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2005年 12月 22日

第10話


 公式サイト



■善良な市民
 前話(第9話)で「ラスボス」蒼井かすみとの決着がつき、最終話(第10話)は拡大枠でじっくりと3人組の時間の「終わり」が描かれる。父親の転勤で修二は学校から去り、彰と信子はそれを受け入れて次のステージに進んでいく。そう、「野ブタ。」の事実上の最終回は第9話であり、この第10話は「次」へ行くための回なのだ。この物語を通して、「世界のすべてを恨んでいるような」存在だった信子は「笑えるように」なり、教室の中のキャラ売りゲームにしか関心のなかった修二は、そのゲームの限界を知り「どこへ行っても生きていける」という確信を手に入れる。楽しく、美しく、特権的な時間は終わりを告げたが、それと引き換えに彼等は「次」へ行くための武器を手に入れたのだ。 a0048991_239437.jpg
 少し突っ込むと、このドラマの主人公はやはり修二だったのだと思う。そう、これは冒頭、教室の中の小さなゲームの有能なプレイヤーにすぎなかった修二が、物語の最後では世界に無数にちらばる「小さなゲーム」のどれに参加しても「生きていける」(「勝てる」ではない)ようになるまでの物語に他ならない。前回までのようなスリリングな展開を期待していると肩透かしを喰らうが、今回はいわばこれまで観てくれた視聴者に対するサービス&総まとめだ。じっくり味わって感慨に浸って欲しい。

■成馬01
 本筋の話は前回8,9話で終わっていて、この回は後日談という感じで終始おだやか。
前回までの緊張感を覚えてるとあまりの平和加減に拍子抜けするが むしろここに木皿泉はたどり着きたかったんだろうなぁと最後の幸福感を満喫しながら思った。
 多分大方の視聴者が「?」と思うのは修二の転校先に彰が付いてきたことで、「いいの?」と思っただろうけど、かつて修二と彰が居た机がポツンと残る教室と一人になった(正確にはまり子と歩いているのだが)野ブタを見て、一瞬修二と彰は最初から居なかったというオチなのか?と疑った。もちろんそんなことはないのだが、彼ら二人は大島弓子がよく描いてたような10代の何もない不安な女の子にとっての架空の王子様のような存在だったのかなぁと思った。
 まぁそれは若い視聴者にとってのアイドルなのだが、最後の最後で正しいアイドルドラマへと帰還したなぁと思う。そしてラストの「俺たちは何処ででも生きてゆける」というモノローグを聴いて「あぁ平坦な戦場から、やっと此処まで来たんだ」と納得した。
a0048991_23101883.jpg それにしてもラストの廊下を走る野ブタのカットから海辺の修二と彰のシーンへの流れはすばらしい、つい脚本の言葉の良さに関心が行きがちだけど、それをうまく咀嚼した演出のすばらしさも、この作品を支えた要因だったんだなぁと再確認させられた。 とにかく幸福な「お別れ」であり最終回だったと思う。

■中川大地
 映画や小説に比べて、民放連続ドラマというメディアのどうにもツラいところは、リアルタイムの視聴者の反応が、物語の要請とは関係なしに表現の枠が、内容や尺の面で大きく影響を受けてしまうこと。下手に人気が出たために、物語的にやることが残っていないのに「最終回○分拡大スペシャル」にせざるをえなくて、各登場人物への「キャラ萌え」だけが目的の不要なエピソードを延々つなげている感は否めず、伏線と主題と演出が緊密に設計されていた『野ブタ。』の構成美に魅せられていた身としては、最後にちょっぴり残念な気分にさせられてしまいました。まあ、話自体は前回で決着がついているし、あとはこれまで応援してくれた視聴者に向けて余韻を提供するファンサービスとしては充分に役割を果たしてるんですけどね。a0048991_23105265.jpg
 ただ、『木更津キャッツアイ』が最終回でも「いつも通り」を踏襲しつつ、きっちり練り込まれた仕掛けで最後の最後まで主題的・演出的なテンションの落ちないさまを見せてくれたことを思い起こすと、その水準を超えられなかったという点では不満は不満。もっとも、『木更津』と同じく第9回を事実上の最終回と考えて今回は『日本シリーズ』みたいなオマケと考えれば見劣りしないで済む……なんて考えてしまうのは我ながら贔屓の引きだおしも過ぎるか(笑)。
 しかし、すっかり健気で可愛い不器用キャラとして上がった野ブタ、順当に優しい気配り屋に大成した修二に比べ、あくまで子供チックな快楽原則で最後のワガママを通してしまう彰をオチにしてくれたことは、寂寥感一辺倒にならずに彼らがまだ成長途上な青春のただ中にあるってことで良かったのじゃないでしょうか。信子はそして、修二と彰(とかすみ)を媒介に、教室内の空気に流されないまり子という最強の青春アミーゴを得て。
 屋上から3人が眺めてきた空は、一貫してずっと黄昏のオレンジ色だったけれど、旅立つ日の後は抜けるような青空をお互い見上げ合う絵が、すごく綺麗なラストだった。


【今週のチェックポイント】

■サンタの夢
 冒頭、夢の中でサンタに欲しいものを尋ねられた野ブタが、自分は欲しいものがないから修二に振り、次は修二の夢に出てきたサンタを彰の方へと振るが、彰は思わずカレーパンと口走ってしまう。案の定、その話をしていた直後に商店会の催しでサンタの格好をしていたおいちゃんがカレーパンを持ってくるあたり、お互いの夢が通じ合って実現化する前回のブタのお守りの効果が続いている(?)わけだが、そこでバトンを野ブタに回して綺麗に「友情の円環」と作らなかった彰が責められて二人に速攻で帰られてしまうのが可笑しい。このあたり、後のクリスマスでのプレゼント交換の伏線……というほどでもない前フリである。(中川) a0048991_23112045.jpg

■下の名前を覚えてもらってなかった彰
 屋上に呼び出した修二と野ブタへの彰の改めての頼み事が、「下の名前で呼んで」。で、「下の名前って何?」というお約束すぎる修二(笑)。ここで最終回にして初めて野ブタに名前で呼んでもらうわけだが、「アキラッッ!」と怒ったような不自然でぎこちない発音になってしまうあたりの萌え設計はあざとすぎるだろ演出ッ!! とにかくこの最終回、実はなにげに全編にわたってアキラッッ!のヨゴされっぷりが際立っている。(中川)

■不発のドリカム状態
 この仲良し3人組はいわゆる「ドリカム状態」にある。彰は信子が好きなのだが、7話以降の描写を考えると信子が好きなのは明らかに修二の方だ。これはサークルクラッシュを期待させる(笑)展開なのだが、勿論本作では不発に終わる。この最終回でも、お守りをどちらに渡すかで迷った信子は結局どちらにも渡さず川に投げ捨ててしまう(その直前に彰に譲ろうとする修二もポイント)。これは後半、恋愛がこの「美しい関係」(笑)の終わりをもたらすものとして描かれている(彰が恋心に気付くことで関係が壊れかけて、諦めることで持ち直す)ことを考えると興味深い。彰も信子も、恋愛に鈍感なのではなく十二分に自覚していながらもそれをあえて引っ込めているのだ。a0048991_2312426.jpg恋愛よりも大切なものがあるのだとでも主張するかのように、3人のドリカム状態は壊れることなく終わりを迎える。……まあたしかにここで三角関係でドロドロしたら、一生の友達にはならないだろうけどね(それはそれで青春だけど)。 (市民)

■3人の打ち明け話
 おいちゃんの家で、「あのさ」と同時に真情を告白しようとする3人。野ブタは、突撃レポートで人気者になるのがいい加減辛いのでそれを辞めたい、と。彰は、一度はぬか壷に封印して忘れようとした修二を後ろから抱きしめる野ブタの件を、やっぱり訊ね直そうとするが、壷の中からなかなか写真が見つからない。そして、それを彰が探す間に修二は、年明けには転校して皆とお別れになることを話す。ショックで飛び出す野ブタを彰は追い、公園で悲しみに暮れる野ブタの背を、あの写真のシチュエーションと同様に抱きしめられる位置まで来るのだが、ついに彰にはそれは出来ず、彼女にマフラーを巻くだけに終わる。
 思えばここでその背を抱いて彼女の中に踏み込み、残される二人の世界を築くという選択が可能なだけの成熟を彰ができていなかった時点で、彼がラストにああいう行動をとるのは必然だったのである。(中川)

■プロデュース成功?
 お昼の放送番組が決定打となって、ついに人気者になった信子。しかし信子はその状況に戸惑い、番組を降りたいと漏らす。そしてプロデューサーである修二自身「人気者になるのがいい、というのがわからない」と漏らす。たしかに修二たちのプロデュースは成功した。だが、それはプロデュースの課程でもっと大切なものを手にいいれた彼らにとっては既に「どうでもいいこと」だったのだ。a0048991_23135540.jpg

■野ブタの巫女バイト
 で、「寂しいのは私たちじゃなく修二の方だ」と独力できっぱり立ち直った野ブタは、修二のために何ができるかと問うが、これに横からアイディアを出したのも彰。巫女さん姿で野ブタパワー注入してほしい、と……。そう、優しさや思いやりは一番だけど、自己の欲望や快楽原則のカタチを自覚できてないゆえに、自分との関係を築きたがってる相手に適切な要求ができない修二と、前の瞬間には思ってもいなかったような欲望の形象化が可能で、ときに甘えが暴走してしまう彰とはまさに「二人でひとつ」なのだ。 a0048991_23143510.jpg
 そして即座に「たのもー!」と実はデルフィーユの実家だった神社を訪ねて巫女ちゃん化してしまう野ブタの天然系の萌え属性は、ほぼ彰の潜在欲求が開発したものだ。彼女が将来、これを自覚的・無自覚的に駆使するようになると……そら恐ろしい置きみやげをしてくれたものだ。(中川)

■神木を折ったバチ
 誤って神社の神木を手折ってしまった野ブタ。そのバチが彼女の一番大切な人に当たってしまうのだという。バチを回避するお札を、修二と彰のどちらに渡すべきか迷った挙げ句、川に投げて「3人で一緒にバチ当たろう」と覚悟する彼らだが、実際に階段から転げ落ちて大けがをするバチかぶったのは、なんとシッタカだった……。a0048991_231535.jpgこのへん、第5話以来放りっぱなしだった彼を意外なオチに使った単なる肩すかしギャグとも思えるが、あえて深読みすれば、シッタカが代わりにバチかぶることでじいさん介抱で株を下げた件を清算し、修二も彰もいなくなる今後の教室で彼が野ブタの一番大事な人になれる可能性を回復するという「救い」なのかもしれない。(中川)




■誰かのために
 父親の「ここに残ってもいいぞ」という提案を拒否し、結局自分を殺して修二は転校を決意する。周囲の人間は彼に言う「もっと自分のことを考えていい」と。しかし修二は言う、自分も信子のために何かをしているときが充実していた、だから「誰かのために」でいいのだ、と。修二がこの数ヶ月で得たもの、学校の中でのキャラ売りゲームの外側で得たものは、要はこういうことだったのだろう。そう、この最終回のテーマを強いてあげるならこの「他の誰かのために」という思いに他ならない。だから修二は転校を選び、彰は修二を追いかけ、信子は自身の想いを封印して彰を修二の元に送るのだ。(市民)

■「考えとく」
 前の一件以来学校を休んでる蒼井の家に向かう野ブタ。
「また小谷さんのこといじめちゃうから」という蒼井に対し「いじめられても平気になるから」という野ブタ。このシーンの前に修二が誰かのために動いてる時のほうが自分らしい、あいつもそうなんじゃないか?と言うが、思えば野ブタはいつもそういう対応(嘘付かれたらついたほうも辛いんじゃないか?、引っ越す修二の方が辛いんじゃないか?)をとっていた。a0048991_23161054.jpgそこら辺が最後の最後でいじけてし引きこもってしまわなかった野ブタの資質だったんではないかと思う。
 そしてその野ブタに対してわかったでなく「考えとく」と答える蒼井。安易な和解は描かない代わりにその予兆をしめした時点でギリギリOKかなぁと思う。 (成馬)



