2005年 12月 15日
【今週のあらすじ】 修二たちのプロデュース作戦を邪魔する真犯人が信子の唯一の友達、蒼井かすみである事が判明し、修二は信子を傷つけまいと真実を頑なに伏せる。しかし蒼井は、修二の優しさや想いを利用し、3人にじりじりと接近してくる。 そんな矢先、蒼井が、プロデュース作戦に参加させて欲しいと言い出し、真犯人の秘密を守り通したい修二はその要求を受け入れる。修二、彰、信子の3人は、蒼井の強引なプロデュース作戦に振り回され・・・。 公式サイト 【今週のストーリー解説】 ■善良な市民 蒼井かすみとの決着がつく第9話。蒼井かすみとは言ってみれば修二たちがこれまで対決した「悪意」の象徴だった。人間には「人の幸せを素直に喜べない」ところがある。蒼井はそんな負の感情の象徴であり、常に被差別階級を目の見えるところにおいて安心したがる大衆の象徴であり、そして、状況をメタ視する力を悪用する「もうひとりの修二」でもある。 結局、蒼井は敗北する。修二にではなく、自分にだ。蒼井の「修二たちの友情ゴッコがむかつく」「凡庸な自分を覚えておいてほしい」という欲望は、決して修二たちを追い詰めることでは解消しない欲望だったのだ。だから結局、蒼井は「取り返しのつかないところ」まで行くしかなかった……。 物語は蒼井を一度殺す。おそして夢オチという反則スレスレの技を使って彼女を呼び戻す。そう、ここで死んでしまうこと、世界を、日常を終わらせてしまうのはあまりにも安易だからだ。その底なしの空虚さを抱えて、蒼井はこれからも生きていかなければらなない。彼女になくて、「もうひとりの蒼井」である修二がもっていたものは何か……。それをラストでキャサリン教頭は優しく諭す。 この物語は少年少女たちに厳しい。簡単にセカイを終わらせてくれない。だがその一方ではとても優しい。いい大人たちが、ほどよい距離で見守ってくれている。 正直、やや通俗的なところが目立つ第9話だが、若ければ若いほど、この物語に出会えたことを大切にしてもらえたらと僕は思う。 ■成馬01 率直に言うと、ここが「野ブタ。をプロデュース」の臨界点かなぁと思った。今更言うまでもないけど野ブタは優れた作品で自分が見てきたドラマの中でもベスト10に入る出来だと言っても言いすぎではないと思う。でもこの回、特に蒼井かすみの描き方次第ではよく出来たドラマ以上のものになる可能性があったのだ。ただそれは同時に今まで積み上げてきたものを徹底して破壊して終わる結果になりかねない、その危うい状況をなんとか、しのいで元の路線に軌道修正した形跡が多々見られる回だったなぁと思う。その意味で破綻すれすれの危うさが全体に漂っていた。 こう書くと読んでる人は蒼井の処遇、自殺が夢オチだったことに俺が不満を持ってるように感じるかもしれないけど、実はああいう流れになることは先週「セブン」を引き合いに出した時、何となく予測はしていた。夢オチ自体も四人が夢を見て、人型の後が残ってる描写によって精神的には死んだものと同じと捉えて納得している。ただそこに至るまでの過程というか展開が速すぎるし安易にまとめすぎな気がどうしてもする。あとクラスメイトと修二が野ブタのためといはいえ簡単に和解しすぎな気がした。それじゃ前回の絶望はなんだったの?そんなに簡単に回復するならどん底でも何でもないじゃんと思ってしまうと同時に結局彼らの鈍感さはジャッジされてないのだ。 今まで修二が対立してきたのは個人的な悪意でなく、もっとつかみ所のない匿名の集団が生み出す悪意だった。 一人一人はいい人で話せるんだけどそれが集団になった時得体のしれない鵺と対峙しているような気分になったことがないだろうか?