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週刊 野ブタ。

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2005年 12月 22日

第10話


 公式サイト



■善良な市民
 前話(第9話)で「ラスボス」蒼井かすみとの決着がつき、最終話(第10話)は拡大枠でじっくりと3人組の時間の「終わり」が描かれる。父親の転勤で修二は学校から去り、彰と信子はそれを受け入れて次のステージに進んでいく。そう、「野ブタ。」の事実上の最終回は第9話であり、この第10話は「次」へ行くための回なのだ。この物語を通して、「世界のすべてを恨んでいるような」存在だった信子は「笑えるように」なり、教室の中のキャラ売りゲームにしか関心のなかった修二は、そのゲームの限界を知り「どこへ行っても生きていける」という確信を手に入れる。楽しく、美しく、特権的な時間は終わりを告げたが、それと引き換えに彼等は「次」へ行くための武器を手に入れたのだ。 第10話_a0048991_239437.jpg
 少し突っ込むと、このドラマの主人公はやはり修二だったのだと思う。そう、これは冒頭、教室の中の小さなゲームの有能なプレイヤーにすぎなかった修二が、物語の最後では世界に無数にちらばる「小さなゲーム」のどれに参加しても「生きていける」(「勝てる」ではない)ようになるまでの物語に他ならない。前回までのようなスリリングな展開を期待していると肩透かしを喰らうが、今回はいわばこれまで観てくれた視聴者に対するサービス&総まとめだ。じっくり味わって感慨に浸って欲しい。

■成馬01
 本筋の話は前回8,9話で終わっていて、この回は後日談という感じで終始おだやか。
前回までの緊張感を覚えてるとあまりの平和加減に拍子抜けするが むしろここに木皿泉はたどり着きたかったんだろうなぁと最後の幸福感を満喫しながら思った。
 多分大方の視聴者が「?」と思うのは修二の転校先に彰が付いてきたことで、「いいの?」と思っただろうけど、かつて修二と彰が居た机がポツンと残る教室と一人になった(正確にはまり子と歩いているのだが)野ブタを見て、一瞬修二と彰は最初から居なかったというオチなのか?と疑った。もちろんそんなことはないのだが、彼ら二人は大島弓子がよく描いてたような10代の何もない不安な女の子にとっての架空の王子様のような存在だったのかなぁと思った。
 まぁそれは若い視聴者にとってのアイドルなのだが、最後の最後で正しいアイドルドラマへと帰還したなぁと思う。そしてラストの「俺たちは何処ででも生きてゆける」というモノローグを聴いて「あぁ平坦な戦場から、やっと此処まで来たんだ」と納得した。
第10話_a0048991_23101883.jpg それにしてもラストの廊下を走る野ブタのカットから海辺の修二と彰のシーンへの流れはすばらしい、つい脚本の言葉の良さに関心が行きがちだけど、それをうまく咀嚼した演出のすばらしさも、この作品を支えた要因だったんだなぁと再確認させられた。 とにかく幸福な「お別れ」であり最終回だったと思う。

■中川大地
 映画や小説に比べて、民放連続ドラマというメディアのどうにもツラいところは、リアルタイムの視聴者の反応が、物語の要請とは関係なしに表現の枠が、内容や尺の面で大きく影響を受けてしまうこと。下手に人気が出たために、物語的にやることが残っていないのに「最終回○分拡大スペシャル」にせざるをえなくて、各登場人物への「キャラ萌え」だけが目的の不要なエピソードを延々つなげている感は否めず、伏線と主題と演出が緊密に設計されていた『野ブタ。』の構成美に魅せられていた身としては、最後にちょっぴり残念な気分にさせられてしまいました。まあ、話自体は前回で決着がついているし、あとはこれまで応援してくれた視聴者に向けて余韻を提供するファンサービスとしては充分に役割を果たしてるんですけどね。第10話_a0048991_23105265.jpg
 ただ、『木更津キャッツアイ』が最終回でも「いつも通り」を踏襲しつつ、きっちり練り込まれた仕掛けで最後の最後まで主題的・演出的なテンションの落ちないさまを見せてくれたことを思い起こすと、その水準を超えられなかったという点では不満は不満。もっとも、『木更津』と同じく第9回を事実上の最終回と考えて今回は『日本シリーズ』みたいなオマケと考えれば見劣りしないで済む……なんて考えてしまうのは我ながら贔屓の引きだおしも過ぎるか(笑)。
 しかし、すっかり健気で可愛い不器用キャラとして上がった野ブタ、順当に優しい気配り屋に大成した修二に比べ、あくまで子供チックな快楽原則で最後のワガママを通してしまう彰をオチにしてくれたことは、寂寥感一辺倒にならずに彼らがまだ成長途上な青春のただ中にあるってことで良かったのじゃないでしょうか。信子はそして、修二と彰(とかすみ)を媒介に、教室内の空気に流されないまり子という最強の青春アミーゴを得て。
 屋上から3人が眺めてきた空は、一貫してずっと黄昏のオレンジ色だったけれど、旅立つ日の後は抜けるような青空をお互い見上げ合う絵が、すごく綺麗なラストだった。