■キャサリンの餞別とクリスマスのプレゼント交換
 終業式の日、3人に二つ集めると幸せになれるという人形を一つずつ渡し、運と努力でこれを増やして、他の人に幸せを分けてあげられる人間になるよう、キャサリン教頭は最後のメッセージを伝える。a0048991_23165160.jpgそしてクリスマスの夜、プレゼント交換をした3人ともがそれぞれ自分が貰った人形を贈ったため、結局3人の手元には一つずつの人形が残る。努力だけでなく、自分の力ではどうにもならない運をも幸せへの道にカウントするあたりが、このドラマらしい価値観だ。(中川)



■まり子との最後の時間と野ブタ
 ホワイトクリスマスで窓の外を眺めながら極めてイイ雰囲気で、「好き」という気持ちを教えてくれた野ブタに言葉にしつくせない感謝を告げていた修二が、最後に口にしたのはまり子への気持ち。「まり子はどうするんだよ、まり子は!」とハラハラしながら二人の語らいを見守っていた全国のまり子派は、キターー(゚∀゚)ーーッ!!と快哉をあげたことであろう(笑)。 a0048991_23172238.jpg
 かつてまり子とテキトーなその場繕いで交わした「海へ行く」約束を、教室の手作りデコレーションと彰・野ブタが協力しての波の音放送で果たし、自作の弁当を食べさせてあげる修二に、こっちのバーチャル乙女心はキュンキュンキュンキュンときめきっぱなしだっつーの(;´Д`)。「次に会うときには、もっとまともな人間になっているから」という彼の言葉も、まり子という女、否、人間の価値をよくわかっていて、清々しいことこの上なし。
 修二が最後に学校で見たのが、仲良くするまり子と野ブタだったという光景も心に染みる。うんうん、好きな女の子たちが喧嘩せず仲良くしてるのって、ホント幸せな気持ちになるもんだよね……。(中川)

■すべてのゲームに勝とうとするな
 ラスボスを倒した後の長いエピローグである第10話には、セリフで直接テーマを語ってしまう大サービスが満載だ。横山先生が転校する修二に贈った言葉はその代表例と言ってもいいだろう。「お前の悪いところはすべてのゲームに勝とうとすることだ」……そういって横山先生は修二を「スペードのエース」にたとえる。たいていのゲームにおいて最強のカードである「A」。しかしゲームによっては「2」の方が強かったりもするし、「大富豪」では革命も起こる。だから横山は言う「自分の勝てるゲームで勝負しろ」と。……これは第1話から繰り返されてきたこのドラマの基本的な世界観をついにセリフで言ってしまった場面だ。
a0048991_23174285.jpg 世の中は、異なるルールをもつ小さな世界の集合体であって、その小さな世界ごとのルールをメタ視したものが勝つ……。修二はメタ視するところまでは出来ていたのだが、それで満足してしまい、自分のやりたい事、欲しいもの、適性などを吟味して「自分に合ったゲーム」を選び取るという可能性が視野に入っていなかったのだ。日本語でこういう人間を「器用貧乏」という(笑)。 (市民)

■修二を見送るクラスメイト
 普通のドラマなら感動の別れのクラスメイトに見送られるシーンだが、今までの展開から考えて白々しさを感じる人もいるかもしれない。
 まぁそこら辺は九話の中川さんの分析にもあるように、そもそも、大衆とはその場の感情のみで動き後に引きづらない忘れっぽい存在なのだと作り手が思ってるのだろう、結局修二たちが翻弄されてたのは蒼井でなく、この無責任さで、これには誰もかなわなかった(まぁ戦う必要もないのだが)。a0048991_23181286.jpgむしろここで大事なのは修二が取り囲むクラスメイトでなく後ろにいる彰と野ブタ、そして外れの方にいる蒼井に目をやることで、この距離感と視線の交差がそのまま今までの人間関係の縮図になっている。まぁこれ自体、生徒役のコたちへのボーナスカットみたいなものなのだろうが、修二の中の優先順位が露骨に出ててドライなシーンに仕上がってるなぁと思った。(成馬)

■修二の転校先に転校する彰
 親父の仕事のやむなき都合で望まぬ転校をした修二を追って、親父のスネをかじってカネの力でヘリまで出させてムチャな望みをかなえてしまう彰をどうとらえるか。第6話で自ら望んで道ばたの10円玉をやることにし、第7話で「諦める」ということを知るという成長を、お前は果たしたはずではなかったのか!
a0048991_23183555.jpg ……というようなボンボンな彼の相対的な未成熟へのツッコミも庶民感覚では当然であるが、それは違うのである。第1話で、自分の欲望について修二以上に空虚で、ただ父親の決めた不自由な道を歩むのが嫌だというだけだった彼が、野ブタと二人の世界を築くには男を磨き足りていない自分を自覚し、その足りないところを補ってくれる「二人でひとつ」ともいえる半身を、自分の境遇で頼りうる最大限の力にアクセスしてでも、遮二無二求められるようになったのは大きな進歩なのだ。おそらく画面の裏では、親父と大喧嘩しながら筋を通し、将来シャチョさんになる覚悟もそれなりに固める「己の身のアキラめ」をしたうえでの選択だったことは、想像に難くない。
 庶民には庶民の、金持ちには金持ちの相異なるリアリティがあり、それぞれなりのオーダーで現実のままならなさ(たとえば、彰の家の財力をもってしても、修二の父の転勤を取り消しにはできない)に立ち向かう成長像がある。つまり体験に恵まれない金持ちは、まっとうな人間になるために、若いうちの苦労さえカネを払ってでも買わなければならないということだ。そして彰にとってはこれも、横山先生の言う「自分の勝てるゲーム」を探すやり方のひとつなのである。(中川)

■野ブタスマイル
 金の力にモノを言わせて強引に修二のあとを追ってきた彰。物語の余韻を台無しにしかねない大どんでん返しのギャグだが、これは最後、修二ではなく信子を一人に戻したかったのだと思う。a0048991_231968.jpgラストシーンの直前、ようやく獲得した笑顔を見せる信子の傍らには誰もいない。しかし、信子の物語としてはこれでいいのだと思う。彼女はやっとひとりで歩けるようになったのだ。(市民)

■川から海へ
 都立隅田川高校を後にした修二と彰の新天地は、どこかの浜辺の県立網五(アミーゴ、ですね)高校。川のほとり(リバーズエッジ)に野ブタの居場所を作って旅立った彼らは、今度は大海をのぞみながら、早速ヤマザキと海ガメのために奔走する。a0048991_23193140.jpg第1話で川を下って、どこかに新たな生き場所をみつけ、また誰かの大事な心の支えになっているかもしれないあの柳の木のように。(中川)

■どこへ行っても生きていける
 ラストシーン「どこへ行っても生きて行ける」と独語する修二。そう、今の彼は自分が拘泥していた小さな世界のローカルルールの外側に、しっかりと価値をみつけている。それが何かはもはや語る必要はないだろう。どんな場所のゲームにアクセスしても、ゲームのルールに左右されない確かなものを既に手に入れた修二は「どこへ行っても生きていける」のだ。 (市民)

※近日 このメンバーで「野ブタ。」総括座談会を企画中ですので、『野ブタ。』ファンのみなさんはお楽しみに! このブログでもお知らせします。
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by nobuta2nd | 2005-12-22 23:23 | 第10話
2005年 12月 15日

第9話


 
【今週のあらすじ】

 修二たちのプロデュース作戦を邪魔する真犯人が信子の唯一の友達、蒼井かすみである事が判明し、修二は信子を傷つけまいと真実を頑なに伏せる。しかし蒼井は、修二の優しさや想いを利用し、3人にじりじりと接近してくる。
a0048991_228945.jpg そんな矢先、蒼井が、プロデュース作戦に参加させて欲しいと言い出し、真犯人の秘密を守り通したい修二はその要求を受け入れる。修二、彰、信子の3人は、蒼井の強引なプロデュース作戦に振り回され・・・。
公式サイト


【今週のストーリー解説】

■善良な市民
 蒼井かすみとの決着がつく第9話。蒼井かすみとは言ってみれば修二たちがこれまで対決した「悪意」の象徴だった。人間には「人の幸せを素直に喜べない」ところがある。蒼井はそんな負の感情の象徴であり、常に被差別階級を目の見えるところにおいて安心したがる大衆の象徴であり、そして、状況をメタ視する力を悪用する「もうひとりの修二」でもある。
 結局、蒼井は敗北する。修二にではなく、自分にだ。蒼井の「修二たちの友情ゴッコがむかつく」「凡庸な自分を覚えておいてほしい」という欲望は、決して修二たちを追い詰めることでは解消しない欲望だったのだ。だから結局、蒼井は「取り返しのつかないところ」まで行くしかなかった……。
a0048991_2273289.jpg 物語は蒼井を一度殺す。おそして夢オチという反則スレスレの技を使って彼女を呼び戻す。そう、ここで死んでしまうこと、世界を、日常を終わらせてしまうのはあまりにも安易だからだ。その底なしの空虚さを抱えて、蒼井はこれからも生きていかなければらなない。彼女になくて、「もうひとりの蒼井」である修二がもっていたものは何か……。それをラストでキャサリン教頭は優しく諭す。
 この物語は少年少女たちに厳しい。簡単にセカイを終わらせてくれない。だがその一方ではとても優しい。いい大人たちが、ほどよい距離で見守ってくれている。
 正直、やや通俗的なところが目立つ第9話だが、若ければ若いほど、この物語に出会えたことを大切にしてもらえたらと僕は思う。


■成馬01
 率直に言うと、ここが「野ブタ。をプロデュース」の臨界点かなぁと思った。今更言うまでもないけど野ブタは優れた作品で自分が見てきたドラマの中でもベスト10に入る出来だと言っても言いすぎではないと思う。でもこの回、特に蒼井かすみの描き方次第ではよく出来たドラマ以上のものになる可能性があったのだ。ただそれは同時に今まで積み上げてきたものを徹底して破壊して終わる結果になりかねない、その危うい状況をなんとか、しのいで元の路線に軌道修正した形跡が多々見られる回だったなぁと思う。その意味で破綻すれすれの危うさが全体に漂っていた。
 こう書くと読んでる人は蒼井の処遇、自殺が夢オチだったことに俺が不満を持ってるように感じるかもしれないけど、実はああいう流れになることは先週「セブン」を引き合いに出した時、何となく予測はしていた。夢オチ自体も四人が夢を見て、人型の後が残ってる描写によって精神的には死んだものと同じと捉えて納得している。ただそこに至るまでの過程というか展開が速すぎるし安易にまとめすぎな気がどうしてもする。あとクラスメイトと修二が野ブタのためといはいえ簡単に和解しすぎな気がした。それじゃ前回の絶望はなんだったの?そんなに簡単に回復するならどん底でも何でもないじゃんと思ってしまうと同時に結局彼らの鈍感さはジャッジされてないのだ。
a0048991_22231469.jpg 今まで修二が対立してきたのは個人的な悪意でなく、もっとつかみ所のない匿名の集団が生み出す悪意だった。
一人一人はいい人で話せるんだけどそれが集団になった時得体のしれない鵺と対峙しているような気分になったことがないだろうか?無責任で飽きっぽく鈍感さゆえに暴力的な存在、あの場所で「野ブタ良いよなぁ」と言ってた人間がちょっと前までは平気で見下しいじめている。そういう存在の象徴として蒼井かすみがいたはずなのだ。(と同時に蒼井もまた彼らへの憎悪があったからこそメタ視点を持てたのだと俺は想像していた)せめて和解する前に彼らもまた試されるべきだったと思う。
 この早急さが尺の都合なのか?木皿泉が深入りするのを避けたためなのか?はよく解らないが、そんな簡単に解消できる悪意だったの?と思春期には蒼井のように修二たちみたいな仲良しゴッコを嫌悪していた身としては思うのだ。
 前回も書いたけど例えば自分が思春期にこのドラマを見て今のように素直に感動できたか?というと難しかったと思う。過ぎ去った過去だからこそ安心して感動できる部分はあるはずで、同時にソコに後ろめたさを感じていた。そういう欺瞞を壊すと同時に素直に野ブタへ行けない子をも取り込む最後の刺客こそ蒼井かすみだったんだけど・・・でもこれをこのドラマに望むのは筋違いな気もする、実際今回も例えばまり子が野ブタを励ますシーンにはホロっときたし、狭い共同体の人間ドラマとしての野ブタには不満はない。次週はいよいよ最終回なのでよく出来たアイドル青春ドラマとしてまとまってくれれば俺は満足だ。


