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週刊 野ブタ。

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2005年 12月 08日

第8話



【今週のあらすじ 】

 ある夜、OLが酔っ払いに絡まれている現場に遭遇した修二は、傷害事件の容疑者として、交番で事情聴取を受ける。疑いははれたものの、「信じてもらえない」という事の恐怖をしる修二。そんな直後だけに、後日また別のケンカの現場を見てみぬ振りをしてしまう修二。しかし翌日、そのケンカの被害者がタニだと判明し、修二は友人のタニを見殺しにした冷たい人間として、周囲のクラスメイトから避けられてしまう。 第8話_a0048991_19434578.jpg
 孤独になった修二は、彰や放送部で昼の顔となり人気が出始めた信子を気にして、二人との距離をとろうとする――。
 自分はもう誰にも信用されない人間――、そう烙印を押されたような気がして落ち込んでいる修二に、今まで信子に虐めを繰り返し、修二たちの作戦をことごとく邪魔をしてきた真犯人が接近する・・・。

公式サイト


【今週のストーリー解説】

■善良な市民
 ついに始まった修二の転落と、妨害者=蒼井かずみの正体発覚……! 原作の小説ではこの修二の転落がオチになっていて、「おごれるものも久しからず」といった感じで綺麗に完結してしまうのだが、さすがこのドラマ版は一筋縄ではいかない。安易な脚本家なら原作どおりの落とし方にするか、もう一ひねりして、クラスの人気者の位置を失った修二を彰と信子が救済する展開(安心できる予定調和で泣かせる今回のオチ)で最終回にしてしまうところだが、なんとこのドラマはあと2話も残っている。特に、今後待っている蒼井かすみとの対決(?)は、修二派の僕としては一番興味を惹かれるところだ。
第8話_a0048991_19595647.jpg また、今回のテーマ「信じる」は、このドラマの一貫したテーマ「価値観」にひとつの回答を出している回だ。ドラマ版「野ブタ。」は第1話の、「世界共通の価値観なんかない」「小さな世界ごとの価値基準がタコツボごとにあるだけ」なので「そんなものは書き換えてしまえ」という認識からスタートして、回を追うごとに、そんな世の中でも何か信じるものがないと辛いこと、そして信じるに値するものはたとえば学校のような「小さな世界」のルールの外側にあるものではないか……そんなテーマを訴えてきた。そして、第8話ではこの展開を受けて「自分が信じたいものを信じるしかない」という立場がはっきりと語られる。これが果たしてこのドラマが出した結論なのかどうかはまだわからない。残すところ2話でこの「価値観」をめぐる物語がどう完結するのか非常に楽しみだ。


■成馬01
 今回は割れずに地面に落ちてく玖珠玉のような修二の転落劇がメインだったのだが、前半は偶然とすれ違いの多用で回りが誤解していくという昔からよくあるパターンで段取り的に感じたのだが、むしろ話のメインは唐突のネガプロの正体判明と彼女による3人の中を引き裂く手口そしてその罠にどう三人が立ち向かうか?という話だったと思う。
 ちなみに先週からの展開で俺が予想してた話はふとした偶然と誤解から修二がクラスメイトから孤立し彰や野ブタにも心を閉ざし人間不信になる。そして全ての関係性が奪われ孤立した所にネガプロ蒼井かすみが登場し修二に偽りの救いをもたらそうとする。そして9話で修二の影の面としての蒼井が狂った母性で飲み込もうとするのに対し野ブタと彰がどう立ち向かうか?みたいなものを考えていた。 第8話_a0048991_19593575.jpg
 だから始まって半分ぐらいで蒼井かすみが出てきてとっとと正体をバラし三人の仲を引き裂くために野ブタと彰に罠を仕掛けるという展開にも驚いたが。その罠に対して二人が修二を信じるという展開だが後半の蒼井かすみ登場から三人の関係を引き裂こうとする蒼井の策略を「信じたいから信じる」野ブタと「見なかったことにする」彰という荒業だ跳ねのける終わり方、そして最後に三人の信頼関係が残るという終わり方は予想をはるかに超えていた!というか彰の話に泣いたね俺は(笑) 。
 蒼井が張った罠は隙のない完璧なものだと言える、特に誰からも信じられていない修二には弁明の余地が奪われている。これはミステリー的な罠でなく、彼らの友情が試されてるのだ。
それにしても人間は何処で試されるか?と言うと、どん底の時なんではないだろうか?極限状態に追い詰めらて人間の暗闇の部分が出る、そうやって90年代のホラーは狂気を安売りしてきたけど、極限状態だからこそ残る強さ、信頼関係もあるのだ(思えば女王の教室も辛辣な部分よりも追い詰められたからこそ開花していく子供たちの絆と強さにこそ面白さを感じてたっけなぁ)。残り二話はおそらく修二の再生と蒼井かすみの話になるだろうと思う。どう決着をつけるのかただ見守りたい。


