のハッとするような「気づき」も特に見出せなかったし。
 冒頭の桐谷家の会話(この家族大好き)で、「バラバラ死体をスーツケースに詰めて頼ってくる友達の話を黙って聞いてやるほど、友情にアツイ男になりたかった」修二父の話が、直後の彰の登場の前フリというだけでなくて、後半の仕掛けにも何か絡んでくれたら面白かったんだけど……。
 あとまあ、今となっては野ブタが修二たちに「プロデュースさせてやってる」感が漂ってしまうのも辛いとこですね。そういうモラトリアム関係の終わりの始まりがテーマの回だから仕方ないといえば仕方ないんですが、野ブタが普通にいい子すぎて感情移入しづらくなってきてる感はあります。売れ残りキーホルダーへのペンキの嫌がらせも、なんかプロット上のお約束の段取りみたいな感じで、「これで次行けるから」というのもウーンと思った。ま、「強くなる」ってそういうことなんだろうけど……。
 とはいえ、そういう不満点はたぶんこちらが擦れすぎてこのドラマへの欲が深くなりすぎてるがゆえのもので、この年頃の子らが人生の原理原則の噛みしめ方としては、すごく妥当だし丁寧に描かれてると思います。全10話が折り返してすぐに「終わり」を意識させる彼らの成長とシリーズ構成の未練のない早さに、こっちが寂しさを感じてるだけかもしれないな、とも。


【今週のチェックポイント 】

■噂には噂で対抗!
 そう、「野ブタ。」の基本的な世界観は「世の中にハッキリした価値の基準なんてない」というもの。だから噂を利用して信子の価値を上げてしまおうという修二の発想はまさにこの物語の基本に立ち戻ったものと言える。
a0048991_21463713.jpg 事実キィホルダーは修二たちの「やらせ」も効を奏して最初爆発的に売れ、キィホルダーのおまじない効果は抜群の信頼度を得ることになる。それにしても、修二の甘言ひとつで人を好きになってしまうクラスメイトというのは、まさに「野ブタ。」ならではの発想と言える。でも、割と世の中こんなものだよなあ。(市民)

■お金という数値化された価値感
 野ブタを人気モノにするためにグッズを作り広めるという目的がいつしか数字の魔力に当てられお金を稼ぐということに捕らわれてしまう修二。
 前作「すいか」でも主人公が信用金庫に勤めていた関係もあってかお金にまつわる話は何度も出てきたがお金は木皿泉作品にとって重要なモチーフかもしれない。 a0048991_2147699.jpg
 もっと言うとそれは数値化された価値観という方がはまりがいい。社会が流動的になり、わかりやすい国や神のような価値感が弱体化する中で私たちはお金のほかにも成績、体重、あるいは友達の数などの数字の価値感に囲まれて生きている。本来お金とは商品あるいは何らかの価値のある存在と交換できる存在として現れる。だからただ所有しているだけでは無価値なものだ。だが所有することで所有紙幣や効果の数字が可視化される時そこに具体的な力、価値感を感じ錯覚しいつしか数字の上昇が目的となってしまうことが残念ながら多々あるのだ。「すいか」ではお金の描写(数値化された価値感)と対抗するようにハピネス三茶での談話、食事のシーン(数値化できないもの)が何度となく繰り返されてきたがこれはきっと野ブタにおける見えるものと見えないものというドラマの対立項とも繋がっているのだろうと思う。 (成馬)

■進路調査のプリントで折られた紙飛行機
 他の生徒がしっかり進路のことを考えてることに驚く修二と対比される形で屋上で紙飛行機を折る三人。その姿はまるで将来という現実について考えることを保留にするためにプロデュースをしているかのように見える。この回ではプロデュースという言葉にくるむことで出来上がってたものが幸福なモラトリアムの時間だったことが、その崩壊を見せることで気付かせてくれる。だからこそ野ブタは最後に「私たち次にいかなきゃ」と言うのだろう。 (成馬)a0048991_21511846.jpg

■「こっちがオリジナルだろ」
 本来そういうジャッジをしない「みんながいい、と思うものがいい」という価値感を生きてるはずの修二がこの台詞を言うのがかなり可笑しい。 (成馬)

■「ニセモノに負けてられるかよ」
 しかしこの場合の勝ち負けとは何なのだろうか?
一方で彰の父親が「俺、金に負けちゃったよ」と回想で語るシーンが挿入される。そもそもこのドラマの「野ブタを人気モノにする」という目的自体が勝ち負けが曖昧なものだ。
勝負というものは同じルール、価値感を共有して初めて成立する。スポーツが人気なのはルールが明確で同じ価値を巡って争ってるという前提が疑いようがないからだ。
 だけど、「野ブタ~」で描かれてるような戦いはルール自体が曖昧で目的も人気モノにするとあるが、それがどういう状態なのかはおそらく修二ですらもよくわかっておらず、だからいつしか目的が摩り替わってしまったのだろう。今回の修二の敗北は金銭の獲得がゲームの勝利条件だというルールをいつの間にか受け入れていたからだといえる。
 逆にいうと、どのようなルールかに自覚的でないと、すぐわかりやすい対立項に飲み込まれてしまうのだ。また普段クールな修二が勝負になると熱くなり自分を見失う一方で今回終始クールな野ブタの描写の対比、そして最後に野ブタが励ましているのを見ると、いつの間にか力関系が変化していることに気付かされる。  (成馬)

■横山先生の詩集 (1)
 野ブタグッズの売れ行きと対比される形で描写されるダンボールに入っている横山先生の自主制作の詩集。これは横山先生の青春の思い出だった。3話の落書きを見に来る本屋のオヤジや生霊になって現れた元生徒など、この作品には思い出を大事に抱えている大人が多数登場し、それが彼らの人としての優しさの根拠になっている。またこの詩集は野ブタグッズのブームと入れ替わる形で生徒の間で大ブームとなる、ただし横山先生の執筆当初の意図とは別の「笑える本」として。
この詩集の挿話で、モノの価値や評価とは受けて次第でまるで意味は変わる曖昧なものだという価値感を更にダメ出しする。 (成馬)

■横山先生の詩集(2)
 修二たちが売りだしたキィホルダーのブームと入れ替わるように、ゴーヨク堂店主が売り出した横山先生の詩集がブームを起こす。一度は捨てられようとした横山先生が若い頃に書いた詩集が、ちょっとしたきっかけで大ブームを起こす。これは第1話以来繰り返されてきた、「小さな世界での価値観は簡単にひっくり返る」というこの物語における基本的な世界観の反復である。(市民)

■ゴーヨク堂と横山先生
 と、同時にこの第6話では、横山先生が詩人を諦めて生活のために教師になった「夢を捨てた大人」として描かれていることにも注目だ。横山はゴーヨク堂の店主に「(夢とお金でお金を取ったことを)後悔しているか?」と尋ねられて「していません」と答える。そして、(これまでの横山のやる気のない言動からは想像できないが)「今のこの仕事が好きなんです」と独白する。そしてゴーヨク堂の店主は、横山の詩集を自分の店で扱うことを提案する。
a0048991_2149719.jpg 第1話でゴーヨク堂店主は、店に逃げ込んできた信子に、小さな世界の価値観は書き換え可能であることを示唆する。そして第6話では横山に、彼が捨て去った「もう一つの可能性」をプレゼントする。ドラマ版「野ブタ。」において、ゴーヨク堂店主は、小さな世界のローカルな価値観に埋没しそうになっている登場人物に、それだけが全てではないことを気付かせる存在なのだ。もっとも、この6話の場合、ゴーヨク堂が横山にこういう提案をしたのは、「今の仕事が好き」な横山ならば、自分が詩集を売り出したところで勘違いし、自分を見失ったりしないという確信があったからだろう。(市民)

■「私は変わってないのに」
 今回修二が行った野ブタグッズ販売は学校内あるいはせいぜい近隣の中だけで行った小さな商売だったが、その小さな世界の中にモノを作り価値を与え売るということはどういうことか?そして追従するコピーが出回り、競争になり質を上げ価格を低下させる内に回りから飽きられゴミになって忘れられていくという、ある種の社会の縮図を描いている。ただここまでならよくある話でクドカンのタイガー&ドラゴンでも似たような話はあった。
 本来、衣食住つまり生活に関連しないものに価値を付加して大量消費させる、というのは言ってみればテレビドラマを作ってるスタッフの心情でもあるのだろう。
 前作「すいか」は質は高かったものの残念ながら高視聴率には結びつかなった。それに対し今回はジャニーズの人気アイドルを使いメジャーな学園モノという題材で同じテーマを展開したがための、平均15パーセントの数字を獲得し高い評価も得ている。野ブタの「私は変わってないのに」というのはまるで作り手の苦笑のようだ。だから今回の修二と野ブタの意見の食い違いは、そのまま「すいか」から「野ブタ」へ経由していく上での木皿泉やスタッフのジレンマだとも言えなくない。
 ただそれを迎合だと作り手が恥じているか?というとそれは違うと思う。すべてが終わり上辺だけのブームが過ぎた後、誰かの宝箱の片隅に残っている野ブタ人形を見ていると、そこに「本当にいいものは時間を得てもちゃんと残るのだ」という確信のようなものすら感じる。 (成馬)