■中川大地
 まあ、まだ高校生だしねキミたち……てな印象。
 これまでの展開や演出でこのドラマが垣間見せてくれた「とてつもない悪意」との対決というテーマ性からすると、正直食い足りない思いは否めませんでしたが、教室という狭い小社会の中でのちまい情報戦がすべてになりがちな子供たちの人間関係を、いろいろなマジックアイテム(今回はブタのお守り。チェックポイント参照)に仮託させるかたちで、大人たちの示唆や「外部」からの気づきが相対化し、ヤバイところに行かせずに乗り切らせていくというこのドラマの構造の集大成にはなっていたので、納得は納得。チェックポイントで見ていくように、一見通俗的な友情物語に落としたようでいて、細かいところを見ていくとなかなか皮肉な批評性も感じとれる部分もありますので。 a0048991_22234342.jpg
 今回の焦点はこのドラマの世界観における「ラスボス」になるかもしれなかった「蒼井かすみとは何者か?」ということだったと思うんですけど、「匿名の悪意の象徴」であるとか「修二の陰画としてのネガプロorメタプロ」といった意味性を過剰に突き詰めず、結局よくよく見れば、年相応の了見の狭さや寂しさや浅はかさを抱えた、修二たちをけまらしがってるフツーの女生徒に過ぎないんだというところに落とした「馬脚さらし」の選択はそれはそれで批評的だから、最終的には肯定かな、僕は。ただ、シリーズ全体のクライマックスとして、カタルシス的には拍子抜けではあるんだけど。
 でもま、オイラ的には一貫してマジックアイテムの助けなしに自力でどんどんイイ女になってくまり子だけでゴハン3杯はイケルから、それでもう全部まるオッケーじゃけ!!



【今週のチェックポイント】

■ブタのお守り
 前回母親からのおみやげで贈られてきたブタのお守りを修二が彰と野ブタに渡す所から今回は始まり、蒼井も修二の父親から余った一個をもらうのだが、これが最後の四人が同じ夢を見る伏線になっていたことに二度目に見た時に気づいた。そのことにはまったく触れてなく、修二にはわざわざ理由はわからなかったと解説させているが、野ブタが眠る瞬間、そして机のうずくまる蒼井の手にはしっかりブタのお守りが握られている。おそらく修二と彰もそうだったのではないだろうか? a0048991_2284530.jpg
 そう考えると蒼井がブタのお守りを地面に叩き付けたシーンは3人から離れたという意味以上に彼女の身代わりとして壊れたことがしっかりわかる。ちょっと雑な構成だと思ってた自分が浅はかだと思った。(成馬)


■「仲間に入れてほしい」
a0048991_2292681.jpg 桐谷家からブタのお守りを持ち帰り「仲間に入れてほしい」と口にする蒼井。彼女の動機のひとつが「青春を謳歌している3人組がねたましい」というものであることを考えると、これは意外と本音に近かったのかもしれない。(市民)

■彰にかすみの正体を話す修二
 自宅を訪ねてきて嫌がらせの写真を渡し、野ブタのプロデュースに加えるよう要求するかすみのことを、前回のように独りで抱え込まず、修二は早々に彰に相談する。この時点ですでに修二自身の葛藤のドラマはほとんど終了していることを示す場面だ。シリーズで積み重ねてきたものの成果をはっきりエピソード化し、焦点をかすみの側の内面性に絞り込む作劇のメリハリ感が心地よい。(中川)

■呼び出しを受けた彰のおいちゃんとゴーヨク堂店主
 この回のテーマは「友情」ともうひとつ、「騙される」だろう。おいちゃんは旧友の旅館の女将に呼び出され、「まさか」と訝る気持ちと淡い期待を抱きつつも、大量の健康食品を売りつけられた結果に放心する。a0048991_22112874.jpgデルフィーネは寂しそうな声の友達に夜の校舎に呼び出されるが、キャサリン教頭に「騙されたんじゃないんですか」と水を向けられながらも、現れない呼び出し主のことを思いつつ、月を見上げる時間を満喫する。かすみに騙されたことを許せなく思いながらも、彼女が自殺しなかった事実に安心しながら、その心持ちに思いを馳せる野ブタたちの心境と響きあわせる演出である。(中川)


■蒼井のプロデュース方法
 3人の仲間に入った蒼井が提示したプロデュース方法はスカートの丈をかえて髪も結んで話し方も女らしくしたらどうか?というものだった。しかし評判はよくなく、普通とクラスメイトから言われてしまう。つまり欠点と個性ってのは紙一重なのだ。蒼井はプロデュースを自分じゃない自分を演出するという、実はこの回で蒼井がやってることはかつての修二がやろうとしたことだ。a0048991_2212425.jpgだからある意味でこの回は総集編的な作りになっていて、今までの負の部分を全部蒼井が担当しているという作りになっている。こういうことをするとどうなるのか?は観ている方はわかると思うが蒼井というキャラクターが突出してしまうのだ。だからショックを受けて引きこもる野ブタの再生劇や修二とクラスメイトの和解といった今までなら重要だったはずのエピソードが全部かすんでしまっている。
 それくらい蒼井が放つ負の魅力が出てしまったのが、この回をバランス悪くしてしまっている理由の一つだ。(成馬)

■「いいよ、子供で。俺はただのガキです」
 野ブタに我慢させ、辛抱させて、素の自分とは違うキャラを演じさせようとするかすみのプロデュース方針に対し、修二は無理な我慢や辛抱が他人に優しくできないイヤな人間ができるんじゃないの、と意見。そんなのは子供の言い分だと馬鹿にするかすみに、修二は迷うことなくそう即答した。第1話で、自分以外の周囲の人間を全員子供だとみなしていた彼の初期状態の演出と、くっきり対応させた台詞である。(中川)

■青春なんかうそ臭い
 嫌がらせの犯人は自分だと告白し、信子たち3人の「仲良しゴッコ」がウソ臭い、と罵る蒼井。気持ちはわかる。いや実際に高校生やっている人間が、ドラマや映画で「美しい青春」を見せられれば、誰でも多かれ少なかれ「ケッ」という気持ちになるはずだ。けれど、安心していい。大人になればきっと許せるようになる。何を隠そう、この僕がそうだった(笑)。a0048991_22131791.jpg
 ここで蒼井がイソップ童話の「酸っぱい葡萄」のような反応をしてしまっていることは想像に難くない。事実このドラマ自体「ジャニーズ主演の青春ドラマなんて」と思っている人は多いと思うが、君たちが蒼井にならないで済むためには、まずこの「酸っぱい葡萄」反応をしてしまうレベルから脱却することだ。素直になりなさい!
 ……少し横道にそれたけど、蒼井とは、こういう「素直になれない視聴者」の代表でもあり、この脚本はすでにそういった反応さえも劇中に取り込んでいる。(市民)

■蒼井VSまり子
「桐谷君は、本当はこの娘とデキているんだよ」
という蒼井の挑発に、「だから?」とまり子は動じない。やはり、まり子というキャラクターは、修二や蒼井が参加している「学校内のキャラ売りゲーム」の外側にいる存在なのだろう。だからゴーヨク堂で立ち読みもできれば、修二に本音を吐かせることもできる。そして蒼井の攻撃も通用しないのだ。舞台の外に立つ人間に対して、プロデューサーたちは無力なのだ。(市民)a0048991_22144376.jpg

■野ブタとまり子
 蒼井の正体を知った野ブタのところに偶然(またしても)通りかかるまり子。
ショックで立ち上がれない野ブタのほっぺに焼き栗を当てるシーンは今回もっとも心温まるシーンだ。
そしてまり子と野ブタの「ずっと嘘つかれたまま仲良くしてた方がよかった?」「嘘つかれるのさみしいもんね」「でも、ずっと嘘ついてのも寂しいかも」「そうかもね」というやりとりは蒼井と野ブタの関系だけでなく修二とまり子の関係についてのやりとりでもあるのだ。
a0048991_2214280.jpg そして、この後の修二とまり子のやりとり「本当のこと受け入れるのすごく辛いけどできないことじゃないから」というのも同様だ。(成馬)

■修二とクラスの和解
 かすみが嫌がらせの犯人だった事実を知ってショックを受けた野ブタを戻ってこさせるため、心からの言葉で頼む修二を、わだかまりの原因となったタニ以下クラスの皆は暖かく受け入れ、彼らの励ましで野ブタは帰ってきた。安易といえば安易だが、あえてヒネた見方をすれば、これも教室内世論を競う情報戦のうちのひとつである。誰だって悪者にはなりたくない。ここで野ブタの復帰に無関心を示すことは、今やクラス内での孤立を意味することになるのだ。そうした世論の動向を見きった修二は、ドブ板選挙で誠意を訴える政治家のごとく謙虚に深々と頭を下げて、見事、クラスの付和雷同な団結をうながす心地よい友情物語を大衆にギブしながら、野ブタ励ましと自身の地位挽回というテイクを得たのである。そして、それだけの成果を得るためには、自分自身もまた提供する物語を心から信じていなければならないのだ。 a0048991_22152293.jpg
 クラスの連中がジャッジされないのも当然。大衆とはそういうものだという諦念を前提に、より深く巧妙な人心掌握術をプロデューサー桐谷修二が体得していくのが、この『野ブタ。』というドラマの本質だという見方もできるからだ。(中川)

■ビデオレターの善意
 この9話で一番引っかかるのは、登校拒否になった信子を学校に呼び戻すために、修二がクラスのみんなに呼びかけて、ビデオレターを作成する所だろう。これは、これまで仮面を被ってきた修二がはじめてクラスメートに真心で接して、それが通じるという感動的なシーンなのだが、このクラスメートたちは転校直後の信子をいじめ、そして修二たちのプロデュースによってあっさり手のひらを返すような連中である。と、いうより、基本的にこのドラマでは大衆と言うものはそう描かれている。なので、ここで急にクラスメート(大衆)が「ほんとうのことはどうだっていい/表面的なイメージだけが大事」な連中から「真心が通じる相手」に突然変化してしまっているのだ。a0048991_22155071.jpgここはもう少しシビアに描かないと一貫しない。もちろん、彼等が信子をいつの間にか見直しているのはあくまで修二たちのプロデュースの結果なので、最低限押さえなければいけないところは押さえているのだが……。(市民)

■平気で笑っている蒼井
 と、思いきや、ビデオレターに励まされて登校してきた蒼井は満面の笑顔で信子を迎え入れる。この描写はこれまでの「野ブタ。」らしい(笑)。蒼井の屈託のない笑みに心底ぞっとする。(市民)a0048991_2216756.jpg

■形勢逆転
 最後の切り札(嫌がらせの犯人は自分だと暴露して信子を傷つける)を失った蒼井は、逆に嫌がらせの事実を暴露されることを恐れて追い詰められる。修二もそうだが、蒼井もまた、攻撃(表舞台には出ず、裏から他人をコントロールする)ことには長けているが、防御に回ると脆い。プロデューサーというのは、言ってみれば『ジョジョの奇妙な冒険』の「スタンド使い」のようなもので、本体を知られると弱いのだ(笑)。(市民)