■中川大地
 さすが、大当たりでしたね。いや、妨害者が蒼井かすみだったなんてのは演出的にもキャスティング的にも当たり前だからそのこと自体じゃなくて、彼女の目的と存在がまさに「ネガティブプロデューサー」だったという第2話時点での成馬さんの慧眼に拍手。以後あたりまえのように本ブログではネガプロネガプロ言ってたわけですが((笑)初見の人わかんねっつーの)。
第8話_a0048991_19451213.jpg 「噂」をめぐる情報戦という『野ブタ。』世界の基本律も改めてクローズアップされ、追いつめられる修二vsかすみの構図に(それこそカメラワーク自体が)収斂していくクライマックス感が満天で、原作のちまっとした教室内キャラ売り作戦のエッセンスをよくぞここまでスケール感のある世界観に発展させたと、あらためて舌を巻きます。展開的にも、級友がボコられてるのを見過ごしたことをきっかけに教室内での地位が転落する、という原作のエピソードが踏襲されてるわけですが、それをめぐる修二の内面がもうまるっきり違う、という原作版との対比がこれまでで最も鮮明なのと同時に、「自分は陰に隠れて他人を思い通りに変えるゲームを楽しみたい」という原作版修二の像が、むしろかすみの方によりダークかつメタな(チェックポイント参照)かたちで託されたことでしょう。その意味で、もう救いと成長の方向性が見えてる修二自身より、かすみの動機の掘り下げと末路こそが今後の作品テーマ上の注目点になりそうかな、と。
 冷静読解以上。もう修二ッ、そこまで優しいヤツになるのマジ反則! 今回は完全に気持ちが野ブタ・まり子目線シンクロで終始かき乱されっぱなし。脳内オトメ心をオトコ心で押さえつけんのにどれだけ苦労させるんじゃ~!! 正気を保つのに、成長をみせた彰の男気だけが頼りでした。ヤバイなあ、もう…。


【今週のチェックポイント】

■割れない玖珠玉
 冒頭、あらたな再出発を祝して彰の作った玖珠玉を割ろうとする。しかし玖珠玉は割れず地面にまっさかさま、そこで修二の自分の運命を暗示するかのようだというモノローグが入る(これはモノローグはいらなかったと思うがテレビでは仕方がないのか?)。冒頭の何かを誤魔化すかのようにプロデュースに専念しようとする三人の白々しさ(すでに終わってしまってる感)を割れない玖珠玉が象徴している。 (成馬)第8話_a0048991_19583320.jpg

■二つの揉め事と修二の転落
 冒頭、商店街で酔漢に絡まれてる女性を助けに入ったら、女がやけに強くて逆に男をボコボコ殴るコミカルなゴタゴタの中で、誤解されて警官に交番に連れて行かれてしまうツイてない修二。そこで警官に自分の潔白を「信じてもらえなかった怖さ」が尾を引き、後に他校の生徒にフクロにされている誰かを通りがかりで見つけて助けようとデフォルトで身体が動きながらも、思いとどまって見過ごす選択をしてしまう。暴行されていたのが実はクラスメイトのタニで、今度は彼だと気づかなかったことを信じてもらえず、見捨てた薄情さを喧伝されることで、修二のクラス内の地位が転落する。原作版では、この後の事件から転落までに至る流れは同じながら、最初の騒ぎはなく、また後の事件も他人事としてまったく関心を寄せないのが修二であった。つまり原作での転落の契機は「地金を見破られる」不運なのに対し、ドラマでは「本質を誤解される」不運であるという、同じ事件が正反対の図式で描かれているのだ。(中川)