無責任で飽きっぽく鈍感さゆえに暴力的な存在、あの場所で「野ブタ良いよなぁ」と言ってた人間がちょっと前までは平気で見下しいじめている。そういう存在の象徴として蒼井かすみがいたはずなのだ。(と同時に蒼井もまた彼らへの憎悪があったからこそメタ視点を持てたのだと俺は想像していた)せめて和解する前に彼らもまた試されるべきだったと思う。 この早急さが尺の都合なのか?木皿泉が深入りするのを避けたためなのか?はよく解らないが、そんな簡単に解消できる悪意だったの?と思春期には蒼井のように修二たちみたいな仲良しゴッコを嫌悪していた身としては思うのだ。 前回も書いたけど例えば自分が思春期にこのドラマを見て今のように素直に感動できたか?というと難しかったと思う。過ぎ去った過去だからこそ安心して感動できる部分はあるはずで、同時にソコに後ろめたさを感じていた。そういう欺瞞を壊すと同時に素直に野ブタへ行けない子をも取り込む最後の刺客こそ蒼井かすみだったんだけど・・・でもこれをこのドラマに望むのは筋違いな気もする、実際今回も例えばまり子が野ブタを励ますシーンにはホロっときたし、狭い共同体の人間ドラマとしての野ブタには不満はない。次週はいよいよ最終回なのでよく出来たアイドル青春ドラマとしてまとまってくれれば俺は満足だ。 ■中川大地 まあ、まだ高校生だしねキミたち……てな印象。 これまでの展開や演出でこのドラマが垣間見せてくれた「とてつもない悪意」との対決というテーマ性からすると、正直食い足りない思いは否めませんでしたが、教室という狭い小社会の中でのちまい情報戦がすべてになりがちな子供たちの人間関係を、いろいろなマジックアイテム(今回はブタのお守り。チェックポイント参照)に仮託させるかたちで、大人たちの示唆や「外部」からの気づきが相対化し、ヤバイところに行かせずに乗り切らせていくというこのドラマの構造の集大成にはなっていたので、納得は納得。チェックポイントで見ていくように、一見通俗的な友情物語に落としたようでいて、細かいところを見ていくとなかなか皮肉な批評性も感じとれる部分もありますので。 今回の焦点はこのドラマの世界観における「ラスボス」になるかもしれなかった「蒼井かすみとは何者か?」ということだったと思うんですけど、「匿名の悪意の象徴」であるとか「修二の陰画としてのネガプロorメタプロ」といった意味性を過剰に突き詰めず、結局よくよく見れば、年相応の了見の狭さや寂しさや浅はかさを抱えた、修二たちをけまらしがってるフツーの女生徒に過ぎないんだというところに落とした「馬脚さらし」の選択はそれはそれで批評的だから、最終的には肯定かな、僕は。ただ、シリーズ全体のクライマックスとして、カタルシス的には拍子抜けではあるんだけど。 でもま、オイラ的には一貫してマジックアイテムの助けなしに自力でどんどんイイ女になってくまり子だけでゴハン3杯はイケルから、それでもう全部まるオッケーじゃけ!! 【今週のチェックポイント】 ■ブタのお守り 前回母親からのおみやげで贈られてきたブタのお守りを修二が彰と野ブタに渡す所から今回は始まり、蒼井も修二の父親から余った一個をもらうのだが、これが最後の四人が同じ夢を見る伏線になっていたことに二度目に見た時に気づいた。そのことにはまったく触れてなく、修二にはわざわざ理由はわからなかったと解説させているが、野ブタが眠る瞬間、そして机のうずくまる蒼井の手にはしっかりブタのお守りが握られている。おそらく修二と彰もそうだったのではないだろうか? そう考えると蒼井がブタのお守りを地面に叩き付けたシーンは3人から離れたという意味以上に彼女の身代わりとして壊れたことがしっかりわかる。ちょっと雑な構成だと思ってた自分が浅はかだと思った。