【今週のチェックポイント】

■サンタの夢
 冒頭、夢の中でサンタに欲しいものを尋ねられた野ブタが、自分は欲しいものがないから修二に振り、次は修二の夢に出てきたサンタを彰の方へと振るが、彰は思わずカレーパンと口走ってしまう。案の定、その話をしていた直後に商店会の催しでサンタの格好をしていたおいちゃんがカレーパンを持ってくるあたり、お互いの夢が通じ合って実現化する前回のブタのお守りの効果が続いている(?)わけだが、そこでバトンを野ブタに回して綺麗に「友情の円環」と作らなかった彰が責められて二人に速攻で帰られてしまうのが可笑しい。このあたり、後のクリスマスでのプレゼント交換の伏線……というほどでもない前フリである。(中川) 第10話_a0048991_23112045.jpg

■下の名前を覚えてもらってなかった彰
 屋上に呼び出した修二と野ブタへの彰の改めての頼み事が、「下の名前で呼んで」。で、「下の名前って何?」というお約束すぎる修二(笑)。ここで最終回にして初めて野ブタに名前で呼んでもらうわけだが、「アキラッッ!」と怒ったような不自然でぎこちない発音になってしまうあたりの萌え設計はあざとすぎるだろ演出ッ!! とにかくこの最終回、実はなにげに全編にわたってアキラッッ!のヨゴされっぷりが際立っている。(中川)

■不発のドリカム状態
 この仲良し3人組はいわゆる「ドリカム状態」にある。彰は信子が好きなのだが、7話以降の描写を考えると信子が好きなのは明らかに修二の方だ。これはサークルクラッシュを期待させる(笑)展開なのだが、勿論本作では不発に終わる。この最終回でも、お守りをどちらに渡すかで迷った信子は結局どちらにも渡さず川に投げ捨ててしまう(その直前に彰に譲ろうとする修二もポイント)。これは後半、恋愛がこの「美しい関係」(笑)の終わりをもたらすものとして描かれている(彰が恋心に気付くことで関係が壊れかけて、諦めることで持ち直す)ことを考えると興味深い。彰も信子も、恋愛に鈍感なのではなく十二分に自覚していながらもそれをあえて引っ込めているのだ。第10話_a0048991_2312426.jpg恋愛よりも大切なものがあるのだとでも主張するかのように、3人のドリカム状態は壊れることなく終わりを迎える。……まあたしかにここで三角関係でドロドロしたら、一生の友達にはならないだろうけどね(それはそれで青春だけど)。 (市民)

■3人の打ち明け話
 おいちゃんの家で、「あのさ」と同時に真情を告白しようとする3人。野ブタは、突撃レポートで人気者になるのがいい加減辛いのでそれを辞めたい、と。彰は、一度はぬか壷に封印して忘れようとした修二を後ろから抱きしめる野ブタの件を、やっぱり訊ね直そうとするが、壷の中からなかなか写真が見つからない。そして、それを彰が探す間に修二は、年明けには転校して皆とお別れになることを話す。ショックで飛び出す野ブタを彰は追い、公園で悲しみに暮れる野ブタの背を、あの写真のシチュエーションと同様に抱きしめられる位置まで来るのだが、ついに彰にはそれは出来ず、彼女にマフラーを巻くだけに終わる。
 思えばここでその背を抱いて彼女の中に踏み込み、残される二人の世界を築くという選択が可能なだけの成熟を彰ができていなかった時点で、彼がラストにああいう行動をとるのは必然だったのである。(中川)

■プロデュース成功?
 お昼の放送番組が決定打となって、ついに人気者になった信子。しかし信子はその状況に戸惑い、番組を降りたいと漏らす。そしてプロデューサーである修二自身「人気者になるのがいい、というのがわからない」と漏らす。たしかに修二たちのプロデュースは成功した。だが、それはプロデュースの課程でもっと大切なものを手にいいれた彼らにとっては既に「どうでもいいこと」だったのだ。第10話_a0048991_23135540.jpg