■できれば世界中の人が一人残らず幸せにになってほしい
 という信子に修二は「それは無理だ」と断言する。みんな一緒に幸せにはなれない。だからこそ修二は、「最大多数の最大幸福」を勝ち取るために周囲にウソをついて角が立たないように人間関係をコントロールしてきた。だが、そのために彼はひとりも心を許せる人間がいなかった。「なぐさめてもらうように出来ていない」「寂しい人間」だったのだ。(市民)

■商店会の会長
 交番で事情聴取されていた修二と居合わせ、「人生最高のときもあれば最悪のときもある、最悪になっても人生は簡単に終わってくれない」と語る、今回ゲストの「示唆キャラ」で、ゴーヨク堂店主の後輩。第8話_a0048991_1948345.jpgまさに90年代以降、繰り返し唱えられ続けてきた「終わりなき日常を生きよ」型メッセージの確認だが、「噂」が支配するちまい学校内秩序を、すぐ外を取り囲む、隅田川の流れるこの町の世間が鷹揚に相対化するという、空間的なコスモロジーの階層をこの会長やゴーヨク堂は体現しているのだ(もちろん、学校外の世間は優しいばかりではない。学校内の「噂」が通用しないからこそ、頑として修二は信じてもらえなかったのだから)。(中川)

■最低の日もある/最高の日もある
 ゴーヨク堂は言う。「人生には最低の日もある、最高の日もある」と。第1話から再三修二たちが生きている学校世界が有限ですぐに終わってしまうことを示唆し続けるゴーヨク堂は、ここでも修二に学校世界でのキャラ売りゲームでの敗北が「すべての終り」ではないことを修二に示唆している。(市民)第8話_a0048991_19485573.jpg

■パンドラの箱
 ギリシャ神話に「パンドラの箱」という有名な話がある。
その箱は神々がありとあらゆる災いを封印していたのだがパンドラという少女が開けてしまう。災いは世界中に飛び出してしまいパンドラはあわてて蓋をしめた。箱の中に最後に残ったのは希望だった。いろいろな解釈ができる話だが今回の話はそういうことだと思う。俺が野ブタ。一話を見た時に感じたのは面白さと同時にあらゆることが変わってく移ろいやすさと確かなものがない不安感で、そのいつかダメになる、終わってしまうんではないか?という不安感が張り付いていたから一見寓話的ないい話に見えても説得力を感じていた。
そしてこの回は一話から感じていた不安が表面化した回なのだが、そういう局面に追い詰められたからこそ見えるもの、わかるものがあるんだなぁとわかった気がした。
 そして思えば、これは一話の抜き取られた柳の木が別の場所に植えられることを予感させるシーンやアフリカの子供が着ていた野ブタの体操着、誰かの宝箱に入っていた野ブタグッズ、と何度となく繰り返してきたことだった。あらゆるものが変わってくし終わってく、でも、だからこそ残るものもあるんだよ。
そういう話だったんだなぁと改めて確認した。(成馬)

■言葉が通じない
 桐谷修二という人間は言葉を信じていない。自分自身が言葉を弄して周囲をコントロールしてきたという自覚があるからだ。そして、その言葉が通じなくなるとまったくコミュニケーションの手段がなくなってしまう。それだけ長い時間を過ごしても、彰や信子とのような関係を、修二は他のクラスメイトとはまったく築けていなかったのだ。逆を言うと、修二と彰、信子を結び付けていたものは「言葉」ではないのだ。(市民)

