2005年 12月 22日
公式サイト ■善良な市民 前話(第9話)で「ラスボス」蒼井かすみとの決着がつき、最終話(第10話)は拡大枠でじっくりと3人組の時間の「終わり」が描かれる。父親の転勤で修二は学校から去り、彰と信子はそれを受け入れて次のステージに進んでいく。そう、「野ブタ。」の事実上の最終回は第9話であり、この第10話は「次」へ行くための回なのだ。この物語を通して、「世界のすべてを恨んでいるような」存在だった信子は「笑えるように」なり、教室の中のキャラ売りゲームにしか関心のなかった修二は、そのゲームの限界を知り「どこへ行っても生きていける」という確信を手に入れる。楽しく、美しく、特権的な時間は終わりを告げたが、それと引き換えに彼等は「次」へ行くための武器を手に入れたのだ。 少し突っ込むと、このドラマの主人公はやはり修二だったのだと思う。そう、これは冒頭、教室の中の小さなゲームの有能なプレイヤーにすぎなかった修二が、物語の最後では世界に無数にちらばる「小さなゲーム」のどれに参加しても「生きていける」(「勝てる」ではない)ようになるまでの物語に他ならない。前回までのようなスリリングな展開を期待していると肩透かしを喰らうが、今回はいわばこれまで観てくれた視聴者に対するサービス&総まとめだ。じっくり味わって感慨に浸って欲しい。 ■成馬01 本筋の話は前回8,9話で終わっていて、この回は後日談という感じで終始おだやか。 前回までの緊張感を覚えてるとあまりの平和加減に拍子抜けするが むしろここに木皿泉はたどり着きたかったんだろうなぁと最後の幸福感を満喫しながら思った。 多分大方の視聴者が「?」と思うのは修二の転校先に彰が付いてきたことで、「いいの?」と思っただろうけど、かつて修二と彰が居た机がポツンと残る教室と一人になった(正確にはまり子と歩いているのだが)野ブタを見て、一瞬修二と彰は最初から居なかったというオチなのか?と疑った。もちろんそんなことはないのだが、彼ら二人は大島弓子がよく描いてたような10代の何もない不安な女の子にとっての架空の王子様のような存在だったのかなぁと思った。 まぁそれは若い視聴者にとってのアイドルなのだが、最後の最後で正しいアイドルドラマへと帰還したなぁと思う。そしてラストの「俺たちは何処ででも生きてゆける」というモノローグを聴いて「あぁ平坦な戦場から、やっと此処まで来たんだ」と納得した。 それにしてもラストの廊下を走る野ブタのカットから海辺の修二と彰のシーンへの流れはすばらしい、つい脚本の言葉の良さに関心が行きがちだけど、それをうまく咀嚼した演出のすばらしさも、この作品を支えた要因だったんだなぁと再確認させられた。 とにかく幸福な「お別れ」であり最終回だったと思う。 ■中川大地 映画や小説に比べて、民放連続ドラマというメディアのどうにもツラいところは、リアルタイムの視聴者の反応が、物語の要請とは関係なしに表現の枠が、内容や尺の面で大きく影響を受けてしまうこと。下手に人気が出たために、物語的にやることが残っていないのに「最終回○分拡大スペシャル」にせざるをえなくて、各登場人物への「キャラ萌え」だけが目的の不要なエピソードを延々つなげている感は否めず、伏線と主題と演出が緊密に設計されていた『野ブタ。』の構成美に魅せられていた身としては、最後にちょっぴり残念な気分にさせられてしまいました。まあ、話自体は前回で決着がついているし、あとはこれまで応援してくれた視聴者に向けて余韻を提供するファンサービスとしては充分に役割を果たしてるんですけどね。 ただ、『木更津キャッツアイ』が最終回でも「いつも通り」を踏襲しつつ、きっちり練り込まれた仕掛けで最後の最後まで主題的・演出的なテンションの落ちないさまを見せてくれたことを思い起こすと、その水準を超えられなかったという点では不満は不満。もっとも、『木更津』と同じく第9回を事実上の最終回と考えて今回は『日本シリーズ』みたいなオマケと考えれば見劣りしないで済む……なんて考えてしまうのは我ながら贔屓の引きだおしも過ぎるか(笑)。 しかし、すっかり健気で可愛い不器用キャラとして上がった野ブタ、順当に優しい気配り屋に大成した修二に比べ、あくまで子供チックな快楽原則で最後のワガママを通してしまう彰をオチにしてくれたことは、寂寥感一辺倒にならずに彼らがまだ成長途上な青春のただ中にあるってことで良かったのじゃないでしょうか。信子はそして、修二と彰(とかすみ)を媒介に、教室内の空気に流されないまり子という最強の青春アミーゴを得て。 