■野ブタの巫女バイト
 で、「寂しいのは私たちじゃなく修二の方だ」と独力できっぱり立ち直った野ブタは、修二のために何ができるかと問うが、これに横からアイディアを出したのも彰。巫女さん姿で野ブタパワー注入してほしい、と……。そう、優しさや思いやりは一番だけど、自己の欲望や快楽原則のカタチを自覚できてないゆえに、自分との関係を築きたがってる相手に適切な要求ができない修二と、前の瞬間には思ってもいなかったような欲望の形象化が可能で、ときに甘えが暴走してしまう彰とはまさに「二人でひとつ」なのだ。 第10話_a0048991_23143510.jpg
 そして即座に「たのもー!」と実はデルフィーユの実家だった神社を訪ねて巫女ちゃん化してしまう野ブタの天然系の萌え属性は、ほぼ彰の潜在欲求が開発したものだ。彼女が将来、これを自覚的・無自覚的に駆使するようになると……そら恐ろしい置きみやげをしてくれたものだ。(中川)

■神木を折ったバチ
 誤って神社の神木を手折ってしまった野ブタ。そのバチが彼女の一番大切な人に当たってしまうのだという。バチを回避するお札を、修二と彰のどちらに渡すべきか迷った挙げ句、川に投げて「3人で一緒にバチ当たろう」と覚悟する彼らだが、実際に階段から転げ落ちて大けがをするバチかぶったのは、なんとシッタカだった……。第10話_a0048991_231535.jpgこのへん、第5話以来放りっぱなしだった彼を意外なオチに使った単なる肩すかしギャグとも思えるが、あえて深読みすれば、シッタカが代わりにバチかぶることでじいさん介抱で株を下げた件を清算し、修二も彰もいなくなる今後の教室で彼が野ブタの一番大事な人になれる可能性を回復するという「救い」なのかもしれない。(中川)




■誰かのために
 父親の「ここに残ってもいいぞ」という提案を拒否し、結局自分を殺して修二は転校を決意する。周囲の人間は彼に言う「もっと自分のことを考えていい」と。しかし修二は言う、自分も信子のために何かをしているときが充実していた、だから「誰かのために」でいいのだ、と。修二がこの数ヶ月で得たもの、学校の中でのキャラ売りゲームの外側で得たものは、要はこういうことだったのだろう。そう、この最終回のテーマを強いてあげるならこの「他の誰かのために」という思いに他ならない。だから修二は転校を選び、彰は修二を追いかけ、信子は自身の想いを封印して彰を修二の元に送るのだ。(市民)

■「考えとく」
 前の一件以来学校を休んでる蒼井の家に向かう野ブタ。
「また小谷さんのこといじめちゃうから」という蒼井に対し「いじめられても平気になるから」という野ブタ。このシーンの前に修二が誰かのために動いてる時のほうが自分らしい、あいつもそうなんじゃないか?と言うが、思えば野ブタはいつもそういう対応(嘘付かれたらついたほうも辛いんじゃないか?、引っ越す修二の方が辛いんじゃないか?)をとっていた。第10話_a0048991_23161054.jpgそこら辺が最後の最後でいじけてし引きこもってしまわなかった野ブタの資質だったんではないかと思う。
 そしてその野ブタに対してわかったでなく「考えとく」と答える蒼井。安易な和解は描かない代わりにその予兆をしめした時点でギリギリOKかなぁと思う。 (成馬)



■キャサリンの餞別とクリスマスのプレゼント交換
 終業式の日、3人に二つ集めると幸せになれるという人形を一つずつ渡し、運と努力でこれを増やして、他の人に幸せを分けてあげられる人間になるよう、キャサリン教頭は最後のメッセージを伝える。第10話_a0048991_23165160.jpgそしてクリスマスの夜、プレゼント交換をした3人ともがそれぞれ自分が貰った人形を贈ったため、結局3人の手元には一つずつの人形が残る。努力だけでなく、自分の力ではどうにもならない運をも幸せへの道にカウントするあたりが、このドラマらしい価値観だ。(中川)