■修二と信子の路線対立
 第6話ではキィ・ホルダーの販売方針を巡って、修二と信子が対立する。修二は「ライバルたちに負けたくない」と言い、あくまで売り上げにこだわる。対する信子は「誰かを勇気づけられたらそれでいい」と言う。このふたりは、どちらも無自覚に「キィホルダー販売を通して信子を人気者にする」という当初の目標を忘れている。修二は自分の能力をお金と言うハッキリとした形で示すことを望み、信子は自分のつくったものにロマンチックな意味を求めている。これは決して不幸なことではない。彼等はまだ自覚していないが、こういうことを通して人間「自分のやりたいこと」が少しずつわかっていくものなのだ。(市民)

■お金の裏と表
 お金儲けに勤しむ修二たちに教頭は「お金には裏と表の顔がある」と諭す。この「表」とは価値観が数値化されることのメリットであり、「裏」とは価値観が数値化されてしまうことで見えなくなってしまうものがあるという暗黒面である。事実、修二はこのお金の「裏」の面に報復される。お金と言う「数値化された価値」でしか、物事の価値を測れなくなってしまい、それがもっと他の(数値化されない)充実感をもとめる信子との路線対立を生んでいくのだ。a0048991_21493841.jpg
 ちなみに、このお金の裏と表の話は彰の父が後半口にする「お前は道端の10円玉でいろ!」という台詞につながっていく。(市民)

■まり子の距離感
 前話以来、修二がどうやら彰・信子とは、自分の知らない「本当の姿」で関係を結んでいるらしいことが気になりだしてるまり子。前回チェックポイントで成馬さんが「人の可視化されたコミュニケーションを疑わない鈍感さ」がゆえにいい奴だと彼女を評していたけど、僕はそうではなく、自分には「本当の姿」を見せてくれない修二の不可視な部分をずっと気にして、そこへのアクセス方法を愚直に不器用に探しているコなのだと思う。今回、野ブタグッズづくりに入れ込む修二の「本気」に気づいていたし、そこになんとかコミットしたいと思ってヘコんでる修二に「私買ってあげる」と、下手だけどまっすぐな入り方をして苛立たせる。で、そこではじめて「本当の姿」に触れられることになった。「次に行かなきゃ」は、きっと彼女についても言えることなのだろう。ガンバレ、おれはきみを応援してる!  (中川)

■彰の父
 かつて会社を継ぐことを拒否して、妻と幼い彰を連れて家出したことがある彰の父は、横山先生と同じような「夢を捨てた大人」だ。だが、横山同様に、この物語はそんな「夢を捨てた大人」に優しい。彼等は決して「敗者」として描かれることもないし、「夢をなくした抜け殻」とも描かれない。今回の修二たちがそうであったように、試行錯誤を繰り返して少しずつ「自分にとって本当に価値があるものがなにか」を突き止めていった存在として描かれているのがポイントだ。(市民)

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■「お前は道端の10円玉でいろ!」
 最後の彰と彰の父親の会話で彰の父親は硬貨と紙幣が綺麗に分類された金庫の中を見せ「俺が住んでいるのはこういう世界だ」という。彰の父親は「覚悟を決めろ」と会社を継がせようとして現れた。今回の話はグッズを売る話と将来を考える話の二重構造だが、彰が将来について導きだした解答は急いで進路を決めることでなく、立場を保留にし曖昧な「今・ここ」でじっくり考えるということだ。
 a0048991_2241492.jpgそしてこの父親とのやりとりから逆算する形で今までの彰の行動が結果や外見・数字などの目に見えることにこだわる修二と「だれかの力になれた」とか「喜んでもらえた」などの内的な見えないものにこだわる野ブタの中間的な位置で行動してきたのだなぁと思い出させる。
 そしてその彰が「プロデュースを辞めたい」と言う=曖昧な関系の終わりを宣言するというラストが物語は確実に終わりに向かっていることをわからせてくれる。(成馬)

■タイムカプセル
 信子が公園でみつけた、近所の子供のものらしいタイムカプセル。そこには彼女達が手作りでつくったキィホルダーが大切にしまわれていた。信子は修二と彰にこのタイムカプセルを見せて、自分たちのやったことは意味のないことではなかったのだと力説する。
a0048991_2245076.jpg これもまた、メディアを通してメッセージを発進し続けるスタッフの思いのようなものなのだろう。幸いにもこのドラマはヒットしているが、それが私たち視聴者の心に何を残したか……それが問題なのだとこのシーンは訴えている。(市民)

a0048991_2150734.jpg■次に進むしかない
 結局、キィホルダー販売に失敗し、大量の在庫を抱えてしまった修二たち。止目に謎の妨害者に在庫を台無しにされてしまった彼等は「次に進むしかない」と言って失敗を認め、在庫を処分する。この挫折はかつて詩人への道を諦めた横山の失敗や、実家の会社を継ぐことを拒否して家出したはいいものに、すぐに経済的に行き詰って実家に戻った彰の父の挫折にも重なる。この物語において、失敗することは決して負の価値ではない。横山や彰の父と同じように、こうして試行錯誤を繰り返すことこそが大切なのだと、この物語は訴えているのだ。(市民)

■「鯛焼きの頭の方を食べてると幸せな気持ちにならない?」
 彰は野ブタと修二にこのことを聞くが二人は「別に」と言う。 そういう気持ちになるのは父親との思い出が元にあり、それに気付くことがオチになっているのだが、一方で彰は「やっぱ俺だけか」とつぶやく。 みんないっしょだった一体感の喪失の予感は、ここでも暗示されている。(成馬)a0048991_21503441.jpg

■ちゃんとした人間になる。」
 修二はラスト、進路希望用紙にそんな目標を書いた。そう、第1話で信子と一緒にいる修二の前にひらりと舞い降りたキャサリン教頭が、「こいつ、ちゃんとした人間に教育してやって」と、どちらに向けたのかをぼかすかたちでかけた言葉だ。結果的に、上辺のことにとらわれすぎな修二を、野ブタが導くというかたちで伏線が回収されたわけである。
 これは第1話を観て以来の感想でもあるが、修二は最初から、決して自分が思っているほど、数量的な価値や勝ち負けだけを重視し、「心」を信じない上辺づくろいの空虚なゲームに身をやつしている人間ではない。何かに本気になって、それが挫折して今回のように余裕なくヘコむことを無意識に恐れているゆえに、万事を「ゲーム」と割り切るよう、常に自分に言い聞かせているだけなのだ。そうして自分を誤魔化している状態が「ちゃんとしていない」ことを、どこかでわきまえているからこそ、いつも最後の最後では大事なことにちゃんと気づくし、そういう彼の本質を見抜いているからこそ彰や野ブタは信頼を寄せる。あの家族の中で育って、そんなに虚ろな人間になるはずがないのだ。 (中川)
 
■不真面目なのか? いや、真面目なのか
 ラスト前、修二、彰、信子の3人が提出した進路調査用紙を見て、横山先生はこう漏らす。「ちゃんとした大人になりたい」修二、「道端の十円玉」と書いた彰、そして「笑って生きる」と書いた信子。無論、こういう公の場で個人的な思いをぶちまけることは不真面目な行為に映るかもしれないし、「イタい」行為かもしれない。しかし横山先生はこれを「真面目」なのだと思い直す。冒頭での修二のモノローグにあったように、高校生が一週間やそこらで将来のことを決めるなんてまず無理なことだ。だから、彼等はジタバタともがきながら、試行錯誤を繰り返しながら、少しずつ前に進んでいく。確かに時間は限られているが、それを暖かく見守る大人たちに、幸いにも修二たちは恵まれているのだ。(市民)a0048991_21505360.jpg