■「修二君の成長記録」
 転落した修二の前についに姿を現した嫌がらせの真犯人、蒼井かすみの台詞。これまで直接的には野ブタを狙っての妨害活動かと思われていたが、あくまで彼女は「人質」で、陰に隠れての操作で他人を意のままに変えるゲームを楽しもうという正味の「ネガティブプロデュース」の対象は、修二なのではないかとも思われる。第8話_a0048991_19492493.jpgつまり、自分がプロデュースする側だと思っていた修二が、実はさらに高みからプロデュースされていたというメタ構造があることを、かすみの言葉は示唆しているのである。しかし、さらにその深奥にある動機は何だろう? 修二が前回漏らした「どうしてこんなに感情を剥き出しにできるんだろう」という感想は、強烈な感情を理解できない修二自身と同じ動機で妨害が行われていたことの皮肉な構図を示すフェイクだったのか。あるいはもしかすると、野ブタ転校前からの修二の振る舞いが、知らずにかすみの恨みを買っていたというような展開が待っているのかもしれない。(中川)

■蒼井かすみとは何者か?
「野ブタ。」を見ていて毎週感動している俺だが、例えば俺が10代の高校生だったらどう見ただろうか?と時々考える。もしかしたら修二や野ブタがあまりに眩しすぎて劣等感を感じ素直に見れなかったかもしれない。言うまでもないがアイドルとは羨望と嫉妬の対象だ。木更津キャッツアイの頃にも感じたのだが主演がジャニーズのタレントでヒロインがかわいいアイドルというだけで敬遠して批評眼が鈍る人は意外と多い。男なら亀梨、山下に女なら掘北に嫉妬するだろう、だからアイドルドラマにおいて男女のカップリングは難しい。下手に深い関係にすると双方のファンから反発があるからだ(あるアイドルが主演のドラマのカップルの女優の方には脅迫の手紙が来てノイローゼになったりしたらしい)。ここに執筆している俺等くらいの歳になると、「野ブタと修二くっつかないとなぁ~」「いや修二にはまり子だよ!」とか楽しくカップリングを夢想できるんだけど、同年代で信仰するかのようにアイドルを見て将来俺が掘北と結婚するんだ!とか思ってる童貞男子高校生や亀梨くんキャーとか思ってるジャニオタの女の子は気が気じゃないだろう。(それもあって原作にはない彰という要素を入れているのだろう、男女はいやだけど、やおい的な部分は許せる、という婦女子向けの意味で)意外に忘れがちだが、このドラマはアイドルドラマだ。第8話_a0048991_194956100.jpgどんなに高度なことをやってても主演はジャニーズで視聴率は彼らのファンである匿名の特に個性があるわけでもない美人でもかわいくもない普通の子らによって支えられている。だから野ブタが彼女らのシンデレラストーリーへの願望の体現なら蒼井かすみは「ファンの女の子たちのネガの部分」の象徴だと言っても言いすぎではないと思う。そもそも今まで存在を暗示されながら姿を現さず修二たちの行動の全てを知っている存在。これはそのまま我々番組視聴者の姿だ。(まぁここで評論家ならメタアイドルドラマとかもっともらしい言葉を付けるんだろうなぁカッコ悪いから言わないけど)そう考えると彼女が出てこないと、このドラマが終わらない理由は明らかだろう。
 蒼井かすみがどのような末路を辿るのか?
 悲劇かそれとも救済か、じっくり見守ろうと思う。 (成馬)

■ふたりのプロデューサー
 妨害者の正体=蒼井かすみの目的は修二たちの「プロデュース」を妨害し、逆に信子をドン底に突き落とすことだった。まさに「ネガティブプロデューサー」だ。「どうしてそんなことを?」と尋ねる修二に、蒼井は答える。「面白いからだ」と。自分は影に隠れて、何も関係ないふりして、他人の人生をコントロールするのが面白くてたまらないのだ、と。そう、この1点において、修二とかずみは同質の存在なのだ。第8話_a0048991_1951630.jpg他人をコントロールするゲームを楽しむプレイヤーであるといいう点において、いや、教室と言う猿芝居を、舞台裏から管理する「プロデューサー」であるという点において、ふたりは同質であり、同等の能力を有していると言える。ただし、その結果他人を幸福にできたらいいと思っている修二に対して、蒼井の心の中には悪意が渦巻いている。(市民)