(成馬) ■「仲間に入れてほしい」 桐谷家からブタのお守りを持ち帰り「仲間に入れてほしい」と口にする蒼井。彼女の動機のひとつが「青春を謳歌している3人組がねたましい」というものであることを考えると、これは意外と本音に近かったのかもしれない。(市民) ■彰にかすみの正体を話す修二 自宅を訪ねてきて嫌がらせの写真を渡し、野ブタのプロデュースに加えるよう要求するかすみのことを、前回のように独りで抱え込まず、修二は早々に彰に相談する。この時点ですでに修二自身の葛藤のドラマはほとんど終了していることを示す場面だ。シリーズで積み重ねてきたものの成果をはっきりエピソード化し、焦点をかすみの側の内面性に絞り込む作劇のメリハリ感が心地よい。(中川) ■呼び出しを受けた彰のおいちゃんとゴーヨク堂店主 この回のテーマは「友情」ともうひとつ、「騙される」だろう。おいちゃんは旧友の旅館の女将に呼び出され、「まさか」と訝る気持ちと淡い期待を抱きつつも、大量の健康食品を売りつけられた結果に放心する。デルフィーネは寂しそうな声の友達に夜の校舎に呼び出されるが、キャサリン教頭に「騙されたんじゃないんですか」と水を向けられながらも、現れない呼び出し主のことを思いつつ、月を見上げる時間を満喫する。かすみに騙されたことを許せなく思いながらも、彼女が自殺しなかった事実に安心しながら、その心持ちに思いを馳せる野ブタたちの心境と響きあわせる演出である。(中川) ■蒼井のプロデュース方法 3人の仲間に入った蒼井が提示したプロデュース方法はスカートの丈をかえて髪も結んで話し方も女らしくしたらどうか?というものだった。しかし評判はよくなく、普通とクラスメイトから言われてしまう。つまり欠点と個性ってのは紙一重なのだ。蒼井はプロデュースを自分じゃない自分を演出するという、実はこの回で蒼井がやってることはかつての修二がやろうとしたことだ。だからある意味でこの回は総集編的な作りになっていて、今までの負の部分を全部蒼井が担当しているという作りになっている。こういうことをするとどうなるのか?は観ている方はわかると思うが蒼井というキャラクターが突出してしまうのだ。だからショックを受けて引きこもる野ブタの再生劇や修二とクラスメイトの和解といった今までなら重要だったはずのエピソードが全部かすんでしまっている。 それくらい蒼井が放つ負の魅力が出てしまったのが、この回をバランス悪くしてしまっている理由の一つだ。(成馬) ■「いいよ、子供で。俺はただのガキです」 野ブタに我慢させ、辛抱させて、素の自分とは違うキャラを演じさせようとするかすみのプロデュース方針に対し、修二は無理な我慢や辛抱が他人に優しくできないイヤな人間ができるんじゃないの、と意見。そんなのは子供の言い分だと馬鹿にするかすみに、修二は迷うことなくそう即答した。第1話で、自分以外の周囲の人間を全員子供だとみなしていた彼の初期状態の演出と、くっきり対応させた台詞である。(中川) ■青春なんかうそ臭い 嫌がらせの犯人は自分だと告白し、信子たち3人の「仲良しゴッコ」がウソ臭い、と罵る蒼井。気持ちはわかる。いや実際に高校生やっている人間が、ドラマや映画で「美しい青春」を見せられれば、誰でも多かれ少なかれ「ケッ」という気持ちになるはずだ。けれど、安心していい。大人になればきっと許せるようになる。何を隠そう、この僕がそうだった(笑)。 ここで蒼井がイソップ童話の「酸っぱい葡萄」のような反応をしてしまっていることは想像に難くない。事実このドラマ自体「ジャニーズ主演の青春ドラマなんて」と思っている人は多いと思うが、君たちが蒼井にならないで済むためには、まずこの「酸っぱい葡萄」反応をしてしまうレベルから脱却することだ。