■大人たちの背中
 冒頭、「俺たちもあんな退屈そうな大人になるのかなあ」と出勤途中のサラリーマンを見つめていた修二の視線はラストシーンでは大きく変化している。そう、冒頭では自分が「大人になる」ことを想像もつかなかった修二だが、このシーンでは「あの人たちも自分と同じように葛藤を抱えていたんじゃないか」と想像している。これは決して妥協でもなければ敗北でもない。ゆっくりとした歩みではあるが、確かな成熟である。(市民)
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by nobuta2nd | 2005-11-24 21:52 | 第6話
2005年 11月 16日

第5話


【今週のあらすじ】

 服装や髪型、外見をプロデュースすることで、見事、虐められっこの信子を大変身させた修二と彰だったが、信子には根本的な何かが不足しているように感じていた。
 周囲のクラスメイト女子と比べ、信子に不足しているものは恋愛経験だと考えた修二は、タイミングよくして信子に想いを寄せるクラスメイト、シッタカの存在を知り、修二のガールフレンド、上原まり子を巻き込んで、ダブルデートを決行するのだったーー。 a0048991_1945544.jpg
 一方、信子に恋心を抱きはじめた彰は、そんなデート作戦がおもしろい筈もなくーー。
 果たして、それぞれの恋の行方は―――!?
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【今週のストーリー解説】

■善良な市民

 前半戦だけで随分遠くに来てしまったなあ、というのが正直な感想。あの原作から、ここまで広がりを見せるとは正直思っていなかったので、これは嬉しい誤算。
 例えば今回描かれた信子の密かな成長がそうだ。
 修二の発案でとりはあえず「男に媚びる小手先のテクニック」を身につけるため、シッタカとデートすることにした信子だったが、結局「好きでもない人と付き合うのは、違うと思う」と自らその計画から降りてしまう。しかし、これは他人に媚びる(合わせる)ことを嫌う成熟拒否ではない。信子の中には、いつの間にか「ただ人気者になれればいい」という狭い世界での自己実現よりも、もっと大きな人間的な成長が視界に入っていたのだ。これってそこらのドラマだったら、この辺りを最終回のオチにして「視野の狭い若者達に大切なメッセージを伝えましたよ」とふんぞり返るところなのだが、なんてったってこのドラマはまだ5話である。まだ山の中腹にしか達していない。
 いじめられっ子の信子は「笑える」ように、満たされているが故に空虚だった彰は「恋」を知り、そして修二は「人の幸せを喜べない奴には、絶対負けたくない」とはじめて思う……。
 前半5話にして、何を目指し、何を求めればいいのかという「はじまり」の物語が一通り完結したかに見えるドラマ版「野ブタ。」。彼ら3人の目的は達成されるのか、それとも……。これからもその着地点を注意深く見守っていきたい。
 

■成馬01

 前回自分の気持ちに気付いた彰が案の定おかしくなっててそのおかしさがかわいくてかわいくて俺は頭撫でてあげたくなるよ(笑)ホント男は恋をすると小学生になるなぁと自分のことをいろいろ思い出し愉快な気分になる。基本は野ブタとシッタカ、まり子と修二のWデートをのけ者にされた彰が遠くから尾行するという話で進み後半は以外な流れに~というもの。演出も変なカット割りやスローになったりとよりトリッキーになっている。
 また今回は今までの一話完結の作りに較べるとオチが弱いというかわかりやすいカタルシスがないが、それはこのドラマが安易に結論を出せない部分に踏み込もうとしているからではないかと思う。また修二がネガティブプロデューサーの存在を意識したりと物語が動き出す予兆のようなものを感じさせる。
 テーマ的な部分はチェックポイントに回すとして今回は三人がそれぞれ均等に描かれてるような気がした。このドラマの構成で俺が予想してたのは前半は野ブタの成長過程を描き、後半は原作ではおざなりだった修二の内面の問題に踏み込むと同時に彰と野ブタが修二を助けるような話になると想像していたのだが、今は三人それぞれが主役と言ってもいうような混沌とした物語になってしまった、と同時にシッタカ、バンドー、まり子などのサブキャラもちゃんと描かれている。 a0048991_19454454.jpg
 これは嬉しい誤算だ。1,2話で感じたような修二と彰のヒーロー性はどんどん落ち着き、逆に一方的な弱者に見えた野ブタは芯にもってた揺るがない強さが大きくなり、むしろ、その強さに修二と彰が影響を受けている。
 それぞれがまだ未熟な10代の高校生でありながら、その限界の中でせいいっぱい最良と思う道をぶつかりながらも模索している、こういうのを青春って言うんだよなぁと思う。


■中川大地

 アヒャヒャヒャヒャ、彰苦しんでる苦しんでるよ! もう嗜虐心そそられて顔ニヤケっぱなし。たまらん、たまらん、たまらんぜ~!!
 シッタカの視線だけで野ブタへの恋心を一瞬にして見抜いてしまう修二が、まるっきりあからさまな彰の方にはお約束どおりベタに鈍感なのも可笑しい。まり子へのもっともらしい台詞と裏腹の彼女の態度へのテキトーさなんかとも相まって、自分自身が当事者になる想いに対しては、無意識に認識がシャットされてしまうということなんだろうな。
 それにしてもまり子、いい女じゃんけんのう! 修二にちゃんと向きあってもらえない寂しさは実はこれまでの回でもさらっと描かれてきていたのだけれど、プロデュース作戦のWデートというかたちで初めて本気でコミットする修二と接して「今日は本当に楽しかったよ……って、届いたかな」と言うあたりは、自分のことをいろいろ思いだしズキンときました(苦笑)。
 あと、シッタカが水族館でのデート中、じいさんを介抱して吐瀉物を手にぬぐった野ブタに触れられて思わず「汚ねっ」と叫んでしまった不作為で、惚れた子の信頼を失って後悔と自己嫌悪に陥るやるせなさとか……。
 というような、これまで風景だったサブキャラたちの心象がクローズアップされた「普通の恋愛ドラマ」としての場面があれこれ心に染みる話でした。
 でもって、それだけにじいさん介抱時に登場した彰がヒーローやって一緒に救急車に乗って、野ブタに「きれいな手だ」と言うあたりのオイシイとこ取りは、やっぱどーも釈然としないトコあるんだよなあ(笑)。はずれ者同士ゆえの聖性とか真実を共有する連帯、みたいなところへの落とし込み方が簡単すぎる気がして。
 いやまあ、ドラマとして当然の予定調和であり、ちゃんと主役が主役として機能する安心感もきっちり感じているのだけど、あまりにも順調にまっとうに成長していく信子と彰が眩しくて、こちらの中のヒネクレ虫が騒いでるだけなんでしょうが……。
a0048991_1946530.jpg そんなわけで、放っておいてもスクスクと育つだろう二人(いや、彰も野ブタも可愛くてしょうがないだから言ってんだからね!)は、やはり僕なんかからするとあくまで主人公・修二の導き役という気がします。このドラマの根幹をなすリアリティや葛藤の体現者は、最終的には修二なのかなと。
 その意味で、ついにネガティブプロデューサー候補(チェックポイント参照)が画面に登場し、第1話ラストのナレーションで示唆されていた「大きな悪意との対決」に向けて物語全体が転回していくターニングポイントなのだと感じさせる演出が随所にあった点は興味深いところ(話数的にもちょうど折り返しだし)。当面の憎まれ役だったバンドーとの決着がひとまず前話で済んでいるし、プロデュース組の屋上ブリーフィング風景までが写真に撮られていることから、修二が今回の信子への中傷ビラ撒きやこれまでの数々の妨害が別の一貫した悪意であることを意識する前提もできているわけで、このへんのシリーズ構成はよく練られているなあと思いました。次回のいかにも一話完結ネタ風にみえる予告がどう裏切られ深まっていくのか楽しみ。


【今週のチェックポイント】

■キャピキャピ感

 クラスの女生徒の甘ったるい声やしなる体を見て野ブタに足りない女っぽさに気付く修二。ここで野ブタの動作が、いかにかわいい女の子の動きからズレたものだったかに気付く。まず全体的に重く、亀みたいにのっさのっさ歩く。
 猫背で下を向き肩を張り大股で歩く。(ついでにスカートの丈も長くやぼったい)冒頭のラブレターを見た瞬間倒れるシーンもドサッて感じで10代の女の子の軽快な感じがまったくない。(でも、この重たい動作の野ブタがかわいいんだよなぁと見ている人は思っているはずだ。理由の説明は不要であろう。) a0048991_19462525.jpg
 当たり前だけど実際の掘北真希は姿勢もちゃんとしてるしグラビアで見る限り身体もしなやかだ。だからこういう細かい動作から演技に入ってたんだなぁと逆に再発見させられた。それにしてもクラスの女子の媚びっぷりを冷静に見てる修二ってのは悲しいなぁ。  (成馬)