屋上から3人が眺めてきた空は、一貫してずっと黄昏のオレンジ色だったけれど、旅立つ日の後は抜けるような青空をお互い見上げ合う絵が、すごく綺麗なラストだった。 【今週のチェックポイント】 ■サンタの夢 冒頭、夢の中でサンタに欲しいものを尋ねられた野ブタが、自分は欲しいものがないから修二に振り、次は修二の夢に出てきたサンタを彰の方へと振るが、彰は思わずカレーパンと口走ってしまう。案の定、その話をしていた直後に商店会の催しでサンタの格好をしていたおいちゃんがカレーパンを持ってくるあたり、お互いの夢が通じ合って実現化する前回のブタのお守りの効果が続いている(?)わけだが、そこでバトンを野ブタに回して綺麗に「友情の円環」と作らなかった彰が責められて二人に速攻で帰られてしまうのが可笑しい。このあたり、後のクリスマスでのプレゼント交換の伏線……というほどでもない前フリである。(中川) ■下の名前を覚えてもらってなかった彰 屋上に呼び出した修二と野ブタへの彰の改めての頼み事が、「下の名前で呼んで」。で、「下の名前って何?」というお約束すぎる修二(笑)。ここで最終回にして初めて野ブタに名前で呼んでもらうわけだが、「アキラッッ!」と怒ったような不自然でぎこちない発音になってしまうあたりの萌え設計はあざとすぎるだろ演出ッ!! とにかくこの最終回、実はなにげに全編にわたってアキラッッ!のヨゴされっぷりが際立っている。(中川) ■不発のドリカム状態 この仲良し3人組はいわゆる「ドリカム状態」にある。彰は信子が好きなのだが、7話以降の描写を考えると信子が好きなのは明らかに修二の方だ。これはサークルクラッシュを期待させる(笑)展開なのだが、勿論本作では不発に終わる。この最終回でも、お守りをどちらに渡すかで迷った信子は結局どちらにも渡さず川に投げ捨ててしまう(その直前に彰に譲ろうとする修二もポイント)。これは後半、恋愛がこの「美しい関係」(笑)の終わりをもたらすものとして描かれている(彰が恋心に気付くことで関係が壊れかけて、諦めることで持ち直す)ことを考えると興味深い。彰も信子も、恋愛に鈍感なのではなく十二分に自覚していながらもそれをあえて引っ込めているのだ。恋愛よりも大切なものがあるのだとでも主張するかのように、3人のドリカム状態は壊れることなく終わりを迎える。……まあたしかにここで三角関係でドロドロしたら、一生の友達にはならないだろうけどね(それはそれで青春だけど)。 (市民) ■3人の打ち明け話 おいちゃんの家で、「あのさ」と同時に真情を告白しようとする3人。野ブタは、突撃レポートで人気者になるのがいい加減辛いのでそれを辞めたい、と。彰は、一度はぬか壷に封印して忘れようとした修二を後ろから抱きしめる野ブタの件を、やっぱり訊ね直そうとするが、壷の中からなかなか写真が見つからない。そして、それを彰が探す間に修二は、年明けには転校して皆とお別れになることを話す。ショックで飛び出す野ブタを彰は追い、公園で悲しみに暮れる野ブタの背を、あの写真のシチュエーションと同様に抱きしめられる位置まで来るのだが、ついに彰にはそれは出来ず、彼女にマフラーを巻くだけに終わる。 思えばここでその背を抱いて彼女の中に踏み込み、残される二人の世界を築くという選択が可能なだけの成熟を彰ができていなかった時点で、彼がラストにああいう行動をとるのは必然だったのである。(中川) ■プロデュース成功? お昼の放送番組が決定打となって、ついに人気者になった信子。しかし信子はその状況に戸惑い、番組を降りたいと漏らす。そしてプロデューサーである修二自身「人気者になるのがいい、というのがわからない」と漏らす。たしかに修二たちのプロデュースは成功した。だが、それはプロデュースの課程でもっと大切なものを手にいいれた彼らにとっては既に「どうでもいいこと」だったのだ。 ■野ブタの巫女バイト で、「寂しいのは私たちじゃなく修二の方だ」と独力できっぱり立ち直った野ブタは、修二のために何ができるかと問うが、これに横からアイディアを出したのも彰。巫女さん姿で野ブタパワー注入してほしい、と……。そう、優しさや思いやりは一番だけど、自己の欲望や快楽原則のカタチを自覚できてないゆえに、自分との関係を築きたがってる相手に適切な要求ができない修二と、前の瞬間には思ってもいなかったような欲望の形象化が可能で、ときに甘えが暴走してしまう彰とはまさに「二人でひとつ」なのだ。 そして即座に「たのもー!」と実はデルフィーユの実家だった神社を訪ねて巫女ちゃん化してしまう野ブタの天然系の萌え属性は、ほぼ彰の潜在欲求が開発したものだ。彼女が将来、これを自覚的・無自覚的に駆使するようになると……そら恐ろしい置きみやげをしてくれたものだ。