■修二の弱点
「桐谷君の弱点は草野君と小谷さんだもんね」……蒼井は嘲笑う。そう、実際のプロデューサーとは違い、教室のプロデュサーは自分自身が常に舞台の上に立たなければならない。そしてそんなプロデューサー兼役者にとって、舞台である教室の中に、舞台から降りた場所で大切にしたい人間がいるのは間違いなく弱点なのだ。そう、教室に彰と信子がいる限り、役者としての修二はどうしても完璧ではいられないのだ(例:冒頭で教室で信子に話しかけるしかなくなった修二)……。それに対して、今の蒼井には教室に「弱点」がない。今回、ラスト直前まで蒼井にやられっぱなしの修二だが、今の二人にはこういう「力の差」が開いているのだ。もっとも、どっちが幸福かと言うと微妙、いや明らかなのだが。
 個人的には友情パワーで蒼井に反撃も美味しいが、できればプロデューサー・桐谷修二の知恵でも逆襲して欲しい所だ。(市民)

第8話_a0048991_19512679.jpg

■バイバイ・エンジェル(ネタバレ)
 余談だが、状況をメタ視できるふたりの登場人物(男女)がそれぞれ「探偵と犯人」という構図は、笠井潔の小説家デビュー作『バイバイ・エンジェル』を彷彿させる。全共闘崩れの日本人留学生(?)矢吹駆と新左翼テロリストの幹部をつとめる少女・マチルド―――状況をメタ視する力(階梯)においても、思想的にも同等の力を持つ駆とマチルド。同じ力をもつが故に、向いている方向(目的)が違う二人は相容れない存在だった。まさに今回の修二と蒼井である(笑)。駆とマチルドの対決は、僅かに力が上だった(その少し前にマチルドの位置を通過していた)駆の勝利に終わったのだが……果たして、修二と蒼井の対決の行方は如何に!?(市民)

■まり子の弁当
 前回、修二にきっぱり想いを拒絶されながらも彼の分の弁当を作り続け、代わりに突撃レポートに入ってきた彰に食べさせる。前回チェックポイントで、この二人が「成長」するために踏むべき経験の性質が似てそうだと思ってワンセットの記述をした矢先だったので、もしかして!という気になってしまった……。そして教室に居場所をなくして孤独になった修二の後ろにそっとお弁当を置いてくさまに・゚・(ノд`)・゚・。 。。思えば最初からゴーヨク堂書店で立ち読みできたこの子だけが、「噂」をめぐる情報戦が価値の優劣を決める隅田川高校の法則秩序の外側にいて、「たった一人でも信じてくれればいい」と、「信じたい方を信じる」という今回の野ブタの気づきを先取りしていたのであった。プロデュース組3人は何も心配してないけど、この子の処遇はどうする気なんさ、木皿泉! もしかして……、あの、ひょっとしてまさか彰っすか…? ……う~ん、彰ねえ……。(中川)

■彰の乗り越え方、埋めるということ
 まず写真を見た彰の反応の仕方「彰ぁ~ショック!」が彰らしくて面白い、なんと言うか「客観的にはここで俺はびっくりするんだろうなぁ、でも俺彰だし」って感じで驚いてる自分を客観視して彰らしく驚きを演じてるような、つまり彰ってそういう奴なのだ。おそらく彰は修二とは別の意味で彰というキャラを演じているのだろう。それが写真を見たことで彰というキャラと感情が揺れる自分との間で混乱している。その葛藤がとても伝わる。そして理性では彰らしく修二を信じて写真のことなど気にしないキャラで行きたい、でもうまく消化できない。そこで見なかったことにするにはどうすればいいか?と豆腐屋のおじさんに聞いた所ヌカミソを持ち出し埋めてみなかったことにしなさいといわれる。第8話_a0048991_19521520.jpg前回も少し触れたが「埋める」は木皿泉作品において多用されるモチーフだ、すいかでも思い出の品を埋めることで相手のことを忘れようとするシーンが登場する。それにしても埋めるというのは微妙な距離感で、これが燃やすや捨てるだと完全な抹消だが、「埋める」だと存在は残ってるのだ。消すほど思い切れないけど、一端保留にしたい、そういう彰の気持ちがよく現れているシーンだと思う。ホント後で笑い話になればいいなぁ。 (成馬)