■手を握る。

 この回では繰り返し手を握るシーンが出てきた。修二を野ブタに見立て暗に告白する彰や野ブタをリードするため先にまり子と手を繋ぐ修二、あるいは汚れた手ゆえしったかに拒絶される野ブタ。そして救急車の中で汚くないと野ブタの手を握る彰。体を触るという行為は大きなコミュニケーションだが、それぞれの手を握るシーンの意味合いはまったく違っている。  (成馬)
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■噂と相場

 この学校を支配する価値観はわかりやすい強者の権力でなく情報である。生徒の評判はどれだけ好意的な信頼性のある情報を得ているかであり、その人気には相場がありその上下に皆が右往左往する。だからこそネガティブプロデューサーは誹謗中傷のビラをばら撒く、その情報が正しいかどうか?は問題ではなく、不特定の誰かがよく思ってないということが学校では問題なのだ。その威力を知っているからこそ修二は焦り(それはまた修二の武器でもあるからだ)逆に彰と野ブタはあまり動じてないのが興味深い対比だ。この作品は小さな教室という舞台を使いある種の社会を体現しているそして来週の予告を見ると貨幣まで絡むようではないか!
 これではまるで市場経済だ。 (成馬)


■不吉な九官鳥の笑い声

 1話の猿の手、3話の生霊、4話のホントおじさんなど、怪談チックな現象がサブプロット的に絡みつつ(そしてその狂言回しになるのが、人間離れした魔女のような存在感で描かれるキャサリン教頭)、本筋の主題を暗喩的に示して修二たちの気づきを促すガジェットとして機能するのが『野ブタ。』の世界観と作劇の特徴だが、今回は「聞くとクラスに不吉な事件が起こる」という噂の奇妙な笑い声が出てくる。その正体はこれまでのような超自然の怪異ではなく、九官鳥の真似声にすぎなかったことがわかるが、不吉の予感どおりWデートの翌日に学校中に貼り出された中傷ビラ事件で信子やまり子への悪い噂が流れることに。おそらくは誰かの人為による悪意が人々の口にのぼることで、真実から目をくらます信念になってしまう構造を示唆しており、修二がネガプロの存在感に気づく、という伏線だと思われる。  (中川)

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■上原まり子

 上原まり子はいい奴だ、それは彼女が人と人の可視化されたコミュニケーションを疑わない鈍感さから来ている。彼女はお弁当を作り「ありがとう」と心をこめて言えば相手(修二)が喜んでくれると信じている。修二にとって大事なのは表層で心というものを保留にすることで今の自分を維持しているという昔の宮台真司みたいな奴だから、簡単に「心をこめて」と言える、まり子をいい奴だと思えても好きにはなれないのだと思う。噂に対してまり子は「誰か一人だけ本当のこと知っててくれればそれで充分」と修二に言う、だが修二にとって本当の自分を見せられるのはまり子でなく彰や野ブタなのだ。原作ではまり子は追い詰められた修二を聖母のように救おうとするが修二に拒絶される。この二人の関係は今後どうなるか?は修二のホントの姿をまり子が知った時わかるだろう。  (成馬)


■シッタカの映画ネタ

 今回クラスの風景の中から浮かびあがってきたのが、あだ名どおり第1話で修二に「自分には一生関係ないようなテレビの話しかしないやつ」的なモノローグで揶揄されていたシッタカ。彼が水族館で信子に話していたデート会話は映画ネタ。スティーブン・キング原作、ブライアン・デ・パルマ監督の『キャリー』についてだった。
 ハイスクールでいじめられる変わり者の少女が超能力に目覚める復讐劇として有名なサイコ・ホラーの金字塔をここに持ってくるあたり、彼がなぜ信子に惹かれたのかのバックボーンをそれとなく匂わせる描写になっているのと同時に、『野ブタ。』の作品性ともダブらせるメタな暗喩にもなっている。
 だが、深読みするとそれだけでなく、今回ふられたシッタカ自身がダークな方向に行くかもしれない暗示になるかも?という気もするので、今後に注目。  (中川)


■修二-母と信子-父のクロスオーバー a0048991_19473348.jpg

 Wデートのさなか、いろいろ野ブタに気をもむ修二に、「修二君って小谷さんのお父さんみたい」と告げるまり子。信子の「お父さん」といえば、母の再婚相手で幼少期にコミュニケーションに失敗してその後の性格形成の原因になった継父である。
 また、海外に出ずっぱりでなかなか帰ってこないという設定の修二の母ノブコが、第1話以来の登場。しかしずっと寝てばかりで、ろくに修二とのコミュニケーションはとれずじまいでまた海外へ。その飛行機を見送りながら、滅多に会えないからこそ自分のことを知ってくれてる人との絆が欲しくて母と結婚したのだという父との会話で、母の愛称が「ノブタン」だったと知り、修二は驚きながら野ブタのことを思う。
 これが野ブタのことをもっと知ろう、自分が彼女の自然な笑顔を見たいからこそプロデュースをするのだという気づきに結びついていくのだが、修二と信子がお互いにコミュニケーションに不全を感じている親の存在感が重なりあう相手だという構図がほのめかされているわけだ。二人がそれぞれ抱く欠落が、片やキャッチボールのできない心の閉ざしに、片や過剰で空疎なコミュニケーションスキルに繋がっていたという。
 そんな二人ともお互いの存在によって、初期の限界からかなり踏み出して成長してきているわけだが、その必然を改めて図解きして説明する場面なのである(彰はその図式からすると「触媒」なんだな。その無意識の自覚が、野ブタへの恋心への戸惑いに繋がってるところもあると思う)。 (中川)


■プロデュースからキャッチボールへ

 この回で修二は「人気ものになりたくないのか?」と野ブタに問い、野ブタは「(人気ものになって)みんなにありがとうと言いたい」という、そして修二は「俺がお前を人気モノにしたい」と言う。いつしか人気モノになりたいという目標よりも三人の関係こそが大きなものになっている。これがもし最初から友情とか仲間みたいなものを前面に出したものだったら三人は手を組めなかっただろう、ある種プロデュースというドライな関係からはじまり、序々に信頼を築いていったのだ。 a0048991_19475265.jpg
 また「二人にボールを投げてもらうのを受け取るのが精一杯だからいつかボールを投げ返したい」と野ブタは彰に言うが、実は知らず知らずの内に野ブタは二人にボールを投げ返していることが最後に修二が球を投げるシーンでわかる。しかもその球は野ブタへの誹謗中傷が書かれたビラを丸めたものだ。
 その意味でこのキャッチボールのシーンがそのまま、この作品全体を象徴するシーンだと言える。  (成馬)


■キャッチボール

 「会話のキャッチボール」という会話があるように、キャッチボールというアイテムはコミュニケーションの暗喩として使われることが多い。
 最近で有名なのはやはり名作『木更津キャッツアイ』でのぶっさん(岡田准一)と美礼先生(薬師丸ひろ子)がキャッチボールをするシーンだろう。
 ストレス過剰で勤務先の高校で問題を起こし、謹慎処分を喰らって「引きこもり」になった美礼先生を、ぶっさんが元気付けるためにキャッチボールに誘う。そしてボールを追ってキャッチボールを続ける間に、いつの間にか二人は学校にまでやって来てしまう……。そう、ぶっさんはキャッチボールをすることで美礼先生にもう一度学校に戻って欲しかったのだ。
 これに対して「野ブタ。」第5話のキャッチボールは、同じようにコミュニケーションの暗喩として用いられながらも若干ニュアンスが違う。ここではもらったボール(心のこもったコミュニケーション)を投げ返すという行為は、相手の誠意に対等な立場から誠意をもって返すということを意味している。前話で修二からも大切な仲間と認識され、今回、それに応えるために独り隠れて努力するさまが描かれた信子は、今回ようやくボールを投げ返す資格を手にいれたのだ。その手つきはまだおぼつかない。だが、それは大きな第一歩、いや「第一球」のはずである。 (市民)