■まり子との最後の時間と野ブタ
 ホワイトクリスマスで窓の外を眺めながら極めてイイ雰囲気で、「好き」という気持ちを教えてくれた野ブタに言葉にしつくせない感謝を告げていた修二が、最後に口にしたのはまり子への気持ち。「まり子はどうするんだよ、まり子は!」とハラハラしながら二人の語らいを見守っていた全国のまり子派は、キターー(゚∀゚)ーーッ!!と快哉をあげたことであろう(笑)。 第10話_a0048991_23172238.jpg
 かつてまり子とテキトーなその場繕いで交わした「海へ行く」約束を、教室の手作りデコレーションと彰・野ブタが協力しての波の音放送で果たし、自作の弁当を食べさせてあげる修二に、こっちのバーチャル乙女心はキュンキュンキュンキュンときめきっぱなしだっつーの(;´Д`)。「次に会うときには、もっとまともな人間になっているから」という彼の言葉も、まり子という女、否、人間の価値をよくわかっていて、清々しいことこの上なし。
 修二が最後に学校で見たのが、仲良くするまり子と野ブタだったという光景も心に染みる。うんうん、好きな女の子たちが喧嘩せず仲良くしてるのって、ホント幸せな気持ちになるもんだよね……。(中川)

■すべてのゲームに勝とうとするな
 ラスボスを倒した後の長いエピローグである第10話には、セリフで直接テーマを語ってしまう大サービスが満載だ。横山先生が転校する修二に贈った言葉はその代表例と言ってもいいだろう。「お前の悪いところはすべてのゲームに勝とうとすることだ」……そういって横山先生は修二を「スペードのエース」にたとえる。たいていのゲームにおいて最強のカードである「A」。しかしゲームによっては「2」の方が強かったりもするし、「大富豪」では革命も起こる。だから横山は言う「自分の勝てるゲームで勝負しろ」と。……これは第1話から繰り返されてきたこのドラマの基本的な世界観をついにセリフで言ってしまった場面だ。
第10話_a0048991_23174285.jpg 世の中は、異なるルールをもつ小さな世界の集合体であって、その小さな世界ごとのルールをメタ視したものが勝つ……。修二はメタ視するところまでは出来ていたのだが、それで満足してしまい、自分のやりたい事、欲しいもの、適性などを吟味して「自分に合ったゲーム」を選び取るという可能性が視野に入っていなかったのだ。日本語でこういう人間を「器用貧乏」という(笑)。 (市民)

■修二を見送るクラスメイト
 普通のドラマなら感動の別れのクラスメイトに見送られるシーンだが、今までの展開から考えて白々しさを感じる人もいるかもしれない。
 まぁそこら辺は九話の中川さんの分析にもあるように、そもそも、大衆とはその場の感情のみで動き後に引きづらない忘れっぽい存在なのだと作り手が思ってるのだろう、結局修二たちが翻弄されてたのは蒼井でなく、この無責任さで、これには誰もかなわなかった(まぁ戦う必要もないのだが)。第10話_a0048991_23181286.jpgむしろここで大事なのは修二が取り囲むクラスメイトでなく後ろにいる彰と野ブタ、そして外れの方にいる蒼井に目をやることで、この距離感と視線の交差がそのまま今までの人間関係の縮図になっている。まぁこれ自体、生徒役のコたちへのボーナスカットみたいなものなのだろうが、修二の中の優先順位が露骨に出ててドライなシーンに仕上がってるなぁと思った。(成馬)

■修二の転校先に転校する彰
 親父の仕事のやむなき都合で望まぬ転校をした修二を追って、親父のスネをかじってカネの力でヘリまで出させてムチャな望みをかなえてしまう彰をどうとらえるか。第6話で自ら望んで道ばたの10円玉をやることにし、第7話で「諦める」ということを知るという成長を、お前は果たしたはずではなかったのか!
第10話_a0048991_23183555.jpg ……というようなボンボンな彼の相対的な未成熟へのツッコミも庶民感覚では当然であるが、それは違うのである。第1話で、自分の欲望について修二以上に空虚で、ただ父親の決めた不自由な道を歩むのが嫌だというだけだった彼が、野ブタと二人の世界を築くには男を磨き足りていない自分を自覚し、その足りないところを補ってくれる「二人でひとつ」ともいえる半身を、自分の境遇で頼りうる最大限の力にアクセスしてでも、遮二無二求められるようになったのは大きな進歩なのだ。おそらく画面の裏では、親父と大喧嘩しながら筋を通し、将来シャチョさんになる覚悟もそれなりに固める「己の身のアキラめ」をしたうえでの選択だったことは、想像に難くない。
 庶民には庶民の、金持ちには金持ちの相異なるリアリティがあり、それぞれなりのオーダーで現実のままならなさ(たとえば、彰の家の財力をもってしても、修二の父の転勤を取り消しにはできない)に立ち向かう成長像がある。つまり体験に恵まれない金持ちは、まっとうな人間になるために、若いうちの苦労さえカネを払ってでも買わなければならないということだ。そして彰にとってはこれも、横山先生の言う「自分の勝てるゲーム」を探すやり方のひとつなのである。(中川)