素直になりなさい! ……少し横道にそれたけど、蒼井とは、こういう「素直になれない視聴者」の代表でもあり、この脚本はすでにそういった反応さえも劇中に取り込んでいる。(市民) ■蒼井VSまり子 「桐谷君は、本当はこの娘とデキているんだよ」 という蒼井の挑発に、「だから?」とまり子は動じない。やはり、まり子というキャラクターは、修二や蒼井が参加している「学校内のキャラ売りゲーム」の外側にいる存在なのだろう。だからゴーヨク堂で立ち読みもできれば、修二に本音を吐かせることもできる。そして蒼井の攻撃も通用しないのだ。舞台の外に立つ人間に対して、プロデューサーたちは無力なのだ。(市民) ■野ブタとまり子 蒼井の正体を知った野ブタのところに偶然(またしても)通りかかるまり子。 ショックで立ち上がれない野ブタのほっぺに焼き栗を当てるシーンは今回もっとも心温まるシーンだ。 そしてまり子と野ブタの「ずっと嘘つかれたまま仲良くしてた方がよかった?」「嘘つかれるのさみしいもんね」「でも、ずっと嘘ついてのも寂しいかも」「そうかもね」というやりとりは蒼井と野ブタの関系だけでなく修二とまり子の関係についてのやりとりでもあるのだ。 そして、この後の修二とまり子のやりとり「本当のこと受け入れるのすごく辛いけどできないことじゃないから」というのも同様だ。(成馬) ■修二とクラスの和解 かすみが嫌がらせの犯人だった事実を知ってショックを受けた野ブタを戻ってこさせるため、心からの言葉で頼む修二を、わだかまりの原因となったタニ以下クラスの皆は暖かく受け入れ、彼らの励ましで野ブタは帰ってきた。安易といえば安易だが、あえてヒネた見方をすれば、これも教室内世論を競う情報戦のうちのひとつである。誰だって悪者にはなりたくない。ここで野ブタの復帰に無関心を示すことは、今やクラス内での孤立を意味することになるのだ。そうした世論の動向を見きった修二は、ドブ板選挙で誠意を訴える政治家のごとく謙虚に深々と頭を下げて、見事、クラスの付和雷同な団結をうながす心地よい友情物語を大衆にギブしながら、野ブタ励ましと自身の地位挽回というテイクを得たのである。そして、それだけの成果を得るためには、自分自身もまた提供する物語を心から信じていなければならないのだ。 クラスの連中がジャッジされないのも当然。大衆とはそういうものだという諦念を前提に、より深く巧妙な人心掌握術をプロデューサー桐谷修二が体得していくのが、この『野ブタ。』というドラマの本質だという見方もできるからだ。(中川) ■ビデオレターの善意 この9話で一番引っかかるのは、登校拒否になった信子を学校に呼び戻すために、修二がクラスのみんなに呼びかけて、ビデオレターを作成する所だろう。これは、これまで仮面を被ってきた修二がはじめてクラスメートに真心で接して、それが通じるという感動的なシーンなのだが、このクラスメートたちは転校直後の信子をいじめ、そして修二たちのプロデュースによってあっさり手のひらを返すような連中である。と、いうより、基本的にこのドラマでは大衆と言うものはそう描かれている。なので、ここで急にクラスメート(大衆)が「ほんとうのことはどうだっていい/表面的なイメージだけが大事」な連中から「真心が通じる相手」に突然変化してしまっているのだ。ここはもう少しシビアに描かないと一貫しない。もちろん、彼等が信子をいつの間にか見直しているのはあくまで修二たちのプロデュースの結果なので、最低限押さえなければいけないところは押さえているのだが……。(市民) ■平気で笑っている蒼井 と、思いきや、ビデオレターに励まされて登校してきた蒼井は満面の笑顔で信子を迎え入れる。この描写はこれまでの「野ブタ。」らしい(笑)。蒼井の屈託のない笑みに心底ぞっとする。