■「覚えててほしい。嫌な思い出でも私がいたことを覚えていてほしい」
 この前後にどうして人を試すような真似をするんだ?と彰は問い、修二は「こいつはこういうやり方しかできないんだ」という。観ていておしいのは前回予感させた修二と蒼井のドラマがここくらいしかなく(「桐谷くんは何でもお見通しね」という台詞にはあなただけが私のことをわかってくれるはずという期待に俺には聴こえてしまう)蒼井と野ブタの関系に焦点が行ってしまったことだ。
 たしかにこのくらいの女の子にとって女友達は場合によっては恋人以上に大事な存在で、裏切られることはかなりショックのはずだが、今まで見ていて修二や彰に較べて濃密な関系を蒼井と野ブタが築けたとは思えないのだ。この回のテーマは明らかに友情や友達だが、それがどうも白々しく見えてしまう。
a0048991_2216535.jpg 結局蒼井というキャラが作り手が決めた枠組みをはるかに超えて動きすぎているのだ。
 さて、そんな蒼井のバックボーンや動機は結局明らかにされなかった。
 あえて動機らしい動機といえば上の「覚えててほしい」だ。これは蒼井が匿名の悪意の象徴と考えれば納得のいく動機だが、物語だけ追ってる人にはさっぱりわからないだろうなぁと思う。
 でも個人的には凄く納得がいってる動機だ。 (成馬)

■蒼井の動機
 蒼井は信子に嫌がらせをした動機をこう語る。「たとえ嫌なことでもいいから、自分の存在を記憶していてもらいたかった」と。この発言は一見わかりづらい。だが、「野ブタ。」のテーマを考えていくと、ぐっとわかりやすくなる。
 修二たちが戦ってきたのは、自分より弱い存在を蔑むことで、自己保身を図る「普通の人たち」の「普通の心情」だった。「自分」を持たず、なんとなく周りの空気に合わせてものごとを判断する「普通の人たち」の嫌らしさ……修二たちの「プロデュース」はそんなものとの戦いだったと言える。
 そして、そこに立ちはだかった蒼井かすみとは能力的には修二と同じタイプのものを持ち、テーマ的にはその「普通の人たちの無自覚な悪意」を象徴する存在だったと考えればいい。a0048991_22171125.jpg
 蒼井のような「普通の少女」が、このドラマで描かれているような「青春」を謳歌するのは難しい。事実、このドラマを、実際に高校に通っている10代の視聴者たちの中には現実の自分の学園生活と照らし合わせてしまい素直に見れない人も多いだろうと思う。そう、この「ねたましさ」こそが蒼井なのだ。決して物語の主役にはなれない「凡庸」な存在が孕む僻みの感情こそが「たとえ悪役でもいいから特別な存在になりたい」という蒼井の動機としてここでは語られている。
 そう、蒼井というのはこのドラマ(青春、他人の幸福)を「素直に見れない奴等」の象徴なのだ。(市民)

■蒼井の自殺?
 そして、そんな蒼井を信子は「許せない」と言う。ここでダメなドラマだったら、蒼井の動機はわかりやすい「過去のトラウマ」になっただろうし、信子はそのトラウマに同情して蒼井を「許して」しまっただろう。だが、このドラマはそんな絵空事には逃げない。信子は「許せない」と宣告し、蒼井は絶望して屋上から身を投げる。
 だが、これだど話が重たくなりすぎてしまうと判断したのだろう。
 蒼井の自殺シーンは夢だった、というオチがつく。だが、4人が揃って同じ夢を見ていたこと、学校に蒼井が落下した形跡がのこっていたことなどから、蒼井は実際に自殺してしまって、そこから何らかの不思議な力で時間が巻き戻ったのではないか、と思わせる演出になっている。
 これは、第7話、8話でさんざん「回復不可能」というモチーフを繰りかえされてきただけに強烈だ。木皿泉は本当は蒼井を殺したかった、蒼井のような存在はこれくらい救われない存在なのだ、と思っているのではないか……そう思わせる描写だ。
 ラストのキャサリン教頭と蒼井の会話は更に示唆的だ。a0048991_22174671.jpg
「取り返しのつかない場所へ行ったことありますか」 と尋ねる蒼井にキャサリン教頭は「ある」と答える。そして「友達が連れ戻してくれた」と。ここにはアイデンティティと言うフィクションの置き場はローカルな人間関係に置くしかないという作者の確信が見て取れる。その足場を持たない蒼井は、やはり本来は「帰って来れない」人間なのだ……。いや、もしかしたらあのブタを手にしている間だけ、蒼井はニセモノでも「友達」をもっていたのかもしれない。だから彼女は奇跡的に「戻ってこれた」のではないだろうか。(市民)

■「取り返しのつかない場所へ行ったことありますか」
 取り返しのつかない場所を仮の社会の外や彼岸と言うなら、前作「すいか」でも繰り替えされたモチーフだ。ただし「すいか」の場合は取り返しのつかない場所へ行った友達という現象が先にあり、自明性の壊れた日常をいかに再構築していくか?がテーマで、つまりそこがスタート地点だった。 a0048991_2218554.jpg
 対して野ブタでは、つねに、その瞬間は回避され悲劇は起こりえるかもしれない可能性としてのみ現れる。それは多分木皿泉の(作中の大人に象徴されるような)良心的な部分なのだが、一方で最後の最後で一番ヤバイトコに踏み込めない限界として表れしまったように感じる。(成馬)


■ヨコヤマ復帰の嘆願
 忘年会の席で酔っぱらって校長に暴言を吐き、勢いで意に反して自ら辞表を提出してしまった横山先生が辞めなくてすむようにするために、生徒たちは厖大な嘆願書をでっちあげ、ヨコヤマの辞職を食い止める。a0048991_22184190.jpg要は、実は誰も望んでいないヨコヤマ辞職を生徒の熱意が食い止める、という安っぽい物語をあえて演出する儀式が執り行われたわけである。蛇足的に差し挟まれた、このエピソードの意味とは何か? そう、野ブタ復帰の流れにまで至る、「一致団結するクラスの友情と善意」の予定調和性の戯画である。わざわざかすみとの葛藤の本筋の物語が終わった後にこうした挿話を入れ、修二にふたたび「桐谷修二」のセルフプロデュースを決意させるあたりには、感動のクライマックスにあってなお、通俗性を脱臼する教室世間への乾いた批評性が生きていることが見出せる気がする。(中川)


■「もう一度やってみようかな……」
 あのクラスで、もう一度「桐谷修二」を作り上げていこうという修二。「また、人気者を目指すの?」と問う信子に、修二は答えない。今度の修二は人気者を目指しはしないだろう。きっと、彼は彰と信子と築いたような実体のある関係を、他の人とも時間をかけて築いていけたらいいと思っているのだ。しかし、その修二の「次」のフィールドは残念ながらあのクラスではなく……。(市民)

a0048991_2219115.jpg■そして、別離へ
 エンディング近く、修二の父親が突然の転勤を告げる。修二はこのまま転校してしまうのか……?
 最終回はやはり、シリーズを通して繰り返されてきた「楽しい時間はすぐに終わる(だからこそ美しい)」というモチーフの通り「終わる」ことがテーマになるのではないかと予測される。(市民)
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by nobuta2nd | 2005-12-15 22:25 | 第9話
2005年 12月 08日

第8話



【今週のあらすじ 】

 ある夜、OLが酔っ払いに絡まれている現場に遭遇した修二は、傷害事件の容疑者として、交番で事情聴取を受ける。疑いははれたものの、「信じてもらえない」という事の恐怖をしる修二。そんな直後だけに、後日また別のケンカの現場を見てみぬ振りをしてしまう修二。しかし翌日、そのケンカの被害者がタニだと判明し、修二は友人のタニを見殺しにした冷たい人間として、周囲のクラスメイトから避けられてしまう。 a0048991_19434578.jpg
 孤独になった修二は、彰や放送部で昼の顔となり人気が出始めた信子を気にして、二人との距離をとろうとする――。
 自分はもう誰にも信用されない人間――、そう烙印を押されたような気がして落ち込んでいる修二に、今まで信子に虐めを繰り返し、修二たちの作戦をことごとく邪魔をしてきた真犯人が接近する・・・。

公式サイト


【今週のストーリー解説】

■善良な市民
 ついに始まった修二の転落と、妨害者=蒼井かずみの正体発覚……! 原作の小説ではこの修二の転落がオチになっていて、「おごれるものも久しからず」といった感じで綺麗に完結してしまうのだが、さすがこのドラマ版は一筋縄ではいかない。安易な脚本家なら原作どおりの落とし方にするか、もう一ひねりして、クラスの人気者の位置を失った修二を彰と信子が救済する展開(安心できる予定調和で泣かせる今回のオチ)で最終回にしてしまうところだが、なんとこのドラマはあと2話も残っている。特に、今後待っている蒼井かすみとの対決(?)は、修二派の僕としては一番興味を惹かれるところだ。
a0048991_19595647.jpg また、今回のテーマ「信じる」は、このドラマの一貫したテーマ「価値観」にひとつの回答を出している回だ。ドラマ版「野ブタ。」は第1話の、「世界共通の価値観なんかない」「小さな世界ごとの価値基準がタコツボごとにあるだけ」なので「そんなものは書き換えてしまえ」という認識からスタートして、回を追うごとに、そんな世の中でも何か信じるものがないと辛いこと、そして信じるに値するものはたとえば学校のような「小さな世界」のルールの外側にあるものではないか……そんなテーマを訴えてきた。そして、第8話ではこの展開を受けて「自分が信じたいものを信じるしかない」という立場がはっきりと語られる。これが果たしてこのドラマが出した結論なのかどうかはまだわからない。残すところ2話でこの「価値観」をめぐる物語がどう完結するのか非常に楽しみだ。


■成馬01
 今回は割れずに地面に落ちてく玖珠玉のような修二の転落劇がメインだったのだが、前半は偶然とすれ違いの多用で回りが誤解していくという昔からよくあるパターンで段取り的に感じたのだが、むしろ話のメインは唐突のネガプロの正体判明と彼女による3人の中を引き裂く手口そしてその罠にどう三人が立ち向かうか?という話だったと思う。
 ちなみに先週からの展開で俺が予想してた話はふとした偶然と誤解から修二がクラスメイトから孤立し彰や野ブタにも心を閉ざし人間不信になる。そして全ての関係性が奪われ孤立した所にネガプロ蒼井かすみが登場し修二に偽りの救いをもたらそうとする。そして9話で修二の影の面としての蒼井が狂った母性で飲み込もうとするのに対し野ブタと彰がどう立ち向かうか?みたいなものを考えていた。 a0048991_19593575.jpg
 だから始まって半分ぐらいで蒼井かすみが出てきてとっとと正体をバラし三人の仲を引き裂くために野ブタと彰に罠を仕掛けるという展開にも驚いたが。その罠に対して二人が修二を信じるという展開だが後半の蒼井かすみ登場から三人の関係を引き裂こうとする蒼井の策略を「信じたいから信じる」野ブタと「見なかったことにする」彰という荒業だ跳ねのける終わり方、そして最後に三人の信頼関係が残るという終わり方は予想をはるかに超えていた!というか彰の話に泣いたね俺は(笑) 。
 蒼井が張った罠は隙のない完璧なものだと言える、特に誰からも信じられていない修二には弁明の余地が奪われている。これはミステリー的な罠でなく、彼らの友情が試されてるのだ。
それにしても人間は何処で試されるか?と言うと、どん底の時なんではないだろうか?極限状態に追い詰めらて人間の暗闇の部分が出る、そうやって90年代のホラーは狂気を安売りしてきたけど、極限状態だからこそ残る強さ、信頼関係もあるのだ(思えば女王の教室も辛辣な部分よりも追い詰められたからこそ開花していく子供たちの絆と強さにこそ面白さを感じてたっけなぁ)。残り二話はおそらく修二の再生と蒼井かすみの話になるだろうと思う。どう決着をつけるのかただ見守りたい。