■だれか一人でもいれば

 世界中を仕事で飛び回る修二の母と、それを見送る父。父は語る。「世界中でたったひとりでも、俺のことをちゃんと知っていてくれる人がいるって思えれば、それでいいんだ」と。また、修二がプロデュースしたWデートでのやらせ演技のせいで、学校中に悪い噂が広まった上原まり子は「修二さえ本当のことを知っていてくれれば、それでいい」と意に介さない。父やまり子の語る「思想」は、学校という期間限定の箱庭での「キャラ」を演出することに長け、その「期間限定の小さな世界」でしか通用しないはかなさを達観して、平気で受け流そうとする修二の思想とは対極を成している。父やまり子の大切にしているものは「永遠」でこそないものの、時間をかけて培った中・長期的な入れ替え不可能性の高い(笑)関係だ。今のところ、物語は入れ替え可能な「キャラ設定」で満足していた修二が、「入れ替え不可能なホンモノの関係」のよさに気付くという形で進行していっている。これからはじまる後半戦、この修二の物語がどういう展開を見せるかは、もっとも注目すべきポイントのひとつだろう。 (市民) 

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■シッタカの失敗

 だが、この「君さえいれば」思想は実は非常に危うい部分を孕んでもいる。この思想はやもすれば少年の自意識の問題を解決するために、ご都合主義的に設定されたオタク好きする美少女にセカイごと彼等を承認してくれるなんていう、どうしようもないマッチョイズム(オトノノコの他者なきセカイ系ロマンス)に墜しかねないからだ。今回、シッタカというオタク少年を登場させ、その身勝手な他者なきロマンスに冷淡なスタンスを見せたこの作品が、それでも「ホンモノの関係」を志向する中でどういう着地点を見せるのかは非常に楽しみだ。それはたとえば修二の父母のような男女の関係として提示されるのだろうか。それとも、学園祭で3人並んで撮ったポラロイドの中に閉じ込められたような美しい関係として提示されるのだろうか。あるいは……? (市民)


■黒いソックスの女生徒

 第2話以来、野ブタのプロデュースを邪魔するネガティブプロデューサーの女生徒のショットがたびたび描かれていたが、今回は黒いソックスを履いた足元が映し出される。
 そしてラスト、野ブタが介抱して助けたおじいさんの孫だという女生徒が、「野ブタ」の初めての同性の友達として登場してくるのだが、彼女もまた黒いソックスを履いていた……。
 果たして今後、視聴者に対する正体探しには幕を引いた上で、この子をネガプロの正体としてキャラクター同士の対立劇に進むのか、あるいはこれをさらなるフェイクとしてより手の込んだミステリーに進んでいくのかも、目が離せない。 (中川)a0048991_19492750.jpg


■「人の幸せを素直に喜べない奴にだけは俺は絶対負けたくない」

 しかし人の幸せを素直に喜べない奴とはどんな内面を抱えた人間なのだろうか?野ブタにしてもバンドーにしてもまり子にしても、ある種の突出した存在で、だからこそ憧れられたり逆に虐げられたりする。だが学校は羨望も侮蔑も無縁のまま古い言葉で言うなら「透明な存在」のまま過ごす生徒がほとんどなのだ。そんな彼女?にとって野ブタはどう映るのだろうか?
前作「すいか」では最終回で唐突に同級生を刺そうとする男子生徒が登場したが、ここまで掘り下げただけに、そういう匿名性の中に埋没しているがゆえの悪意までこの作品は掘り下げようとしているのでないか?と期待させる。 (成馬)


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■悪意、そして「敵」の存在

 今の世の中、なかなか「敵」の見つけるのは難しい。いや、ある種の慎重さを思考から排除してしまえば、簡単に敵を見つけて噴き上がることができる。でも最低限度の繊細さを持ち合わせた人間にそれは難しい。そんな中で『野ブタ。』が前半戦5話をかけてじっくり提示しつつある「敵」らしきものが、修二のいう「人の幸せを素直に喜べない奴」=ネガティブプロデューサー(?)の存在をどう描くかがは、たぶん一番難しいところだと思う。この「敵」が「悪」として描かれるのか、それとももっと別の形を取るのか。そして修二たちは、どう立ち向かっていくのか……。これから後半戦を迎えるこの物語の最大のポイントのひとつだ。 (市民)
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by nobuta2nd | 2005-11-16 19:51 | 第5話
2005年 11月 08日

第4話

【今週のあらすじ】

 年に1度行われる隅田川高校の恒例行事!
 公衆の前で『愛の告白』を行うという『1・1・4 (イイヨ)』の日、11月4日がやってきた。
 信子は、バンドーの嫌がらせから、修二に愛の告白をすることになってしまう。
 一方、修二は信子をプロデュースする立場からか、 a0048991_215154100.jpg
 信子の告白への応えに当惑するのだった――!
 はたして、信子は修二に愛の告白をすることが出来るのか――!?
 そして、修二はどう決断をくだすのか――!?
公式サイト
  

【今週のストーリー解説】

■善良な市民

 それにしても学校というのは不思議な空間だ。「クラス」というせいせい何十人かの共同体の中での、相対的な力関係で「すべて」が決まってしまう。まるで物語の「登場人物紹介」に記されたキャラ設定のように、それは実際の人間関係を強力に規定してしまう。無論、これは学校に限らず、会社だろうが村の寄り合いだろうが、個人的なサークルだろうが、どんな人間関係にも当てはまることだ。しかし、学校という舞台装置が特殊なのは、この「キャラ設定」を通用させるための儀式が、きっちり制度化されていることだ。定期試験、体育祭、文化祭、生徒会役員の選挙……学校におけるすべての行事は無論「ごっこ遊び」だが、その本質はむしろ「キャラ設定」を根拠付けるための儀式として作用するところにある。
a0048991_21522160.jpg その典型例がこの第4話の「114(いいよ)の日」のイベントだろう。
 彼らも高校生だ、おそらく誰一人としてこの「114(いいよ)の日」の効果を本気で信じていない。けれど、彼等はこの儀式の存在を受け入れ、楽しみにしている。それは学校にいるという行為自体が、この「儀式によって根拠づけられるキャラ」を受け入れること=「キャラ売りゲーム」のプレイヤーであることを受け入れてしまうことに他ならないからだ。
 修二たちはこの強力なルールを逆手にとって信子を人気者にしようとし、バンドーはこの強力なルールを使って、周囲の自分に対する視線を裏切ってみたくなる。……これも小さな変化には違いない。

 この第4話は言ってみれば「展開編」だ。これまでの修二→信子の指導する→されるという関係、バンドー→信子のいじめる→いじめられるという(力)関係にほんの少しほころびが生まれ、次の展開を予感させる。
 更に言えば彰は信子への恋心に気付き、信子はバンドーに対する敵意を昇華させる。そして、修二ははじめて「仲間」を思いやる気持ちに目覚める。
 そして注目すべきは、この変化のどれもが、「学校」という小さな世界を支配する「キャラ売りゲーム」のルールから逃れる方向へと作用していることだ。信子を庇った修二とバンドー、敵対者に理解の目を向け始めた信子……そのどれもが、修二の会得していた「平坦な戦場を生き抜く知恵」の外側にあるものだ。 第4話にして予想外の射程の広がりを見せる「野ブタ。」。これはますます見逃せない。


■成馬01

 前3話に較べると話が弱いが登場人物たちの細かい描写や設定が多く(特に彰が空手が得意だというのには何故か笑った)今後の人間関係の伏線がバラかまれた回になったと思う。
 その意味で「野ブタパワー注入」のような単純に好きなシーンが多い。

 話自体は無理やり野ブタが修二に告白せねばならなくなり、全校生徒の目前で大恥をかかされてしまうのを、どう防ぐのか?というのがメインの筋なのだが。今までと大きく違う点がある、それは悩むのが野ブタでなく修二で、つまりクラスの人気モノの地位を守るか野ブタと彰の関係を選ぶか?という葛藤こそが問題だという点だ。 a0048991_21524942.jpg
 実は野ブタの物語は2話で終わっている。状況はあまり改善されていないし小説のように外見が綺麗になったわけではないが「自分は変わる」という硬い決意を野ブタは2話で獲得していて、以降は不器用ながら一歩づつ歩んでいる過程を見せているにすぎない、今回の野ブタパワー注入のシーンはその極めつけだ。逆に「野ブタと彰」or「クラスの人気モノ」という板ばさみで悩む修二に少しづつ視点が移っていて物語の作りは野ブタがどう切り抜けたか?ではなく修二が何を選ぼうとしたか?という手帳に書かれたあみだクジの結末と3人の写真こそが真のクライマックスとなっている。
 また前回見ていて印象的だった修二の底の浅さが更に強調され逆に彰と野ブタは殴られているバンドーをかばったりと外れもの故の強固さを見せている。
 多分今後は修二と野ブタの二人の比較で物語は進んでくと思うがどうなることやら。
それにしてもあんな誕生日祝いしてほしかったなぁ。