(中川) ■神木を折ったバチ 誤って神社の神木を手折ってしまった野ブタ。そのバチが彼女の一番大切な人に当たってしまうのだという。バチを回避するお札を、修二と彰のどちらに渡すべきか迷った挙げ句、川に投げて「3人で一緒にバチ当たろう」と覚悟する彼らだが、実際に階段から転げ落ちて大けがをするバチかぶったのは、なんとシッタカだった……。このへん、第5話以来放りっぱなしだった彼を意外なオチに使った単なる肩すかしギャグとも思えるが、あえて深読みすれば、シッタカが代わりにバチかぶることでじいさん介抱で株を下げた件を清算し、修二も彰もいなくなる今後の教室で彼が野ブタの一番大事な人になれる可能性を回復するという「救い」なのかもしれない。(中川) ■誰かのために 父親の「ここに残ってもいいぞ」という提案を拒否し、結局自分を殺して修二は転校を決意する。周囲の人間は彼に言う「もっと自分のことを考えていい」と。しかし修二は言う、自分も信子のために何かをしているときが充実していた、だから「誰かのために」でいいのだ、と。修二がこの数ヶ月で得たもの、学校の中でのキャラ売りゲームの外側で得たものは、要はこういうことだったのだろう。そう、この最終回のテーマを強いてあげるならこの「他の誰かのために」という思いに他ならない。だから修二は転校を選び、彰は修二を追いかけ、信子は自身の想いを封印して彰を修二の元に送るのだ。(市民) ■「考えとく」 前の一件以来学校を休んでる蒼井の家に向かう野ブタ。 「また小谷さんのこといじめちゃうから」という蒼井に対し「いじめられても平気になるから」という野ブタ。このシーンの前に修二が誰かのために動いてる時のほうが自分らしい、あいつもそうなんじゃないか?と言うが、思えば野ブタはいつもそういう対応(嘘付かれたらついたほうも辛いんじゃないか?、引っ越す修二の方が辛いんじゃないか?)をとっていた。そこら辺が最後の最後でいじけてし引きこもってしまわなかった野ブタの資質だったんではないかと思う。 そしてその野ブタに対してわかったでなく「考えとく」と答える蒼井。安易な和解は描かない代わりにその予兆をしめした時点でギリギリOKかなぁと思う。 (成馬) ■キャサリンの餞別とクリスマスのプレゼント交換 終業式の日、3人に二つ集めると幸せになれるという人形を一つずつ渡し、運と努力でこれを増やして、他の人に幸せを分けてあげられる人間になるよう、キャサリン教頭は最後のメッセージを伝える。そしてクリスマスの夜、プレゼント交換をした3人ともがそれぞれ自分が貰った人形を贈ったため、結局3人の手元には一つずつの人形が残る。努力だけでなく、自分の力ではどうにもならない運をも幸せへの道にカウントするあたりが、このドラマらしい価値観だ。(中川) ■まり子との最後の時間と野ブタ ホワイトクリスマスで窓の外を眺めながら極めてイイ雰囲気で、「好き」という気持ちを教えてくれた野ブタに言葉にしつくせない感謝を告げていた修二が、最後に口にしたのはまり子への気持ち。「まり子はどうするんだよ、まり子は!」とハラハラしながら二人の語らいを見守っていた全国のまり子派は、キターー(゚∀゚)ーーッ!!と快哉をあげたことであろう(笑)。 かつてまり子とテキトーなその場繕いで交わした「海へ行く」約束を、教室の手作りデコレーションと彰・野ブタが協力しての波の音放送で果たし、自作の弁当を食べさせてあげる修二に、こっちのバーチャル乙女心はキュンキュンキュンキュンときめきっぱなしだっつーの(;´Д`)。「次に会うときには、もっとまともな人間になっているから」という彼の言葉も、まり子という女、否、人間の価値をよくわかっていて、清々しいことこの上なし。 修二が最後に学校で見たのが、仲良くするまり子と野ブタだったという光景も心に染みる。うんうん、好きな女の子たちが喧嘩せず仲良くしてるのって、ホント幸せな気持ちになるもんだよね……。(中川) ■すべてのゲームに勝とうとするな ラスボスを倒した後の長いエピローグである第10話には、セリフで直接テーマを語ってしまう大サービスが満載だ。横山先生が転校する修二に贈った言葉はその代表例と言ってもいいだろう。「お前の悪いところはすべてのゲームに勝とうとすることだ」……そういって横山先生は修二を「スペードのエース」にたとえる。たいていのゲームにおいて最強のカードである「A」。しかしゲームによっては「2」の方が強かったりもするし、「大富豪」では革命も起こる。だから横山は言う「自分の勝てるゲームで勝負しろ」と。……これは第1話から繰り返されてきたこのドラマの基本的な世界観をついにセリフで言ってしまった場面だ。 