(市民) ■形勢逆転 最後の切り札(嫌がらせの犯人は自分だと暴露して信子を傷つける)を失った蒼井は、逆に嫌がらせの事実を暴露されることを恐れて追い詰められる。修二もそうだが、蒼井もまた、攻撃(表舞台には出ず、裏から他人をコントロールする)ことには長けているが、防御に回ると脆い。プロデューサーというのは、言ってみれば『ジョジョの奇妙な冒険』の「スタンド使い」のようなもので、本体を知られると弱いのだ(笑)。(市民) ■「覚えててほしい。嫌な思い出でも私がいたことを覚えていてほしい」 この前後にどうして人を試すような真似をするんだ?と彰は問い、修二は「こいつはこういうやり方しかできないんだ」という。観ていておしいのは前回予感させた修二と蒼井のドラマがここくらいしかなく(「桐谷くんは何でもお見通しね」という台詞にはあなただけが私のことをわかってくれるはずという期待に俺には聴こえてしまう)蒼井と野ブタの関系に焦点が行ってしまったことだ。 たしかにこのくらいの女の子にとって女友達は場合によっては恋人以上に大事な存在で、裏切られることはかなりショックのはずだが、今まで見ていて修二や彰に較べて濃密な関系を蒼井と野ブタが築けたとは思えないのだ。この回のテーマは明らかに友情や友達だが、それがどうも白々しく見えてしまう。 結局蒼井というキャラが作り手が決めた枠組みをはるかに超えて動きすぎているのだ。 さて、そんな蒼井のバックボーンや動機は結局明らかにされなかった。 あえて動機らしい動機といえば上の「覚えててほしい」だ。これは蒼井が匿名の悪意の象徴と考えれば納得のいく動機だが、物語だけ追ってる人にはさっぱりわからないだろうなぁと思う。 でも個人的には凄く納得がいってる動機だ。 (成馬) ■蒼井の動機 蒼井は信子に嫌がらせをした動機をこう語る。「たとえ嫌なことでもいいから、自分の存在を記憶していてもらいたかった」と。この発言は一見わかりづらい。だが、「野ブタ。」のテーマを考えていくと、ぐっとわかりやすくなる。 修二たちが戦ってきたのは、自分より弱い存在を蔑むことで、自己保身を図る「普通の人たち」の「普通の心情」だった。「自分」を持たず、なんとなく周りの空気に合わせてものごとを判断する「普通の人たち」の嫌らしさ……修二たちの「プロデュース」はそんなものとの戦いだったと言える。 そして、そこに立ちはだかった蒼井かすみとは能力的には修二と同じタイプのものを持ち、テーマ的にはその「普通の人たちの無自覚な悪意」を象徴する存在だったと考えればいい。 蒼井のような「普通の少女」が、このドラマで描かれているような「青春」を謳歌するのは難しい。事実、このドラマを、実際に高校に通っている10代の視聴者たちの中には現実の自分の学園生活と照らし合わせてしまい素直に見れない人も多いだろうと思う。そう、この「ねたましさ」こそが蒼井なのだ。決して物語の主役にはなれない「凡庸」な存在が孕む僻みの感情こそが「たとえ悪役でもいいから特別な存在になりたい」という蒼井の動機としてここでは語られている。 そう、蒼井というのはこのドラマ(青春、他人の幸福)を「素直に見れない奴等」の象徴なのだ。(市民) ■蒼井の自殺? そして、そんな蒼井を信子は「許せない」と言う。ここでダメなドラマだったら、蒼井の動機はわかりやすい「過去のトラウマ」になっただろうし、信子はそのトラウマに同情して蒼井を「許して」しまっただろう。だが、このドラマはそんな絵空事には逃げない。信子は「許せない」と宣告し、蒼井は絶望して屋上から身を投げる。 だが、これだど話が重たくなりすぎてしまうと判断したのだろう。 蒼井の自殺シーンは夢だった、というオチがつく。