■ジョン・ドゥ
 シッタカのキャリーの話やお化け屋敷、そしてキャサリン教頭の魔女的たたずまいもそうだが、野ブタには全体的にホラーのモチーフを多用されている。
 そう考えた時、蒼井かすみが自分から正体を現しむしろ積極的に近づき修二の価値感そのものを煽る展開には1995年に発表されたサイコホラーの傑作D・フィンチャー監督のセブンを思いださせる。キリスト教の7つの大罪もモチーフに異常犯罪を繰り返す犯人は物語の後半、自分から自首してきて、主人公たち刑事を挑発しある場所へ連れて行く、そして、そこで起こることこそ彼の真の目的だった。この犯人の特異なトコは犯行=異常殺人が目的でなく、主人公達刑事と私達視聴者の倫理を刺激し試すために現れ行動するトコだ、だから、この物語のラストは普通のミステリー以上に後味が悪く残っていく。もちろん、ここまで来てセブンみたいな後味の悪いオチになるとは思えないし思いたくないが。
 ちなみにジョン・ドゥとは英語で「名無しのゴンベェさん」みたいな意味らしい。(成馬)
 
■地球上にひとりでも信じる人がいれば
 キャサリン教頭は言う。「世界中にひとりでも信じる人がいれば、吸血鬼はいる」のだと。そして信子は蒼井と修二のどちらかを選ばなければならなかったとき「信じたいほう」=修二を選ぶ。
「一緒に信じてください」……これは、先述したように「価値観」を巡るこのドラマが出したひとつの結論だと言える。小さな世界の書き換え可能なルール(価値基準)しかないこの世の中、最後は「信じたいほうを選ぶ」しかないのだ。無論、この考え方は危険なものを孕んでいる。人々がそれぞれ「信じたいほうを選んで」ばかりいたら世の中は滅茶苦茶になってしまう。何でもかんでも「信じてしまえばいい」わけではない。だからこそ、このドラマは、ゆっくりとした歩みで3人のかけがえのない時間をしっかりと描いてきた。「信じられるもの」を手に入れることは、とても難しいことで、そして幸福なことなのだ。(市民)第8話_a0048991_202209.jpg

■紐でつながる三人
 「信じればどんなことも解決できる」「一緒に信じてください」クラスメイトの視線が集まる中教室の真ん中でまるで決意の儀式のように三本の紐を繋げる三人。
 野ブタ。の世界ではコミュニケーションは視覚化されお約束の共有をすることで仲良しクラスメイトを演じる関系性が展開されてたが、この視覚化はむしろそういう視線への反発であり、「私達は仲間だ」というクラスの冷たい視線への宣戦布告だ。冷たいクラスメイトの視線に対抗する3人という構図が明確な形で映像化されている。他にもこの回の修二と蒼井かすみの間に挟まれてたたずむ野ブタのように。一カットの登場人物の立ち居地だけで物語における相関関係を可視化するシーンが野ブタには多い。脚本に刺激される形で演出もどんどん先鋭化しているのを感じる。 (成馬)

# by nobuta2nd | 2005-12-08 20:02 | 第8話
2005年 12月 04日

『すいか』ロングレビュー

■「すいか」とは

「でも、私も逃げたい。親から、仕事から、こんな自分から、あらゆるものから、私も逃げたい」
「そりゃ、誰だってそうです。でもね。ここに居ながら、にげる方法が、きっとある、それを自分で考えなきゃダメです」     
                                  すいか第4話より
『すいか』ロングレビュー_a0048991_22233140.jpg

 すいかは「野ブタ。をプロデュース」の脚本家木皿泉とそのスタッフによって2003年夏に日本テレビの土曜9時枠で放送された連続ドラマだ。
 放送時は地味な題材で視聴率も低かったが今に至るまで熱狂的な大人のファンが多く
 04年には向田邦子賞も受賞している。
 もし「野ブタ。~」を見て華やかな学園モノの裏にある切ない部分、ある種の無常観に裏打ちされた優しさが気になった方がいらしたら是非見てほしい作品だと思う。
本稿ではそのささやかなガイドラインを提示したい。