■中川大地
 さすが、大当たりでしたね。いや、妨害者が蒼井かすみだったなんてのは演出的にもキャスティング的にも当たり前だからそのこと自体じゃなくて、彼女の目的と存在がまさに「ネガティブプロデューサー」だったという第2話時点での成馬さんの慧眼に拍手。以後あたりまえのように本ブログではネガプロネガプロ言ってたわけですが((笑)初見の人わかんねっつーの)。
a0048991_19451213.jpg 「噂」をめぐる情報戦という『野ブタ。』世界の基本律も改めてクローズアップされ、追いつめられる修二vsかすみの構図に(それこそカメラワーク自体が)収斂していくクライマックス感が満天で、原作のちまっとした教室内キャラ売り作戦のエッセンスをよくぞここまでスケール感のある世界観に発展させたと、あらためて舌を巻きます。展開的にも、級友がボコられてるのを見過ごしたことをきっかけに教室内での地位が転落する、という原作のエピソードが踏襲されてるわけですが、それをめぐる修二の内面がもうまるっきり違う、という原作版との対比がこれまでで最も鮮明なのと同時に、「自分は陰に隠れて他人を思い通りに変えるゲームを楽しみたい」という原作版修二の像が、むしろかすみの方によりダークかつメタな(チェックポイント参照)かたちで託されたことでしょう。その意味で、もう救いと成長の方向性が見えてる修二自身より、かすみの動機の掘り下げと末路こそが今後の作品テーマ上の注目点になりそうかな、と。
 冷静読解以上。もう修二ッ、そこまで優しいヤツになるのマジ反則! 今回は完全に気持ちが野ブタ・まり子目線シンクロで終始かき乱されっぱなし。脳内オトメ心をオトコ心で押さえつけんのにどれだけ苦労させるんじゃ~!! 正気を保つのに、成長をみせた彰の男気だけが頼りでした。ヤバイなあ、もう…。


【今週のチェックポイント】

■割れない玖珠玉
 冒頭、あらたな再出発を祝して彰の作った玖珠玉を割ろうとする。しかし玖珠玉は割れず地面にまっさかさま、そこで修二の自分の運命を暗示するかのようだというモノローグが入る(これはモノローグはいらなかったと思うがテレビでは仕方がないのか?)。冒頭の何かを誤魔化すかのようにプロデュースに専念しようとする三人の白々しさ(すでに終わってしまってる感)を割れない玖珠玉が象徴している。 (成馬)a0048991_19583320.jpg

■二つの揉め事と修二の転落
 冒頭、商店街で酔漢に絡まれてる女性を助けに入ったら、女がやけに強くて逆に男をボコボコ殴るコミカルなゴタゴタの中で、誤解されて警官に交番に連れて行かれてしまうツイてない修二。そこで警官に自分の潔白を「信じてもらえなかった怖さ」が尾を引き、後に他校の生徒にフクロにされている誰かを通りがかりで見つけて助けようとデフォルトで身体が動きながらも、思いとどまって見過ごす選択をしてしまう。暴行されていたのが実はクラスメイトのタニで、今度は彼だと気づかなかったことを信じてもらえず、見捨てた薄情さを喧伝されることで、修二のクラス内の地位が転落する。原作版では、この後の事件から転落までに至る流れは同じながら、最初の騒ぎはなく、また後の事件も他人事としてまったく関心を寄せないのが修二であった。つまり原作での転落の契機は「地金を見破られる」不運なのに対し、ドラマでは「本質を誤解される」不運であるという、同じ事件が正反対の図式で描かれているのだ。(中川)

■できれば世界中の人が一人残らず幸せにになってほしい
 という信子に修二は「それは無理だ」と断言する。みんな一緒に幸せにはなれない。だからこそ修二は、「最大多数の最大幸福」を勝ち取るために周囲にウソをついて角が立たないように人間関係をコントロールしてきた。だが、そのために彼はひとりも心を許せる人間がいなかった。「なぐさめてもらうように出来ていない」「寂しい人間」だったのだ。(市民)

■商店会の会長
 交番で事情聴取されていた修二と居合わせ、「人生最高のときもあれば最悪のときもある、最悪になっても人生は簡単に終わってくれない」と語る、今回ゲストの「示唆キャラ」で、ゴーヨク堂店主の後輩。a0048991_1948345.jpgまさに90年代以降、繰り返し唱えられ続けてきた「終わりなき日常を生きよ」型メッセージの確認だが、「噂」が支配するちまい学校内秩序を、すぐ外を取り囲む、隅田川の流れるこの町の世間が鷹揚に相対化するという、空間的なコスモロジーの階層をこの会長やゴーヨク堂は体現しているのだ(もちろん、学校外の世間は優しいばかりではない。学校内の「噂」が通用しないからこそ、頑として修二は信じてもらえなかったのだから)。(中川)

■最低の日もある/最高の日もある
 ゴーヨク堂は言う。「人生には最低の日もある、最高の日もある」と。第1話から再三修二たちが生きている学校世界が有限ですぐに終わってしまうことを示唆し続けるゴーヨク堂は、ここでも修二に学校世界でのキャラ売りゲームでの敗北が「すべての終り」ではないことを修二に示唆している。(市民)a0048991_19485573.jpg

■パンドラの箱
 ギリシャ神話に「パンドラの箱」という有名な話がある。
その箱は神々がありとあらゆる災いを封印していたのだがパンドラという少女が開けてしまう。災いは世界中に飛び出してしまいパンドラはあわてて蓋をしめた。箱の中に最後に残ったのは希望だった。いろいろな解釈ができる話だが今回の話はそういうことだと思う。俺が野ブタ。一話を見た時に感じたのは面白さと同時にあらゆることが変わってく移ろいやすさと確かなものがない不安感で、そのいつかダメになる、終わってしまうんではないか?という不安感が張り付いていたから一見寓話的ないい話に見えても説得力を感じていた。
そしてこの回は一話から感じていた不安が表面化した回なのだが、そういう局面に追い詰められたからこそ見えるもの、わかるものがあるんだなぁとわかった気がした。
 そして思えば、これは一話の抜き取られた柳の木が別の場所に植えられることを予感させるシーンやアフリカの子供が着ていた野ブタの体操着、誰かの宝箱に入っていた野ブタグッズ、と何度となく繰り返してきたことだった。あらゆるものが変わってくし終わってく、でも、だからこそ残るものもあるんだよ。
そういう話だったんだなぁと改めて確認した。(成馬)

■言葉が通じない
 桐谷修二という人間は言葉を信じていない。自分自身が言葉を弄して周囲をコントロールしてきたという自覚があるからだ。そして、その言葉が通じなくなるとまったくコミュニケーションの手段がなくなってしまう。それだけ長い時間を過ごしても、彰や信子とのような関係を、修二は他のクラスメイトとはまったく築けていなかったのだ。逆を言うと、修二と彰、信子を結び付けていたものは「言葉」ではないのだ。(市民)

■「修二君の成長記録」
 転落した修二の前についに姿を現した嫌がらせの真犯人、蒼井かすみの台詞。これまで直接的には野ブタを狙っての妨害活動かと思われていたが、あくまで彼女は「人質」で、陰に隠れての操作で他人を意のままに変えるゲームを楽しもうという正味の「ネガティブプロデュース」の対象は、修二なのではないかとも思われる。a0048991_19492493.jpgつまり、自分がプロデュースする側だと思っていた修二が、実はさらに高みからプロデュースされていたというメタ構造があることを、かすみの言葉は示唆しているのである。しかし、さらにその深奥にある動機は何だろう? 修二が前回漏らした「どうしてこんなに感情を剥き出しにできるんだろう」という感想は、強烈な感情を理解できない修二自身と同じ動機で妨害が行われていたことの皮肉な構図を示すフェイクだったのか。あるいはもしかすると、野ブタ転校前からの修二の振る舞いが、知らずにかすみの恨みを買っていたというような展開が待っているのかもしれない。(中川)

■蒼井かすみとは何者か?
「野ブタ。」を見ていて毎週感動している俺だが、例えば俺が10代の高校生だったらどう見ただろうか?と時々考える。もしかしたら修二や野ブタがあまりに眩しすぎて劣等感を感じ素直に見れなかったかもしれない。言うまでもないがアイドルとは羨望と嫉妬の対象だ。木更津キャッツアイの頃にも感じたのだが主演がジャニーズのタレントでヒロインがかわいいアイドルというだけで敬遠して批評眼が鈍る人は意外と多い。男なら亀梨、山下に女なら掘北に嫉妬するだろう、だからアイドルドラマにおいて男女のカップリングは難しい。下手に深い関係にすると双方のファンから反発があるからだ(あるアイドルが主演のドラマのカップルの女優の方には脅迫の手紙が来てノイローゼになったりしたらしい)。ここに執筆している俺等くらいの歳になると、「野ブタと修二くっつかないとなぁ~」「いや修二にはまり子だよ!」とか楽しくカップリングを夢想できるんだけど、同年代で信仰するかのようにアイドルを見て将来俺が掘北と結婚するんだ!とか思ってる童貞男子高校生や亀梨くんキャーとか思ってるジャニオタの女の子は気が気じゃないだろう。(それもあって原作にはない彰という要素を入れているのだろう、男女はいやだけど、やおい的な部分は許せる、という婦女子向けの意味で)意外に忘れがちだが、このドラマはアイドルドラマだ。a0048991_194956100.jpgどんなに高度なことをやってても主演はジャニーズで視聴率は彼らのファンである匿名の特に個性があるわけでもない美人でもかわいくもない普通の子らによって支えられている。だから野ブタが彼女らのシンデレラストーリーへの願望の体現なら蒼井かすみは「ファンの女の子たちのネガの部分」の象徴だと言っても言いすぎではないと思う。そもそも今まで存在を暗示されながら姿を現さず修二たちの行動の全てを知っている存在。これはそのまま我々番組視聴者の姿だ。(まぁここで評論家ならメタアイドルドラマとかもっともらしい言葉を付けるんだろうなぁカッコ悪いから言わないけど)そう考えると彼女が出てこないと、このドラマが終わらない理由は明らかだろう。
 蒼井かすみがどのような末路を辿るのか?
 悲劇かそれとも救済か、じっくり見守ろうと思う。 (成馬)

■ふたりのプロデューサー
 妨害者の正体=蒼井かすみの目的は修二たちの「プロデュース」を妨害し、逆に信子をドン底に突き落とすことだった。まさに「ネガティブプロデューサー」だ。「どうしてそんなことを?」と尋ねる修二に、蒼井は答える。「面白いからだ」と。自分は影に隠れて、何も関係ないふりして、他人の人生をコントロールするのが面白くてたまらないのだ、と。そう、この1点において、修二とかずみは同質の存在なのだ。a0048991_1951630.jpg他人をコントロールするゲームを楽しむプレイヤーであるといいう点において、いや、教室と言う猿芝居を、舞台裏から管理する「プロデューサー」であるという点において、ふたりは同質であり、同等の能力を有していると言える。ただし、その結果他人を幸福にできたらいいと思っている修二に対して、蒼井の心の中には悪意が渦巻いている。(市民)

■修二の弱点
「桐谷君の弱点は草野君と小谷さんだもんね」……蒼井は嘲笑う。そう、実際のプロデューサーとは違い、教室のプロデュサーは自分自身が常に舞台の上に立たなければならない。そしてそんなプロデューサー兼役者にとって、舞台である教室の中に、舞台から降りた場所で大切にしたい人間がいるのは間違いなく弱点なのだ。そう、教室に彰と信子がいる限り、役者としての修二はどうしても完璧ではいられないのだ(例:冒頭で教室で信子に話しかけるしかなくなった修二)……。それに対して、今の蒼井には教室に「弱点」がない。今回、ラスト直前まで蒼井にやられっぱなしの修二だが、今の二人にはこういう「力の差」が開いているのだ。もっとも、どっちが幸福かと言うと微妙、いや明らかなのだが。
 個人的には友情パワーで蒼井に反撃も美味しいが、できればプロデューサー・桐谷修二の知恵でも逆襲して欲しい所だ。(市民)