世の中は、異なるルールをもつ小さな世界の集合体であって、その小さな世界ごとのルールをメタ視したものが勝つ……。修二はメタ視するところまでは出来ていたのだが、それで満足してしまい、自分のやりたい事、欲しいもの、適性などを吟味して「自分に合ったゲーム」を選び取るという可能性が視野に入っていなかったのだ。日本語でこういう人間を「器用貧乏」という(笑)。 (市民) ■修二を見送るクラスメイト 普通のドラマなら感動の別れのクラスメイトに見送られるシーンだが、今までの展開から考えて白々しさを感じる人もいるかもしれない。 まぁそこら辺は九話の中川さんの分析にもあるように、そもそも、大衆とはその場の感情のみで動き後に引きづらない忘れっぽい存在なのだと作り手が思ってるのだろう、結局修二たちが翻弄されてたのは蒼井でなく、この無責任さで、これには誰もかなわなかった(まぁ戦う必要もないのだが)。むしろここで大事なのは修二が取り囲むクラスメイトでなく後ろにいる彰と野ブタ、そして外れの方にいる蒼井に目をやることで、この距離感と視線の交差がそのまま今までの人間関係の縮図になっている。まぁこれ自体、生徒役のコたちへのボーナスカットみたいなものなのだろうが、修二の中の優先順位が露骨に出ててドライなシーンに仕上がってるなぁと思った。(成馬) ■修二の転校先に転校する彰 親父の仕事のやむなき都合で望まぬ転校をした修二を追って、親父のスネをかじってカネの力でヘリまで出させてムチャな望みをかなえてしまう彰をどうとらえるか。第6話で自ら望んで道ばたの10円玉をやることにし、第7話で「諦める」ということを知るという成長を、お前は果たしたはずではなかったのか! ……というようなボンボンな彼の相対的な未成熟へのツッコミも庶民感覚では当然であるが、それは違うのである。第1話で、自分の欲望について修二以上に空虚で、ただ父親の決めた不自由な道を歩むのが嫌だというだけだった彼が、野ブタと二人の世界を築くには男を磨き足りていない自分を自覚し、その足りないところを補ってくれる「二人でひとつ」ともいえる半身を、自分の境遇で頼りうる最大限の力にアクセスしてでも、遮二無二求められるようになったのは大きな進歩なのだ。おそらく画面の裏では、親父と大喧嘩しながら筋を通し、将来シャチョさんになる覚悟もそれなりに固める「己の身のアキラめ」をしたうえでの選択だったことは、想像に難くない。 庶民には庶民の、金持ちには金持ちの相異なるリアリティがあり、それぞれなりのオーダーで現実のままならなさ(たとえば、彰の家の財力をもってしても、修二の父の転勤を取り消しにはできない)に立ち向かう成長像がある。つまり体験に恵まれない金持ちは、まっとうな人間になるために、若いうちの苦労さえカネを払ってでも買わなければならないということだ。そして彰にとってはこれも、横山先生の言う「自分の勝てるゲーム」を探すやり方のひとつなのである。(中川) ■野ブタスマイル 金の力にモノを言わせて強引に修二のあとを追ってきた彰。物語の余韻を台無しにしかねない大どんでん返しのギャグだが、これは最後、修二ではなく信子を一人に戻したかったのだと思う。ラストシーンの直前、ようやく獲得した笑顔を見せる信子の傍らには誰もいない。しかし、信子の物語としてはこれでいいのだと思う。彼女はやっとひとりで歩けるようになったのだ。(市民) ■川から海へ 都立隅田川高校を後にした修二と彰の新天地は、どこかの浜辺の県立網五(アミーゴ、ですね)高校。川のほとり(リバーズエッジ)に野ブタの居場所を作って旅立った彼らは、今度は大海をのぞみながら、早速ヤマザキと海ガメのために奔走する。第1話で川を下って、どこかに新たな生き場所をみつけ、また誰かの大事な心の支えになっているかもしれないあの柳の木のように。(中川) ■どこへ行っても生きていける ラストシーン「どこへ行っても生きて行ける」と独語する修二。そう、今の彼は自分が拘泥していた小さな世界のローカルルールの外側に、しっかりと価値をみつけている。それが何かはもはや語る必要はないだろう。どんな場所のゲームにアクセスしても、ゲームのルールに左右されない確かなものを既に手に入れた修二は「どこへ行っても生きていける」のだ。 (市民) ※近日 このメンバーで「野ブタ。」総括座談会を企画中ですので、『野ブタ。』ファンのみなさんはお楽しみに! このブログでもお知らせします。
by nobuta2nd
| 2005-12-22 23:23
| 第10話
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