 物語の内容は親友の失踪をきっかけにハピネス三茶という下宿に32歳にしてはじめて一人暮らしをすることになった早川基子を主人公に、彼女を通して大袈裟に言うなら「今・ここ」でどう生きていくか?を描いた話だ。
と言っても、描かれているのは地球の滅亡とか燃えるような恋愛みたいないわゆるドラマテックな題材は存在しない、基本的には小さな下宿で繰り返される、日々の暮らしだ。当時はあまりに地味な題材のためそれがドラマになること自体に驚いた、
 脚本の木皿泉は「やっぱり猫が好き」に脚本で参加している(ただし98年度版)が、あのドラマにあったような女の子のとりとめのないおしゃべりの日常感覚,マンガで言うと岡崎京子の「くちびるから散弾銃」や高野史子の「るきさん」を思いうかべてもらえると以外と近いのではないかと思う。ただし「やっぱり猫が好き」や「唇から散弾銃」は80年代バブルのど真ん中に放送されていて、80年代後半と2003年という舞台の違いは否応なく現れている。
 その違いは「今・ここ」で生きていくことの不安、あるいは社会の外へ逃げ出したいという願望だ。このドラマには普通に生きている人の不安が細かく描写されている。


■「世界の終わり」から「世界の外」へ

 物語は冒頭、中学生時代の早川基子と双子の姉妹(内片方はのちに再会する絆)がハルマゲドンの話をする場面から始まる。夕暮れ時、隣の家からのカレーの匂いを嗅いだ三人は、「この匂いもなくなってしまうのかなぁ」と切なくなる。そして舞台は現代に飛び
「それから20年後の2003年、夏。地球はまだあった」とクレジットが入る。
ハルマゲドンという非日常とカレーの匂いという日常の対比から来る、あらゆるものが終わりゆく無常観「野ブタ。をプロデュース」をご覧になってる方ならご存知のあの切なさは「すいか」の時点ですでに完成していたといってもいい。
 そしてこの世界を知る上で重要なのは、世界が終わらないという閉塞感だ。
 もしかしたら、何故「世界が終わらない」ことが辛いのか?今の若い子にはよく理解ができないかもしれない。俺が思春期の頃90年代前半はやや賞味期限が切れ気味とはいえノストラダムスの大予言はそれなりに人気で内向的な中高生にとっての一般教養だった。
 1999年恐怖の大王が降臨する。よくわからないが(当時は核戦争なんかがイメージされてた)1999年に世界は終わる、あるいは最後の戦いが始まる。その日に備えてがんばろう?
 そんないつか来るあの日を思えば、「今・ここ」をうまく生きられる。その意味で滅亡すら未来だった。人はどんな形であれ未来があれば、そこに向かって生きていける。
 だからこそ例えば鶴見済の「完全自殺マニュアル」のデカイ一発はこない。という言葉は強烈だった。これに岡崎京子のリバーズ・エッジで描かれた「平坦な戦場」そしてオウム事件以降に宮台真司が提唱した「終わりなき日常」、これは言うなれば未来という言葉の死亡通告に等しかった。
 あの時、世界滅亡という甘美な未来を私たちは失ったのだ。


■早川基子と馬場万里子

 さて世界が終わらない、いつもと同じことの繰り返しの世界で人はどう生きるか?
「すいか」には、その「今・ここ」に耐えられず、世界の外にはみ出してしまった人物と早川基子のような苦しみながらこちら側に止まってる人間とが対比になっている。