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■バイバイ・エンジェル(ネタバレ)
 余談だが、状況をメタ視できるふたりの登場人物(男女)がそれぞれ「探偵と犯人」という構図は、笠井潔の小説家デビュー作『バイバイ・エンジェル』を彷彿させる。全共闘崩れの日本人留学生(?)矢吹駆と新左翼テロリストの幹部をつとめる少女・マチルド―――状況をメタ視する力(階梯)においても、思想的にも同等の力を持つ駆とマチルド。同じ力をもつが故に、向いている方向(目的)が違う二人は相容れない存在だった。まさに今回の修二と蒼井である(笑)。駆とマチルドの対決は、僅かに力が上だった(その少し前にマチルドの位置を通過していた)駆の勝利に終わったのだが……果たして、修二と蒼井の対決の行方は如何に!?(市民)

■まり子の弁当
 前回、修二にきっぱり想いを拒絶されながらも彼の分の弁当を作り続け、代わりに突撃レポートに入ってきた彰に食べさせる。前回チェックポイントで、この二人が「成長」するために踏むべき経験の性質が似てそうだと思ってワンセットの記述をした矢先だったので、もしかして!という気になってしまった……。そして教室に居場所をなくして孤独になった修二の後ろにそっとお弁当を置いてくさまに・゚・(ノд`)・゚・。 。。思えば最初からゴーヨク堂書店で立ち読みできたこの子だけが、「噂」をめぐる情報戦が価値の優劣を決める隅田川高校の法則秩序の外側にいて、「たった一人でも信じてくれればいい」と、「信じたい方を信じる」という今回の野ブタの気づきを先取りしていたのであった。プロデュース組3人は何も心配してないけど、この子の処遇はどうする気なんさ、木皿泉! もしかして……、あの、ひょっとしてまさか彰っすか…? ……う~ん、彰ねえ……。(中川)

■彰の乗り越え方、埋めるということ
 まず写真を見た彰の反応の仕方「彰ぁ~ショック!」が彰らしくて面白い、なんと言うか「客観的にはここで俺はびっくりするんだろうなぁ、でも俺彰だし」って感じで驚いてる自分を客観視して彰らしく驚きを演じてるような、つまり彰ってそういう奴なのだ。おそらく彰は修二とは別の意味で彰というキャラを演じているのだろう。それが写真を見たことで彰というキャラと感情が揺れる自分との間で混乱している。その葛藤がとても伝わる。そして理性では彰らしく修二を信じて写真のことなど気にしないキャラで行きたい、でもうまく消化できない。そこで見なかったことにするにはどうすればいいか?と豆腐屋のおじさんに聞いた所ヌカミソを持ち出し埋めてみなかったことにしなさいといわれる。a0048991_19521520.jpg前回も少し触れたが「埋める」は木皿泉作品において多用されるモチーフだ、すいかでも思い出の品を埋めることで相手のことを忘れようとするシーンが登場する。それにしても埋めるというのは微妙な距離感で、これが燃やすや捨てるだと完全な抹消だが、「埋める」だと存在は残ってるのだ。消すほど思い切れないけど、一端保留にしたい、そういう彰の気持ちがよく現れているシーンだと思う。ホント後で笑い話になればいいなぁ。 (成馬)

■ジョン・ドゥ
 シッタカのキャリーの話やお化け屋敷、そしてキャサリン教頭の魔女的たたずまいもそうだが、野ブタには全体的にホラーのモチーフを多用されている。
 そう考えた時、蒼井かすみが自分から正体を現しむしろ積極的に近づき修二の価値感そのものを煽る展開には1995年に発表されたサイコホラーの傑作D・フィンチャー監督のセブンを思いださせる。キリスト教の7つの大罪もモチーフに異常犯罪を繰り返す犯人は物語の後半、自分から自首してきて、主人公たち刑事を挑発しある場所へ連れて行く、そして、そこで起こることこそ彼の真の目的だった。この犯人の特異なトコは犯行=異常殺人が目的でなく、主人公達刑事と私達視聴者の倫理を刺激し試すために現れ行動するトコだ、だから、この物語のラストは普通のミステリー以上に後味が悪く残っていく。もちろん、ここまで来てセブンみたいな後味の悪いオチになるとは思えないし思いたくないが。
 ちなみにジョン・ドゥとは英語で「名無しのゴンベェさん」みたいな意味らしい。(成馬)
 
■地球上にひとりでも信じる人がいれば
 キャサリン教頭は言う。「世界中にひとりでも信じる人がいれば、吸血鬼はいる」のだと。そして信子は蒼井と修二のどちらかを選ばなければならなかったとき「信じたいほう」=修二を選ぶ。
「一緒に信じてください」……これは、先述したように「価値観」を巡るこのドラマが出したひとつの結論だと言える。小さな世界の書き換え可能なルール(価値基準)しかないこの世の中、最後は「信じたいほうを選ぶ」しかないのだ。無論、この考え方は危険なものを孕んでいる。人々がそれぞれ「信じたいほうを選んで」ばかりいたら世の中は滅茶苦茶になってしまう。何でもかんでも「信じてしまえばいい」わけではない。だからこそ、このドラマは、ゆっくりとした歩みで3人のかけがえのない時間をしっかりと描いてきた。「信じられるもの」を手に入れることは、とても難しいことで、そして幸福なことなのだ。(市民)a0048991_202209.jpg

■紐でつながる三人
 「信じればどんなことも解決できる」「一緒に信じてください」クラスメイトの視線が集まる中教室の真ん中でまるで決意の儀式のように三本の紐を繋げる三人。
 野ブタ。の世界ではコミュニケーションは視覚化されお約束の共有をすることで仲良しクラスメイトを演じる関系性が展開されてたが、この視覚化はむしろそういう視線への反発であり、「私達は仲間だ」というクラスの冷たい視線への宣戦布告だ。冷たいクラスメイトの視線に対抗する3人という構図が明確な形で映像化されている。他にもこの回の修二と蒼井かすみの間に挟まれてたたずむ野ブタのように。一カットの登場人物の立ち居地だけで物語における相関関係を可視化するシーンが野ブタには多い。脚本に刺激される形で演出もどんどん先鋭化しているのを感じる。 (成馬)
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by nobuta2nd | 2005-12-08 20:02 | 第8話
2005年 12月 04日

『すいか』ロングレビュー

■「すいか」とは

「でも、私も逃げたい。親から、仕事から、こんな自分から、あらゆるものから、私も逃げたい」
「そりゃ、誰だってそうです。でもね。ここに居ながら、にげる方法が、きっとある、それを自分で考えなきゃダメです」     
                                  すいか第4話より
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 すいかは「野ブタ。をプロデュース」の脚本家木皿泉とそのスタッフによって2003年夏に日本テレビの土曜9時枠で放送された連続ドラマだ。
 放送時は地味な題材で視聴率も低かったが今に至るまで熱狂的な大人のファンが多く
 04年には向田邦子賞も受賞している。
 もし「野ブタ。~」を見て華やかな学園モノの裏にある切ない部分、ある種の無常観に裏打ちされた優しさが気になった方がいらしたら是非見てほしい作品だと思う。
本稿ではそのささやかなガイドラインを提示したい。

 物語の内容は親友の失踪をきっかけにハピネス三茶という下宿に32歳にしてはじめて一人暮らしをすることになった早川基子を主人公に、彼女を通して大袈裟に言うなら「今・ここ」でどう生きていくか?を描いた話だ。
と言っても、描かれているのは地球の滅亡とか燃えるような恋愛みたいないわゆるドラマテックな題材は存在しない、基本的には小さな下宿で繰り返される、日々の暮らしだ。当時はあまりに地味な題材のためそれがドラマになること自体に驚いた、
 脚本の木皿泉は「やっぱり猫が好き」に脚本で参加している(ただし98年度版)が、あのドラマにあったような女の子のとりとめのないおしゃべりの日常感覚,マンガで言うと岡崎京子の「くちびるから散弾銃」や高野史子の「るきさん」を思いうかべてもらえると以外と近いのではないかと思う。ただし「やっぱり猫が好き」や「唇から散弾銃」は80年代バブルのど真ん中に放送されていて、80年代後半と2003年という舞台の違いは否応なく現れている。
 その違いは「今・ここ」で生きていくことの不安、あるいは社会の外へ逃げ出したいという願望だ。このドラマには普通に生きている人の不安が細かく描写されている。


■「世界の終わり」から「世界の外」へ

 物語は冒頭、中学生時代の早川基子と双子の姉妹(内片方はのちに再会する絆)がハルマゲドンの話をする場面から始まる。夕暮れ時、隣の家からのカレーの匂いを嗅いだ三人は、「この匂いもなくなってしまうのかなぁ」と切なくなる。そして舞台は現代に飛び
「それから20年後の2003年、夏。地球はまだあった」とクレジットが入る。
ハルマゲドンという非日常とカレーの匂いという日常の対比から来る、あらゆるものが終わりゆく無常観「野ブタ。をプロデュース」をご覧になってる方ならご存知のあの切なさは「すいか」の時点ですでに完成していたといってもいい。
 そしてこの世界を知る上で重要なのは、世界が終わらないという閉塞感だ。
 もしかしたら、何故「世界が終わらない」ことが辛いのか?今の若い子にはよく理解ができないかもしれない。俺が思春期の頃90年代前半はやや賞味期限が切れ気味とはいえノストラダムスの大予言はそれなりに人気で内向的な中高生にとっての一般教養だった。
 1999年恐怖の大王が降臨する。よくわからないが(当時は核戦争なんかがイメージされてた)1999年に世界は終わる、あるいは最後の戦いが始まる。その日に備えてがんばろう?
 そんないつか来るあの日を思えば、「今・ここ」をうまく生きられる。その意味で滅亡すら未来だった。人はどんな形であれ未来があれば、そこに向かって生きていける。
 だからこそ例えば鶴見済の「完全自殺マニュアル」のデカイ一発はこない。という言葉は強烈だった。これに岡崎京子のリバーズ・エッジで描かれた「平坦な戦場」そしてオウム事件以降に宮台真司が提唱した「終わりなき日常」、これは言うなれば未来という言葉の死亡通告に等しかった。
 あの時、世界滅亡という甘美な未来を私たちは失ったのだ。


■早川基子と馬場万里子

 さて世界が終わらない、いつもと同じことの繰り返しの世界で人はどう生きるか?
「すいか」には、その「今・ここ」に耐えられず、世界の外にはみ出してしまった人物と早川基子のような苦しみながらこちら側に止まってる人間とが対比になっている。

 早川基子の同僚の馬場万里子は信用金庫のお金を使い込み失踪し亀田絆は双子の姉、結は結婚前に自殺し柴本ゆかの母親は男と駆け落ちし出て行っている。そして崎谷夏子の余命わずかの親友が居て、30年前に燃えるような恋をしたリチャードもなくしている。ここで世界の外に飛び出した人間を主役に添えれば例えば桐野夏生の「OUT」や「グロテスク」のような作品になるのだが、「すいか」では対となるこちら側の人間の側から描写される。例えば絆と結の双子の姉妹が象徴的だが、残された彼女たちはまるで自分の半身が切り取られたような喪失感を抱えていて、彼女たちの失踪、あるいは死をどう受け入れるか、そしてどう踏み止まるかが主題となる。
 基子や絆が抱えてるものは同じことの繰り返しと思ってた世界の自明性を壊された痛みだ。日常が強固でびくともしないのに、確実に押し寄せてくる死や不安。馬場万理子の失踪をきっかけに早川基子はその(自分もそうなってしまうかもという)不安、喪失感を埋め、抗うため、まず一人暮らしをはじめ、今までやってこなかったこと、例えば友達にお金を貸したり、ペーパードライバー返上のためドライブに出かけたり、子供の頃から溜め込んできた貯金箱を開ける。
 それは世界の外に飛び出す、犯罪や駆け落ち、あるいは自殺に較べるとあまりに小さな、小さすぎることだが、その小さな物語の積み重ねが私達視聴者に与える印象はとても豊かで面白い。同じように毎回挿入される食事や食べ物にまつわるシーンも豊かだ。
 そして最終話、早川基子を迎えにきた馬場万里子は、その生活の片鱗を見てこう言う。