■中川大地

 もうダメッ。野ブタかわいいよ野ブタ!
 ……と、ちょうどこの回の放映日11/5が映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の公開日で、堀北真希が集団就職で上京した田舎娘を好演していたのを観たばかりだったから、地味だけど芯の強い、イマドキから距離のある子の役のうまさを実感したばかりだっただけに、「野ブタパワー、注入」には完璧やられました。。。
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 成馬さんご指摘のように、確かにもう信子のイジメ克服話自体は、すでにほぼアガリになってしまってるんですよね。いまや修二やバンドーを逆に変えてしまう、主体的で魅力あるヒロインにすっかりなってて。あと、彼女を見る周囲の目もだいぶ違っていて、「1・1・4の日」の告白者に挙がっても誰一人「野ブタのくせに」的な嫌悪をみせることなく、隠れ美人で服のセンスもいい学園のアイドルまり子への対抗馬として、純粋に野次馬根性や好奇心を寄せている。
 で、挙げ句の果てに信子自身がバンドーに対して、「私もクラスで浮いてるけど、あなたはもっと浮いてる」という状況を諭すという始末……。たしかに高校生にもなって同級生の誰かを殴る蹴るでイジめるような、しかも女の子なんて、まわりから相当距離を置かれるだろうし(というか第2話の時点であからさまなイジメには普通のクラスメイトは眉ひそめてましたね)、別に野ブタ自体が最初から嫌われていたわけではなく、バンドーみたいな粗暴なやつと関わり合いになりたくないから放っておかれてただけなんだろう、という図式が見えますね。そのへん、物語のメインプロットとは別に、さりげなくも入念に演出されていると思いました。
 また、メインプロット上も、2話では修二の会心のアイディア(ペンキ文字流行)主導で、3話では修二の苦し紛れの功労(バイト依頼)と偶然(生霊)と信子のアイディア(鏡のメッセージ)が等分にはたらいて転換と解決に繋がっていたのが、今回は完全に信子主導での問題解決だったし。

 反面、ヒーロー化しつつある彰の描写はいまいち乗り切れなかったところ。当初からウザイはずれ者的に説明されていながら、実際の描写としては周囲に流されない、かといって大した抑圧もないオイシイ立ち位置の不思議ちゃんでしかなく、そのうえ財力もあって腕っぷしも強いというのは、なーんか許せんなあ(笑)。もう野ブタへの恋でいっぱい悩め、苦しめ。
 一方では、どんどん追いつめられてゆく修二に感情移入。がんばれ、彰の「天然だけど人の気持ちがわかる」キャラに喰われるのはまだ早い! もっとノリつつシラけ、シラけつつノりながら、ひねた自意識とスキルにだってここまでならできる、という限界線をきっちり見せてくれるよう、期待。



【今週のチェックポイント】


■「1・1・4の日」イベントと恋愛の相対化

 これまでも「アフリカの子供」や「生霊」といった外的要素を契機に学校内のローカルなルールや価値観を根底から見直して土俵をずらしていく、というのが本作の事件進行のカタルシスだったわけだが、今回は「告白」と「交際」の儀式に縛られた恋愛ボケの制度を、野ブタの勇気がバンドーとの関係転換の場に転じる展開。結果、恋愛という物語を信じられない修二のキャラと、なまじ人並みに恋愛関係の体裁に縛れられるあまり彼氏から暴力をふるわれるバンドーと、まだ恋愛を介在させる準備のできていないプロデュース組3人のモラトリアム関係を救ってみせる。 a0048991_21534270.jpg
 あくまで周囲の押しつけるルールに乗って花を降らそうとした修二の内心の選択も、確かに「本当に大切なものに気づいた」彼の成長の証としてはアリだったけれど、恋愛という関係性への準備ができていない修二・信子の間で実行することはやはり不幸な結果にしかならなかったはず。だから修二の側も、このイベントの選択をいかに異化してズラして転ずるかを考えるべきではあっただろう。  (中川)


■セバスチャンの失恋 (1)

 序盤の方で、木村祐一のセバスチャン先生の見合い相手が学校にやってきて、何やら言い合いの末ふられてしまう顛末が描かれる。当然セバスチャンの方がしつこく言い寄って一方的にふられたのかと思いきや、母か彼女かの二者択一を迫られ、ハグレ者だった自分を唯一認めてくれていた母の方が大事だと愚直にも答えてしまったゆえのことだったと修二に語る。
 周りの生徒はそんなセバスチャン先生の選択を、女の前ではウソでも彼女の方を選んでおくものだと馬鹿にするが、理不尽な選択の強制を、自分の心を偽らずにする、という伏線が張られると同時に、必ずしも恋愛ばかりが優先すべき事項ではない、というモデルの呈示にもなっているあたりも、ありきたりを超えた注目点のひとつ。  (中川)


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■セバスチャンの失恋 (2)
 お見合い相手にマザコンを責められ、振られてしまったセバスチャン。「自分の親が好きで何が悪いんだ」と漏らすセバスチャンを、修二はじっと見つめる。これは無論、最終的に信子のために自分を犠牲にすることを選ぶ修二の決断への伏線である。修二は学校を支配する「キャラ売りゲーム」の価値観の外側に、大切なものがあるのではないかと感じ始めているのだ。(市民)


■彰の恋

 今までは野ブタや修二に較べて飄々として掴みづらかった彰の見せ場が今回は多かった
 バンドーを殴る彼氏を殴り、修二に水をかけるなと瓦割りセットを一式もって修二の家に行き瓦割りをして脅す。そしてホントおじさんにつめよられて、はじめて自分の気持ちを発見する彰。自分の気持ちに気付かず行動していたのがが男の子っぽくはじめて俺は彰を身近に感じた。特に恋愛に関してこのように鈍感な男の子は多いのではないだろうか?
 彰は恵まれた境遇ゆえに修二や野ブタのようなある意味で過剰な内面は持ち合わせておらず人間関係に無頓着でその悩みの欠落からそこにこだわり悩む二人に自分にないものを感じ近づいたような気すらする。
今回、彼は自分の欲しいもの大切なもに気付いてしまった。
 それは楽しいことだけでなく辛いことの始まりでもあるわけだけど彼はどう変わるのか? (成馬)


■「気付き」の物語

 俺が思うに「野ブタ。」は「いかに気付くか?」の物語なのではないか?と思う。
 それはゲーム的な桐谷修二の切り抜け方(今回はまったく出番なしだけど) の部分だけではなく、2話の感想で中川大地さんが指摘した外部の問題もそうだ。自分を取り巻いている世界が全てでないこと、自分の中にある気持ちに気づくこと、自分にとって大事なものに気づくこと 野ブタは自分の中の野ブタパワーに気づき彰は野ブタへの恋心に気づき、修二は大事にしたい仲間の存在に気づいた。 a0048991_21543993.jpg
 物語にはつねに小さな発見があり、その発見の数だけこの世界は豊かになっていく。 だが気付くという面には良いことだけではなく辛いこと悲しいこともあるのではないか?
 例えば彰は野ブタへの自分の気持ちに気付いたけど他の二人はどうなのだろうか?
 ラストの彰の気持ちの気付きが幸福なトライアングルの破綻を予感させ不安にさせる。でもその不安も含めて世界を肯定したいと思うような終わり方をしてくれるだろうと俺は期待している。 (成馬)


■彰のホワイトバンド

 第4話にはホワイトバンドを装着し「愛と、勇気だけが友達さ」とアニメ「アンパンマン」のテーマを熱唱する彰が登場する。「ホワイトバンド」と「アンパンマン」。無論この二つは「偽善」または「しらじらしい善意」の記号だ。しかし第1話から明らかなように、「野ブタ。」の世界観はベタにこのような「偽善」的パフォーマンスを肯定するわけでもなければ、冷笑的に糾弾するわけでもない。a0048991_21573485.jpg
 むしろ金持ちの息子として生まれ、「何をやっても楽しいと思ったことがない」と語る彰にこれらのアイテム(「愛」「勇気」「世界平和」)を装着させることにより、この種のアイテムを(肯定するにせよ否定するにせよ)パフォーマティブに消費するしかない僕等消費者の現実を確認しているのだろう。勿論、そんな彰がただひとつ得ている(偽善ならぬ)確かなものが何か、ということはこのドラマのテーマに直結していく。 (市民)


■本当のことを教えてくれ!