 早川基子の同僚の馬場万里子は信用金庫のお金を使い込み失踪し亀田絆は双子の姉、結は結婚前に自殺し柴本ゆかの母親は男と駆け落ちし出て行っている。そして崎谷夏子の余命わずかの親友が居て、30年前に燃えるような恋をしたリチャードもなくしている。ここで世界の外に飛び出した人間を主役に添えれば例えば桐野夏生の「OUT」や「グロテスク」のような作品になるのだが、「すいか」では対となるこちら側の人間の側から描写される。例えば絆と結の双子の姉妹が象徴的だが、残された彼女たちはまるで自分の半身が切り取られたような喪失感を抱えていて、彼女たちの失踪、あるいは死をどう受け入れるか、そしてどう踏み止まるかが主題となる。
 基子や絆が抱えてるものは同じことの繰り返しと思ってた世界の自明性を壊された痛みだ。日常が強固でびくともしないのに、確実に押し寄せてくる死や不安。馬場万理子の失踪をきっかけに早川基子はその(自分もそうなってしまうかもという)不安、喪失感を埋め、抗うため、まず一人暮らしをはじめ、今までやってこなかったこと、例えば友達にお金を貸したり、ペーパードライバー返上のためドライブに出かけたり、子供の頃から溜め込んできた貯金箱を開ける。
 それは世界の外に飛び出す、犯罪や駆け落ち、あるいは自殺に較べるとあまりに小さな、小さすぎることだが、その小さな物語の積み重ねが私達視聴者に与える印象はとても豊かで面白い。同じように毎回挿入される食事や食べ物にまつわるシーンも豊かだ。
 そして最終話、早川基子を迎えにきた馬場万里子は、その生活の片鱗を見てこう言う。


「ハヤカワの下宿、行った時さ、梅干しの種見て、泣けた」
「朝御飯、食べた後の食器にね、梅干しの種が、それぞれ、残ってて――何か、それが愛らしいといっていうか、つつましいって言うか―――あ、生活するって、こういうことだなぁって、そう思ったら、泣けてきた」
「掃除機の音、ものすごく久しぶりだった、お茶碗やお皿が触れ合う音とか、庭に水まいたり、台所で何かこしらえたり、これ皆で食べたり―――みんな私にないもの」
「私、そんな大事なもの、たった三億円で手放しちゃったんだよね」  

                                 すいか10話より


 そして馬場万里子は飛行機のチケットと基子が頼まれた買い物のメモを並べてどっちだ?と問う
「ハヤカワの人生だからハヤカワが選びな」
 早川基子はメモを選ぶ、そして馬場万里子に「次、家に来るときさ、これ買ってきてよ」
と鍋の食材を書いたメモを渡す。馬場万理子は「大事にするよ、こっちに戻ってくるための切符だからね」と言う。
「すいか」の世界は切なく不安だが優しいのはこういう所だ。彼女には戻ってくる可能性と向い入れる人がいるのだ。

■「終わる」場所

 また時を同じくハピネス三茶から長年住んでいた崎谷夏子が出て行くという。
 大学を辞めた彼女はこれをきっかけに世界に出て学ぼうという。これもまた世界の外に出る行為だが否定的には描かれておらず肯定的だ。そして旅立つ崎谷夏子に対して柴本ゆかは言う。

「約束してくれますか?例え、ここを出て行っても、死ぬ時は必ず戻ってくるって」

 「すいか」の世界には当たり前に残酷な事実が自明のものとして描かれている。
 それは全ての事柄には始まりがと終わりが出会いと別れが生と死があるという、どうしようもない事実だ、どんなに豊かになっても自由になっても「終わり」から私達は逃れられず、むしろ自由であるが故に「終わること」あるいは死や別離の恐怖が肥大化しているとすら言える。
 だが柴本ゆかのこの台詞には終わりや死は避けられないかも知れないが「終わる場所」は選べるのではないか?という希望のようなものが見える。それは人によっては悲しい終わり方かも知れないが、それでも自分で選べるということはすばらしいのではないだろうか?
 物語のラスト、早川基子も他の登場人物も決して日々の苦痛が解消されるわけではない、ただ、今まで同じと思ってた日々が少しづつ違う日でそれは一度きりなのだということだけは実感する。

遠くまで届く宇宙の光 街中でつづいてく暮らし
ぼくらの住むこの世界では旅に出る理由があり
誰もみな手をふってはしばし別れる
                    小沢健二 「僕らが旅に出る理由」より

 もしかしたら「野ブタ。をプロデュース」を今楽しんでいる中高生のコにはまだこのドラマは取っ付きにくいかもしれない、でも「野ブタ。~」を見て切なさや無常観から来る優しさを感じとったなら、是非ためしに見て、そして今回はあくまで紹介に止めたため引用できなかった、宝石のような言葉の数々に出会ってほしいと思う。それはきっと私達の日常を豊かにしてくれるだろう。  (成馬01)

# by nobuta2nd | 2005-12-04 22:23 | すいか