「ハヤカワの下宿、行った時さ、梅干しの種見て、泣けた」
「朝御飯、食べた後の食器にね、梅干しの種が、それぞれ、残ってて――何か、それが愛らしいといっていうか、つつましいって言うか―――あ、生活するって、こういうことだなぁって、そう思ったら、泣けてきた」
「掃除機の音、ものすごく久しぶりだった、お茶碗やお皿が触れ合う音とか、庭に水まいたり、台所で何かこしらえたり、これ皆で食べたり―――みんな私にないもの」
「私、そんな大事なもの、たった三億円で手放しちゃったんだよね」  

                                 すいか10話より


 そして馬場万里子は飛行機のチケットと基子が頼まれた買い物のメモを並べてどっちだ?と問う
「ハヤカワの人生だからハヤカワが選びな」
 早川基子はメモを選ぶ、そして馬場万里子に「次、家に来るときさ、これ買ってきてよ」
と鍋の食材を書いたメモを渡す。馬場万理子は「大事にするよ、こっちに戻ってくるための切符だからね」と言う。
「すいか」の世界は切なく不安だが優しいのはこういう所だ。彼女には戻ってくる可能性と向い入れる人がいるのだ。

■「終わる」場所

 また時を同じくハピネス三茶から長年住んでいた崎谷夏子が出て行くという。
 大学を辞めた彼女はこれをきっかけに世界に出て学ぼうという。これもまた世界の外に出る行為だが否定的には描かれておらず肯定的だ。そして旅立つ崎谷夏子に対して柴本ゆかは言う。

「約束してくれますか?例え、ここを出て行っても、死ぬ時は必ず戻ってくるって」

 「すいか」の世界には当たり前に残酷な事実が自明のものとして描かれている。
 それは全ての事柄には始まりがと終わりが出会いと別れが生と死があるという、どうしようもない事実だ、どんなに豊かになっても自由になっても「終わり」から私達は逃れられず、むしろ自由であるが故に「終わること」あるいは死や別離の恐怖が肥大化しているとすら言える。
 だが柴本ゆかのこの台詞には終わりや死は避けられないかも知れないが「終わる場所」は選べるのではないか?という希望のようなものが見える。それは人によっては悲しい終わり方かも知れないが、それでも自分で選べるということはすばらしいのではないだろうか?
 物語のラスト、早川基子も他の登場人物も決して日々の苦痛が解消されるわけではない、ただ、今まで同じと思ってた日々が少しづつ違う日でそれは一度きりなのだということだけは実感する。

遠くまで届く宇宙の光 街中でつづいてく暮らし
ぼくらの住むこの世界では旅に出る理由があり
誰もみな手をふってはしばし別れる
                    小沢健二 「僕らが旅に出る理由」より

 もしかしたら「野ブタ。をプロデュース」を今楽しんでいる中高生のコにはまだこのドラマは取っ付きにくいかもしれない、でも「野ブタ。~」を見て切なさや無常観から来る優しさを感じとったなら、是非ためしに見て、そして今回はあくまで紹介に止めたため引用できなかった、宝石のような言葉の数々に出会ってほしいと思う。それはきっと私達の日常を豊かにしてくれるだろう。  (成馬01)
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by nobuta2nd | 2005-12-04 22:23 | すいか
2005年 12月 02日

第7話



【今週のあらすじ】

 信子に恋心を抱いた彰は信子を独占したいという想いから人気者にプロデュースする作戦を止めたいと申し出る。修二は彰の申し出に苛立ちを感じながらも受け入れざるを得ない。
そんな中、信子は唯一、出来た友人の蒼井かすみによる誘いで放送部へ入部。信子と少しでも一緒にいたい彰も又、放送部へ入部することに。そして、彰は信子への抑えられぬ思いのために、ある、とんでもない行動を取ってしまう・・・。
a0048991_2044133.jpg 修二はというと、クラスメイトと適当に遊びながら適当に距離を置くという元の生活に戻るが、日々の生活にぽっかり穴が空いたような空虚感がぬぐえなかった。さらに、まり子から、自分との関係をはっきりさせてくれ、本当の気持ちを教えてくれ、と問い詰められる・・・。そんな折、信子が『私の好きなもの』をテーマに映像作品を募集するコンクール作品を撮影することになり、3人が久しぶりに行動をともにすることになるが、そこにまた陰湿ないたずらが発生し・・・。
 
 公式サイト



【今週のストーリー解説】

■善良な市民
 突然だが、僕はこのドラマの中では主人公の修二が好きだ。器用に、要領よく立ち回ることを心得ているが故に孤独な修二……個人的には「あえてベタな偽善」を行うという最近はやりのキャラ全開の彰や、フツーに健気でいい娘の信子より、断然感情移入できるキャラクターだ。そんな修二の内面にいよいよスポットが当たったこの第7話では、ついに修二がまり子に本心を打ちあけて、原作のオチになっていた修二の転落劇がはじまることになる。原作ではいわば修二が転落して「因果応報」オチで終わるわけだが、この原作よりも何倍も深くて広いドラマ版では、修二にこそ、この経験を通して大きく成長して欲しいと思う。
 また、今回の第7話は「終わりのはじまり」だ。劇中で繰り返される「終わる」「諦める」というモチーフが示すとおり、修二、彰、信子の「3人組」の楽しかった時間はいつの間にか終わりを迎えていたのだ。それは基本的にはとても寂しいことには違いない。だが、逆を返せば、短い時間で終わるからこそそれは貴重な時間だったのだ。「終わる」「別れる」「諦める」というモチーフに貫かれたこの第7話だが、これは個人的には修二たちが次のステップへ進むためのジャンピングボードとして機能するんだと信じたいところだ。a0048991_20445477.jpg



■成馬01
 まず、6話のチェックポイントで中川大地さんが書いてた修二とまり子についての解説がまったく的確だったことに見ていて驚いた。
 俺はどうにも上原まり子みたいな普通にかわいい子についてはわからないので、そこまで想像力が及ばなかったけど、彼女も知らず知らずの内に追い詰められ傷ついていたのか?「ごめんよぉ~」って修二の変わりに謝りたい気持ちになったけど、あくまで自分と修二の関係を恋愛の問題と捉えるまり子と、どう他人と付き合うか?という問題と捉える修二とでは、コミュニケーションの捉え方が違いすぎる、という断絶が強調された気がする。まり子は修二と付き合うのにはマトモすぎる。こういう子はもっと普通のいい奴と付き合った方がいいと思った。
 さて、今回は今までの話をステージを上げて展開した気がして、その意味で目新しさはなかったと思う。ただ密度は濃い。テーマは「人の心の中」と「諦める」だろうか?以前も書いたが野ブタ~は「気付きの物語」で、彰は恋心の発展として嫉妬と独占欲から来る自己嫌悪を知り、野ブタは修二へのほのかな恋心?を知り、修二は自分が今まで冷たい人間だったんだということに気づく。(しかし、その冷たさは人が好きすぎる反動で嫌われるのは怖いという弱さから来ていることを野ブタに発見されている、まったくこういう男に女は弱いんだろうなぁ)彰は自分には野ブタを好きになる資格はないと一端諦め、修二はまり子に本心を伝えることで今までのごまかしの関係を諦めるが、この諦めるという行為が成長のモチーフになってることは前回のチェックポイントで市民さんが指摘してる通りだろう思う。それにしても写真とかビデオというものは過去を刻印するものだからか?郷愁のようなものを強く感じる回だった。予告を見る限り、このままラストまで連続した話が続くのかなぁと思う、一部原作を引き継いでるので比較しながら見守りたい 。


■中川大地

 つるべ落としで終わりに向かっていくことを、これでもかこれでもかと強調する映像エフェクト、音効、モチーフ選択、画面構成、台詞回し、演技等すべての要素がガッチリはまりすぎて、序盤からもうギュンギュンギュンに胸締めつけられっぱなし……。カーッ、もう、せつな殺す気かっつうの、こんちくドらマぁめぇっ!!
 今回はもうストーリーラインがどうとかガジェットの仕掛けがどうとかにまるっきり注意が回らないほど、修二の寂しさ、彰の気まずさ、野ブタの気持ちの持ってきどころなさ、そしてまり子のくるしさが、直接的な視聴覚演出のレベルで最短距離から撃ち込まれてくる感じで、マジやばかったです。
 もうダダこね競争後の修二と一緒に悶える、悶えるよッ!!

 でも負けずに、『寄生獣』でミギーになだめられて胸に手をあてて気持ちを鎮めるシンイチよろしく落ち着いて考えてみる。考えてみると、一話完結噺としての今回のお題はまさにそんな「心のコントロール」、より踏み込んで言えば「内的衝動と外的現実を調停すること」なのだと整理できると思います(「終わりの始まり」はシリーズ構成上の見え方ですね)。
 現代の通俗的な価値観では、心のまま衝動のまま欲望のままに行動することは(ことに恋愛に関しては特に)基本的に正しいことだとされているけれど、それが本当に望ましい結果をもたらすとは限らない。彰は、野ブタと最終的には「結婚したい」とまでの独占衝動に正直になってプロデュースを打ちきったために彼が本当に好きだった3人でいるときの野ブタとの時間の喪失することになるし、野ブタも思わぬ衝動で打ってしまったパンチや抱きしめに悩む。修二は苦しませたくないと思ったがゆえにまり子を傷つけたり、野ブタを傷つけたくないと思いながらも身体が動かなかったりする。
 制御できない心の中の思いと、ままならない現実の齟齬のありようがそれぞれに強調して描かれ、そのことは修二の「恋愛みたいに心がコントロールできなくなるようになるのは嫌だ」という台詞でも明示されます。あと、ネガプロがビデオテープを切り刻んだことへの、「こんなに感情をむき出しにできるなんて」という感想もまた。
 で、そうなったときに一体どうすればいいのか、という心と現実との調停のビジョンこそ、劇中で繰り返し描かれる「諦める」という態度なわけですね。これについては後述の成馬さんのチェックポイントに詳しいように、決して西洋近代主義で常識とされているほど「諦める」ことはネガティブなことではなく、ままならなかった現実を心の中に取り込んで発見や成長の糧にするための、人生に不可欠な知恵だってわけです。
 そう考えたとき、今回もまたキャサリン教頭や修二父が、いい「諦め方」の手本を見せてくれて(チェックポイント参照)、その示唆を受けた修二が彰に休日の校舎での「諦め放送」を促すというパターンがしっかり踏襲されてるんですよね。そんな仏教説話のような含蓄ある教訓性もまた、シリーズ終盤になっても崩れない、この作品の魅力の骨格になっていると思います。



【今週のチェックポイント】


■終わりの契機
 男女混合の仲良しグループが、メンバー同士の恋愛が原因で崩壊するのはよくある話だ。それが男2×女1のいわゆる「ドリカム状態」ならなおのこと。勿論、修二たち3人組がそれに当てはまるかどうかは分からない。しかし、「男女の関係になる」というのは、モラトリアムの終了を意味するものに他ならない。第3話で紹介した押井守監督の『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』では、ヒロインが主人公に「責任取ってね」と迫る(関係を結ぶ)ことがモラトリアムの終わりを象徴するサインになっていた。
 若者たちはラブコメ空間に憧れて群れる。しかし、実際に恋し始めた瞬間に「終わり」ははじまっていたのだ。「野ブタ。」で言えば彰が自分の気持ちに気付いた瞬間がそれに当たる。もっとも、知り合いの女性ライター(40代)は、「ここで恋愛を終わりの契機にするのは安易」と批判していたのだが……。(市民)