 第4話で登場する「本当おじさん」。突然現れて「本当のことを教えてくれ」といいながら人を追い回す怪人だが、この怪人の出現により第4話のオチが綺麗に決まることになる。
a0048991_2155976.jpg「本当のことを教えてくれ」と連呼しながら校長を追い回していた怪人は修二たちに激突。結果、3人のお揃いの「野ブタ手帳」が入れ替わってしまう。その結果、信子は修二の本心を知り、修二は自分が信子と彰を大切に思い始めたことを再確認する。まさに「本当のことを教えに」怪人はやって来たのだ。 (市民)


■修二の変化 a0048991_215742.jpg

 第4話ではイマイチ影の薄かった修二だが、ラストでなんと自分の「クラスでの美味しい位置」を投げ捨ててでも信子をかばうつもりだったことが判明する。つまり、この「キャラ売りゲーム」を最も熟知し、その恩恵を受けてきた(がために視野狭窄になりかけていた)修二が、「キャラ売りゲーム」の外側にも価値があること、教室の外側にも世界があることに気付き始めたのだ。もっともゲームに耽溺していた修二が、今、ゲームのルールに拠らない場所で、変わろうとしている。 (市民)


■戦メリ戦法
  
「戦メリ戦法」とは敵対する相手にいきなりキスして戦意を喪失させるテクニックのことで、漫画家・吉田秋生の『河よりも長くゆるやかに』に登場する。a0048991_2156992.jpgなんで「戦メリ」なのかというと、大島渚監督の映画「戦場のメリー・クリスマス」で主人公の米兵捕虜・ロレンスが、彼を虐待しようとする敵の日本軍士官・ヨノイに突然キスして周囲を驚かせるシーンに拠っているからである。ここでロレンスは、自分に敵意をもつヨノイに、無防備に自分をさらし、自分には敵意がないことを示すことで、ヨノイの敵意を解除することを試みたわけだ。 a0048991_21562595.jpg
 この第4話で信子がバンドーに対して取った戦術は、まさしくこの「戦メリ戦法」と言える。
 「信子以上にクラスから浮いている」バンドーにとって、戦メリ戦法を取りいきなり「自分に敵意を向けない無防備な存在」として出現した信子は、その生き方を揺らがせるに充分すぎるほど衝撃的な存在に思えたに違いないのだ。 (市民)

■変わるの意味

 野ブタは「人って変われますよね」と言うが、この変わるの意味は小説版とドラマ版ではかなり違う。
 小説版の変わるは言うなれば本当の自分なんて入れ替え可能だよっていう意味で服装を変え清潔にすれば気分も周りの見る眼も変わるっていう表層的なものが全てを決定するって価値観で、それは人間関係も含めて全てが可視化されていく現実をうまく捉えているという評価はできないことはないが、対してドラマ版はそれでも見えないもの気付いてないものがあるんだよと追求する。
 だからこのドラマにおいて「変わる」というのは自分の中にある強さを発見する、見つけるという意味合いが強い。   (成馬)
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by nobuta2nd | 2005-11-08 21:59 | 第4話
2005年 11月 01日

第3話



【今週のあらすじ】

 いじめられっこの信子は、バンドーの嫌がらせで、年に一度、開催される文化祭の実行委員に指名されてしまう。  一方、信子をプロデュースしようと決めた修二と彰は、多数決で決まったお化け屋敷を成功させることが、信子を人気者に変えるチャンスになると考え、協力する。
 非協力的なクラスメイトを尻目に、信子は必死にお化け屋敷の作り物をこなしていく。
 果たして信子は文化祭を成功させ、人気者になることが出来るのか――!?
公式サイト


【今週のストーリー解説】


■善良な市民
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 文化祭の魅力って何だろうか。
 たぶん、それは「一瞬で終わる」ことだと思う。
 一瞬で終わる「ハレ」の場だからこそ発揮されるエネルギー……それが非日常の快楽をもたらすのだ。
 この第3話のテーマはそんな「非日常」の快楽だ。陳腐な言葉を用いるのなら、「青春」と言い替えてもいい。

 冒頭、いじめっ子たちに文化祭の準備を押し付けられた信子は「どうせなら楽しみたい」とお化け屋敷作りに夢中になる。しかし味方は修二と彰だけ。その上八方美人の修二は他の用事に時間を取られてしまい、なかなかお化け屋敷を手伝うことができない。一方の彰も「俺、今まで楽しいって思ったことないんだ」と口にする始末だ。しかし、そんな彰に信子は言う。「きっと楽しいことって、後から気付くんだと思うよ」――楽しい思い出というものは、それが通り過ぎてしまってから気付くと信子は言うのだ。

 文化祭という非日常の快楽を支えているものは、まさにこれなのだ。一瞬で終わるものだからこそ、そこには「他では得られないもの」という価値(=入れ替え不可能性)が発生する。

「野ブタ。」第3話は「青春」のメカニズムについて鮮やかに表現した回だと言えるだろう。
 

■成馬01

a0048991_23303925.jpg 俺は文化祭を舞台した話が大好きで、特にお化け屋敷は昔やったことがありいろいろ思い出し楽しかった。だが1,2話に較べると、楽しいだけで話が弱いかなぁと思っていたらラスト間際、バイトに誘った三人の生徒の正体が判明する所で今まで無意味に見えた要素が全部つながり主題が浮かび上がるというアクロバテックな仕掛けになっていた。
 こんな構成をよく思いついたものだと感心する。  

 今回のテーマはおそらく二つ。
 一つはモグラの挿話にもあるような「偶然の凄さ」とでも言おうか?
これは偶然を無意味と置き換えてもらってもいい。
 あらゆることは偶然でそこには意味はない。野ブタがいじめられているのも修二や彰と関わってるのも特に明確な理由があってのことではない。
 言うなれば、その偶然の不条理に野ブタは今まで苦しめられてきたとも言える。でも関わってしまった以上、後で楽しかったと思い出したい、そうやって引き受け向き合った瞬間ありふれた文化祭や人間関係は何倍も素晴らしくなる。そんな野ブタのひたむきさを見ていると意味は初めからあるのでなく積み上げていくことで生まれるものなのだと思わせてくれる。

 もう一つは三人の関係の小さな変化とその対比だ。お化け屋敷をやりとげた彰と野ブタに対して一日中走り回ってた修二、不器用だからこそ、一つ一つを濃密な体験として受け取め成長していく野ブタ、器用で要領がいいからこそ不器用な修二、そして天然の彰(笑)。
 修二に器用なだけで自分は何も生み出せないんじゃないか?という二人に対する小さな負い目が生まれる。今回彰と野ブタと修二は別行動だったが今後、修二と二人の距離が開き修二が置き去りにされるのではないか?と不安を暗示させる。
 正直、修二の話はまだ先だと思ってたので予想外だった。
 来週は野ブタの恋愛話っぽいけど、どうなるものか?


■中川大地

 今回もまた、テーマやストーリーの読み解き以前に、現実にはありえないご都合主義的なギミックや一部キャラの小ネタの寒さやアイテムの無茶さ、それに怪談的な超常現象というファンタジックな要素と、人間ドラマのリアリティとの接続具合が微妙で、入れる人とそうでない人がハッキリ分かれそうな度合いがさらに高まった感じ。
 自分に関しては、正直ちょっとこなれないなと感じました。たとえば『木更津キャッツアイ』などでは、画面をフィルム調にしたり絵作りや映像演出をわざとらしい様式でまとめることによって、「この世界ではこれはアリ、これはナシ」という暗黙の「律」を視聴者に直観的に伝え、「こんなのありえねえよ」という疑問につまづくことなくテーマやプロットの面白さに入れたのですが、そうした作品のリアリティを支える「律」構築の演出がどうにも中途半端で散漫な気がしました。なので、彰や信子の達成感にも、それを味わえなかった修二の引け目にもすんなりとは共感していけず、ちょっと辛かった。最後のキャサリン教頭の「いい文化祭でしたね」という台詞が全然ピンと来なかったし。
 ただ、その寓話・ファンタジーとしての「律」がはっきりしない散漫で雑駁な印象こそが、クラスでの文化祭企画に打ち込むやつとそうでないやつの温度差や、学校内の異なるしがらみで引っ張りだこにされてバタバタしてる修二の落ち着かなさの印象を支えて、あえて安易な文化祭ロマンに落とさない乾いた虚しさの演出につながってるような気もするので、現状での評価は避けたいと思います。 a0048991_23315048.jpg