だが、4人が揃って同じ夢を見ていたこと、学校に蒼井が落下した形跡がのこっていたことなどから、蒼井は実際に自殺してしまって、そこから何らかの不思議な力で時間が巻き戻ったのではないか、と思わせる演出になっている。 これは、第7話、8話でさんざん「回復不可能」というモチーフを繰りかえされてきただけに強烈だ。木皿泉は本当は蒼井を殺したかった、蒼井のような存在はこれくらい救われない存在なのだ、と思っているのではないか……そう思わせる描写だ。 ラストのキャサリン教頭と蒼井の会話は更に示唆的だ。 「取り返しのつかない場所へ行ったことありますか」 と尋ねる蒼井にキャサリン教頭は「ある」と答える。そして「友達が連れ戻してくれた」と。ここにはアイデンティティと言うフィクションの置き場はローカルな人間関係に置くしかないという作者の確信が見て取れる。その足場を持たない蒼井は、やはり本来は「帰って来れない」人間なのだ……。いや、もしかしたらあのブタを手にしている間だけ、蒼井はニセモノでも「友達」をもっていたのかもしれない。だから彼女は奇跡的に「戻ってこれた」のではないだろうか。(市民) ■「取り返しのつかない場所へ行ったことありますか」 取り返しのつかない場所を仮の社会の外や彼岸と言うなら、前作「すいか」でも繰り替えされたモチーフだ。ただし「すいか」の場合は取り返しのつかない場所へ行った友達という現象が先にあり、自明性の壊れた日常をいかに再構築していくか?がテーマで、つまりそこがスタート地点だった。 対して野ブタでは、つねに、その瞬間は回避され悲劇は起こりえるかもしれない可能性としてのみ現れる。それは多分木皿泉の(作中の大人に象徴されるような)良心的な部分なのだが、一方で最後の最後で一番ヤバイトコに踏み込めない限界として表れしまったように感じる。(成馬) ■ヨコヤマ復帰の嘆願 忘年会の席で酔っぱらって校長に暴言を吐き、勢いで意に反して自ら辞表を提出してしまった横山先生が辞めなくてすむようにするために、生徒たちは厖大な嘆願書をでっちあげ、ヨコヤマの辞職を食い止める。要は、実は誰も望んでいないヨコヤマ辞職を生徒の熱意が食い止める、という安っぽい物語をあえて演出する儀式が執り行われたわけである。蛇足的に差し挟まれた、このエピソードの意味とは何か? そう、野ブタ復帰の流れにまで至る、「一致団結するクラスの友情と善意」の予定調和性の戯画である。わざわざかすみとの葛藤の本筋の物語が終わった後にこうした挿話を入れ、修二にふたたび「桐谷修二」のセルフプロデュースを決意させるあたりには、感動のクライマックスにあってなお、通俗性を脱臼する教室世間への乾いた批評性が生きていることが見出せる気がする。(中川) ■「もう一度やってみようかな……」 あのクラスで、もう一度「桐谷修二」を作り上げていこうという修二。「また、人気者を目指すの?」と問う信子に、修二は答えない。今度の修二は人気者を目指しはしないだろう。きっと、彼は彰と信子と築いたような実体のある関係を、他の人とも時間をかけて築いていけたらいいと思っているのだ。しかし、その修二の「次」のフィールドは残念ながらあのクラスではなく……。(市民) ■そして、別離へ エンディング近く、修二の父親が突然の転勤を告げる。修二はこのまま転校してしまうのか……? 最終回はやはり、シリーズを通して繰り返されてきた「楽しい時間はすぐに終わる(だからこそ美しい)」というモチーフの通り「終わる」ことがテーマになるのではないかと予測される。(市民)
by nobuta2nd
| 2005-12-15 22:25
| 第9話
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