■プロデュース終了?a0048991_20454027.jpg
 彰の「信子狙い」宣言によって終了したプロデュース。彰と信子は放送部へ、修二は元のクラスの人気者グループへと戻るかに見えたが、信子はあからさまに寂しがり、一見けろっとしている修二も仲間との遊びに全然集中できない。自分達でも気付かない間に、彼等は「本当に楽しいこと」が何か、それを味わうために必要な仲間がどんな存在かを知ってしまったのだ。まさに、第3話で語られているように「楽しかったことは後になってからそれが楽しかったと気付く」ものなのだ。(市民)


■スローモーションの演出
 野ブタ。をプロデュースではスローモーションやコマ送りの演出が効果的に使われているが、今回はスローモーションが修二と周囲とのズレを強調するシーンで使われている。周囲が残像のようにぼやける中で訥々と語られるモノローグは無自覚な孤独感を強調する。
 またスローモーションで過ぎていくまり子の修二が呼びかけるシーンでは、ここで修二が現実のまり子と自分の気持ちと向き合った、ということがわかりやすく表現されている。 (成馬)
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■ダダこね競争
 修二の家での食事シーンで、一つしかないメロンを誰が食べるかを決めるために、修二父は「一番ムチャでどうにもならないことをダダこねてみせた奴が勝ち」という競争を提案する。この「ダダこね」儀式もまた、ままならない現実と心の中とを調停する「諦め」のための知恵のあり方のひとつといえるだろう。こういうことを、いまどきメロン争いなんていうしょーもないシチュエーションでさらりとできてしまうこのオヤジの人生力はホントただ事ではない!
 で、こういう感情マネジメントが図抜けて巧みな父や、その感化ですくすく育つ弟がありながら、修二がちゃんとダダこねられないのは多分、ヘビースモーカーだらけの家族で育った子がえてしてタバコ嫌いになってしまうようなのにも似たリアリティなのだろう(笑)。
 ただ、こういう家族の下地があればこそ、野ブタが見破っている修二の本質的な人間好きな部分や機転の利くところ、そしてなんだかんだで周囲の前向きなメッセージを見過ごさず行動できるところなどの潜在的な長所が頷けるというもの。無意識のポテンシャルに、意識が追いついていないだけ。修二は決して、野ブタが過大評価しているわけでもなければ、まり子が恋するに値しないつまらん奴でもないと、僕は思う。で、彼(および野ブタ)に訪れるべき大人へのなり方とは、リニアに鍛えあげられて力を獲得してゆく「成長」というよりも、ある瞬間にパッと鱗が落ちるように切り替わる「脱皮」なのではないか、とも。(中川)


■修二の「コン」
「コン」とは彰がいつも登場シーンで行うジェスチャー。手を影絵のキツネの形にして、ドアをノックするジェスチャーを行う。おそらく、キツネの鳴き声とノックの音をかけているのだろうが、この彰の特徴的なジェスチャーが今回は修二に伝染している。特に、結局表面的な付き合いでしかないクラスの仲間たちとの遊びにノれない修二が、彰と信子の入る放送部を訪ねるときにこのジェスチャーを行っているのはポイントだ。(市民)


■どじっこ萌え
 放送部制作の番組のレポーターとして活躍する信子。彼女の奮闘を見て笑うクラスの面々にもはや悪意はない。修二たちの「プロデュース」の効果は如実に表れていたのだ。(市民)a0048991_20463692.jpg


■彰の鼻歌

アンパンマンの替え歌
ナウシカの回想シーンの唄
マンガニッポン昔話のエンディングテーマ
加山雄三の「お嫁においで」

 それぞれ彰の感情をうまく伝える使い方をしている。 (成馬)


■秋のセミ、別れの予感
 この第7話のテーマが「終わる」「諦める」であることを考えると、この「秋のセミ」のシーンと、夕暮れ時の3人がそれぞれ別方向に別れて行くシーンは実にわかりやすい。ゴーヨク堂が指摘するように、これは否応なしにやってくる「終わり」なのだ。(市民)a0048991_2047160.jpg


■ヨコヤマ人形揚げ
 300万円の宝くじをフイにしてしまった横山先生への怒りを昇華し、執着を断ち切るためにキャサリン教頭が作っていた呪いの藁人形的な手料理。手間暇かけてこんなものを作り、ガブリと食うことで、きれいさっぱり気分を変えるという儀式だ。「諦める」ということはただの内心の変化ではなく、具体的な行動をともない、しかも闇雲なストレス発散ではなく、代償行動としてちゃんと意味のある見立てがあることが望ましいという、何やら民俗学めいた知恵さえ垣間見える気がする。
 なお、このヨコヤマ人形を頭からガブリと食いちぎった野ブタが、後のビデオ撮影で頭の切れている横山先生を撮っているという芸の細かさも可笑しい(さらに頭から食いちぎるというのも、前回の彰の鯛焼きの頭の方を食べると幸せな気分になる、というエピソードを引いているという重層構造)。(中川)


■「諦めたら、そこで終わりだ」
 彰のおじさんも味のあるイイ大人ではあるんだけれど、「諦める」ということについての考え方は、こうした通俗的なものだった(いやまあ、そういう通俗道徳をちゃんと信じきってみせる度量もそれはそれで必要なんだけど…)。その点の人生哲学の深みの微妙な差が、修二と比較した場合の、彰のエゴの抑制という面における未熟さとして出てしまっていたように思う。彼は野ブタを諦めるという決断こそ自分でしたけれど、スパっと諦めるための具体的な儀式行動は、修二のサジェスチョンに依っていたからだ。だから彰(とかまり子)については、トライ&エラーを繰り返しながらの地道な「成長」が、まだまだ必要なんだな、と感じる。(中川)


■ビデオテープと宝くじ
 それと連動するのが「宝くじ」と謎の妨害者にズタズタにされた「ビデオテープ」だ。どちらも、一度失われたら戻らない(回復不可能)なもの。「諦める」という今回のテーマも併せて、これはやはり修二たち3人の幸せな時間も、もう終わりを告げようとしていることを示すのだろう。ラスト近く、結局元に戻せなかったビデオテープの画像を、じっと見つめる彰の横顔が悲しい。(市民)


■三人の撮った映像
彰「犬が撮ったビデオみたい(地面や路地を撮る)」
野ブタ(風景や青空を撮るが採用していたのは横山先生の首から下のみ)
修二(人が多い) a0048991_20473671.jpg
 修二のビデオを見て野ブタは修二が無関心なふりをしているが人が好きなことに気づく。そして彰は野ブタが修二を気にしていることに気づく。
 また三人を撮っている豆腐屋のおじさんの視線がそのまま彼らを見守る大人の視線としてうまく作品の世界観を表している。 (成馬)


■修二の素顔
 信子が語る修二の素顔は、やや過大評価といえる。確かに修二は「人が好き」なのだろうし、まわりを大事にするあまり、基本的に自分が我慢する「だだをこねない子供」だ。しかしそれはやはり「子供」のコミュニケーションにすぎない。事実、修二も本音では「ウソなんかつきたくない」と思っているのであり、その苦しさは確実に修二を蝕んでいる。「自分のエゴをむき出しにして他人を傷つける」ことと、「ウソをついて他人を傷つけないこと」は実はどちらも「子供」のコミュニケーションなのだ。人間同士のコミュニケーションは0と1にカッキリ別れるものではない。本音を語りつつ、相手にも合わせるという柔軟な態度が大事なのだが……。(市民)a0048991_20475879.jpg


■野ブタパンチ
 野ブタが編集したテープを捨てようとする彰を思わず殴ってしまう野ブタ。一見コミカルだが倒れた彰から鼻血が出たりとかなりナマナマしい。ここは五話でシッタカが反射的に野ブタの唾液で汚れた手を汚いと拒絶するシーンと対になっている。
 つまり今度は野ブタの側が反射的に傷つける側へと回ってしまったのだ。木皿泉の作品の登場人物は基本的に皆やさしいが、ふいに感情が湧き出し言ってはいけないことや行為をし傷つけてしまう描写が多い。あとあの野ブタパンチは4話で彰に習ったものだ。 (成馬)a0048991_20481394.jpg


■諦める。
 仏教の世界ではで諦めるとは「明らめる」と書き、断念するということではなく、事実を明らかに見るということであり、現実を直視し、それをありのままに受け入れるという意味らしい、修二がそれを知っていたかどうかは不明だがまり子が「私は諦めない」と言った後ビデオの録画を止め修二の気持ちを確かめようとする行為は、その文脈で見た限りではちゃんと繋がっている。そして修二も自分の中のまり子への気持ちを明らめ、彰も野ブタへの気持ちを明らめる。
「すいか」の頃から思うのは木皿泉作品には諦念の美学とでも呼ぶものがある気がする。それは思い出の品を埋める(埋めるや穴は多用される)行為だったり、喪失感を受け入れたり、様々な行為を通して現れるが、同時にいろいろな発見に溢れていることを考えると諦める=「明らめる」とは中々よくできた解釈だなぁ、仏教やるじゃんと思わせる。 (成馬)
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■「野ブタの読んでる本が好きだ」「野ブタの歩いている道が好きだ」「野ブタのいる屋上が好きだ」「野ブタのいる所は全部好きだ」
 冒頭野ブタを独占したいという彰は、野ブタへの気持ちを断念した後休みの学校の放送室でこう演説する。彰は野ブタ。を独占して閉じ込めておくことよりも三人でいる時間が好きだということに気づく。彰の変化は人を好きになることの両面(独占所有したいという気持ちと彼女を知ることで世界を広がっていくという気持ち)を的確に表現している。どちらも人の心の中にある恋愛感情の両面なのだが前者は君と僕の世界に閉じていくものだが、後者は世界を広げてくれる。彰は野ブタだけでなく、野ブタを含めた周囲の世界を肯定したいという気持ちに気づいたのだ。それは情熱的な感情とは違う落ち着いたもので「すいか」の頃から一貫してスタッフに、こういう価値感があるってことを今の若い子へ伝えたいという気持ちが伝わってくる。 (成馬)


■「どうして感情をむき出しにできるのかなぁ?」「できちゃうのよ切羽つまった人間には」
 野ブタの編集したテープがズタズタに切り裂かれた様を見て、その感情を理解できてしまう彰。
 これはおそらくネガプロの今までの行動の動機が嫉妬からだと暗示しているのではないか?と予想させる。  この野ブタの世界では感情は唐突に湧き上がるものとして表現されている。
 彰を殴ってしまったり反対に修二を抱きしめてしまう野ブタや、嫉妬の感情からビデオを捨てようとしてしまう彰。
 彼らにとって感情が湧き上がることはどちらかというとネガティブなもので、感情を抑制し相手を気遣うことの方を美徳して描いてるところが少し他のドラマと違って見えるところだと思う。 (成馬)

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■修二とまり子  お昼に野ブタのレポート映像を見て呆けて机に腰掛ける修二そして休みの学校で彰のアナウンスを呆けたように机に腰掛けて聴く修二それは仮面を被った修二が見せた素の表情だ。それに唯一気づくのがまり子だという描写が切ない。 (成馬)


■「俺は寂しい」a0048991_20492979.jpg
 そう、修二は寂しい人間だ。視聴者はほぼ全員気付いていただろうが(笑)、修二はこのときはじめて気付いたのだ。スクールカースト(学校社会でのキャラ売りが決める位置づけ)を利用するのに長け、学園生活を「人気者キャラの椅子をめぐるゲーム」と割り切っていた修二だが、彰と信子との付き合いの中でそんな「ゲーム」には回収されないものに気付いたのだ。しかし、修二がそのことを自覚したそのとき、「仲良し3人組」の時間は終わりを告げようとしていたのだ。(市民)
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by nobuta2nd | 2005-12-02 20:51 | 第7話