 で、長い前置きの末にようやくストーリーテーマ的な部分への感想。はじめ同窓生の三人がなんで幽霊でなく生霊なんだ?と首をかしげてしまったのですが、「楽しかった思いは時間を置かないとわからない」という信子の台詞に呼応していたことに、だいぶ時間を置いて気がついて納得(笑)。ただ、前回の体操着の件での発想転換に比べるとちょっと通俗的かな、とも。
 ともあれ、これで2~3話と、(1)「修二たちが協力する信子プロデュース企画」→(2)「信子を陥れるネガティブプロデューサーの妨害」→(3)「修二たちの想定外の『外部』的な転機による思わぬ問題解決」というパターンが続いたわけですが、これがフォーマット化するのかな?
 あと、今回は信子が最初から前向きなので、一応の本線であろう信子の成長過程を見せることによる「イジメ克服」モチーフが後退した部分は食い足りなかったところ。おそらくドラマ的には、信子本人よりも、今回だいぶ修二に放って置かれるかたちになったマリ子が伏線として利いてきそう。「イジメ克服」との関係の中での恋愛話という点で、『シガテラ』なんかのリアリティとどんな比較ができそうかなども楽しみ。



【今週のチェックポイント】


■視線の多様性

 本作が持つ豊かさは、その視線の多用さだ。例えば文化祭を描くにしても渦中にいる三人のひたむきな視線と、もうそこは過ぎてしまった先生や教頭、あるいは卒業生の郷愁の目線が交差した時、ありふれた高校の文化祭はとても豊かなものに思えてくる。こうやって外部と内部の様々な角度から見せられる時、一見つまらない日常も何倍も豊かなものだったのだと再確認させられる。同じものを見ていてもそれぞれ違うものを見て考えているものなのだ。 (成馬01)


■文化祭という制度

 文化祭っていうのは結構残酷な装置だ。主役になれるタイプ、自分で楽しみを見つけられるタイプの人間は思う存分楽しめるが、そうじゃないタイプはフォークダンスの輪から外れて「ケッ」といじけるしかない。ただ、輪に素直に入れない人たちにも言い分がある。文化祭なんて所詮「クラスの中心にいる主役たち」のために存在して、「クラスの隅っこにいる僕等」は脇役にしかなれず、貴重な個人の時間を割かれるだけだというのだ。この言い分には一定の説得力がある。

 では「野ブタ。」ではどうだろうか。a0048991_23311895.jpg
 ここではいじめられっ子の信子が文化祭の主役に抜擢されるという「ねじれ」がまずある。
 彼女に味方する修二は、最初はクラスメイトを焚きつけて準備を手伝わせようとするが早々にその路線は放棄する。ありていな青春ドラマみたいに「義務」や「責任」を訴えて「準備を手伝え!」とは決して言わないのだ。
 そして、替わりに、文化祭の見物に来ていた3人組を「文化祭を体験させてやるよ」とオルグして来る。
 つまり、修二は文化祭(のような非日常への動員)のもつ暴力性を十二分に自覚していている上に、それを補う動員のテクニックを熟知しているのだ。

 たぶん、修二はフォークダンスの輪に入れず、いじけている少年達を誘うときに「お前等も入れよ」とは誘わない。彼等はあの輪の中で自分達が主役になれないことを知っているから、輪の外にいるのだ。 
 そして、おそらくはこう誘うだろう。
「お前等がいないとどうしてもダメなんだ、ちょっと裏方手伝ってくんねーか」と、彼等を誘うに違いない。彼らが「主役」になれる場を提供すること……教室の人間関係をメタ視する「プロデューサー」桐谷修二ならではの発想である。(善良な市民)


■生霊たち
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 そして修二がオルグしてきた3人組だが……彼等は文化祭は「送り手」に回るのが面白いことを熟知していて、修二の誘いに二つ返事で乗る。そして終盤、彼等の正体は過去の卒業生たちの「生き霊」だということが判明する。現在、堂々たる中年となった彼等は日々の仕事に忙殺される余り、「あの頃に帰りたい」という思いが生き霊となって母校に出現したのだ。夜中に校舎に忍び込んで、自分の落書きを確認しに来た本屋の主人といい、この第3話では青春と言う特別な時間の入れ替え不可能性が再三反復される。 (善良な市民)


■モグラの喩えと出口のメッセージ
 
 そしてもうひとつ。青春の「入れ替え不可能性」の根拠となるものが、劇中で彰が口にする「モグラの喩え」が示すものだ。モグラは普段地中に単体で暮らしていくが、発情期になると異性を求めてひたすら動き回り、そして偶然遭遇した異性と結ばれるという……そう、「今、この」瞬間を特別なものにしているものは一期一会ともいうべき出会いの奇跡なのだ。それは一瞬で終わるものかもしれない。しかしだからこそ「入れ替え不可能性」を確保することができるのだ。a0048991_23175760.jpg
 信子は自分達が置かれている状況がどんなに貴重なものか、察したのだろう。お化け屋敷の出口に、今、側にいる人との出会い、一期一会の奇跡の素晴らしさを訴えるメッセージを残す。 (善良な市民)


■プロデューサーという生き方
  この第3話は、器用で八方美人、コミュニケーションスキルに長けた修二よりも、不器用でぱっとしない信子や彰の地道な努力の方が実を結んだことに、修二がショックを受けるという終わり方をする。
 たしかに、原作の修二は自らのうわべを繕う力に溺れて、内実のある人間関係を築くことを疎かにした結果、手痛いしっぺ返しを喰らう。だが、このドラマはそんな修二に少し優しい。物語のラスト、「自分はうわべだけの人間だ」と自己嫌悪に陥る修二に、彼の弟は言う。お兄ちゃんは決して悪い奴じゃない、と、お兄ちゃんもいないとダメなんだ、と。確かに修二の力は今回の文化祭でも大きく貢献している。だが修二自身はそのことに気付いていない。彼もまた「通り過ぎてみないと」それが楽しいことだったと気付かない段階にいる少年なのだ。 (善良な市民)


■修二の弟、信子の継父

 今回はそれぞれの二人の家庭バックグラウンドを示唆する新しい家族が一人ずつ登場。修二弟は、兄の裏表ある器用さを観察・告発し、自分の空虚さに向き合わせる役割ながら、信子プロデュースの約束だけは頑なに守るあたりを素直に褒めたりする。
 信子継父は、「僕は君のお母さんと結婚したけど君のお父さんじゃない」と、幼少期の信子に言ったことで彼女の今につながる性格のトラウマ源になったと示唆されながら、彼女を気遣って文化祭に差し入れを持ってくるなど、不器用なだけで決して悪い父親ではない。 a0048991_2332937.jpg
 どちらも関係性が多面的で、修二・信子それぞれが抱える問題を安易に家庭環境に還元せず、コミュニケーションの努力も普通に行われているというあたりは、この作品の良いスタンス。それは、決して作劇が暗さに引きずられない前向きさであり、世の悩みが決してあからさまな悪意や問題のせいで生まれるとは限らないという真理でもあろう。 (中川大地)


■ビューティフル・ドリーマー

 学園祭という「非日常」の快楽を扱った作品とえいば、やはり『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』の名前を忘れるわけにはいかない。
 高橋留美子による原作漫画は「時間の流れの止まった、永遠のラブコメ空間」を描き、当時のオタクたちに男女を問わず圧倒的な支持を受け、その現実逃避的な想像力の源泉となった作品だった。
 これに反抗したのがテレビアニメ版の監督だった押井守だった。押井は高橋が「終わりなき日常」を永遠の楽園として描くことの欺瞞を告発した。それがこの映画『ビューティフル・ドリーマー』だ。
 物語は主人公たちが通う高校の文化祭の「前日」。彼らはいつものように楽しくバカ騒ぎしながら文化祭へ盛り上がる気分を満喫するが、ある日、登場人物のひとりが自分たちがもう何日も知らず知らずの間に「文化祭の前日」を繰り返していることに気付く……。a0048991_23363212.jpg

 無論、この「永遠に繰り返す文化祭の前日」とは原作版「うる星やつら」の作品世界と、そこに現実逃避するファンたちのライフスタイルのことである。そして、物語は主人公たちがその「永遠に繰り返す文化祭の前日」から脱出を試みるという形で進行する。そう、ここには押井の高橋的な世界への懐疑が込められているのだ。では、その懐疑とは何か? それは本稿をここまで読み進めたみなさんにはもうお分かりだろう。
 そう、文化祭は「終わる」から、「二度と戻ってこない」からこそ楽しいものなのではないか? 押井は「終わらない文化祭」に逃避する若者たちにそう問いかけたのだ。
 そして、押井はこの懐疑をヒロインが主人公に「責任とってね」と告げる(楽園を放棄して、成熟に向かうんだよ、と告げる)ことで示している。随分と悪趣味だが、そのパンチ力は凄まじい。 (善良な市民)
 
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by nobuta2nd | 2005-11-01 23:37 | 第3話