■野ブタスマイル
 金の力にモノを言わせて強引に修二のあとを追ってきた彰。物語の余韻を台無しにしかねない大どんでん返しのギャグだが、これは最後、修二ではなく信子を一人に戻したかったのだと思う。第10話_a0048991_231968.jpgラストシーンの直前、ようやく獲得した笑顔を見せる信子の傍らには誰もいない。しかし、信子の物語としてはこれでいいのだと思う。彼女はやっとひとりで歩けるようになったのだ。(市民)

■川から海へ
 都立隅田川高校を後にした修二と彰の新天地は、どこかの浜辺の県立網五(アミーゴ、ですね)高校。川のほとり(リバーズエッジ)に野ブタの居場所を作って旅立った彼らは、今度は大海をのぞみながら、早速ヤマザキと海ガメのために奔走する。第10話_a0048991_23193140.jpg第1話で川を下って、どこかに新たな生き場所をみつけ、また誰かの大事な心の支えになっているかもしれないあの柳の木のように。(中川)

■どこへ行っても生きていける
 ラストシーン「どこへ行っても生きて行ける」と独語する修二。そう、今の彼は自分が拘泥していた小さな世界のローカルルールの外側に、しっかりと価値をみつけている。それが何かはもはや語る必要はないだろう。どんな場所のゲームにアクセスしても、ゲームのルールに左右されない確かなものを既に手に入れた修二は「どこへ行っても生きていける」のだ。 (市民)

※近日 このメンバーで「野ブタ。」総括座談会を企画中ですので、『野ブタ。』ファンのみなさんはお楽しみに! このブログでもお知らせします。

# by nobuta2nd | 2005-12-22 23:23 | 第10話
2005年 12月 15日

第9話


 
【今週のあらすじ】

 修二たちのプロデュース作戦を邪魔する真犯人が信子の唯一の友達、蒼井かすみである事が判明し、修二は信子を傷つけまいと真実を頑なに伏せる。しかし蒼井は、修二の優しさや想いを利用し、3人にじりじりと接近してくる。
第9話_a0048991_228945.jpg そんな矢先、蒼井が、プロデュース作戦に参加させて欲しいと言い出し、真犯人の秘密を守り通したい修二はその要求を受け入れる。修二、彰、信子の3人は、蒼井の強引なプロデュース作戦に振り回され・・・。
公式サイト


【今週のストーリー解説】

■善良な市民
 蒼井かすみとの決着がつく第9話。蒼井かすみとは言ってみれば修二たちがこれまで対決した「悪意」の象徴だった。人間には「人の幸せを素直に喜べない」ところがある。蒼井はそんな負の感情の象徴であり、常に被差別階級を目の見えるところにおいて安心したがる大衆の象徴であり、そして、状況をメタ視する力を悪用する「もうひとりの修二」でもある。
 結局、蒼井は敗北する。修二にではなく、自分にだ。蒼井の「修二たちの友情ゴッコがむかつく」「凡庸な自分を覚えておいてほしい」という欲望は、決して修二たちを追い詰めることでは解消しない欲望だったのだ。だから結局、蒼井は「取り返しのつかないところ」まで行くしかなかった……。
第9話_a0048991_2273289.jpg 物語は蒼井を一度殺す。おそして夢オチという反則スレスレの技を使って彼女を呼び戻す。そう、ここで死んでしまうこと、世界を、日常を終わらせてしまうのはあまりにも安易だからだ。その底なしの空虚さを抱えて、蒼井はこれからも生きていかなければらなない。彼女になくて、「もうひとりの蒼井」である修二がもっていたものは何か……。それをラストでキャサリン教頭は優しく諭す。
 この物語は少年少女たちに厳しい。簡単にセカイを終わらせてくれない。だがその一方ではとても優しい。いい大人たちが、ほどよい距離で見守ってくれている。
 正直、やや通俗的なところが目立つ第9話だが、若ければ若いほど、この物語に出会えたことを大切にしてもらえたらと僕は思う。


■成馬01
 率直に言うと、ここが「野ブタ。をプロデュース」の臨界点かなぁと思った。今更言うまでもないけど野ブタは優れた作品で自分が見てきたドラマの中でもベスト10に入る出来だと言っても言いすぎではないと思う。でもこの回、特に蒼井かすみの描き方次第ではよく出来たドラマ以上のものになる可能性があったのだ。ただそれは同時に今まで積み上げてきたものを徹底して破壊して終わる結果になりかねない、その危うい状況をなんとか、しのいで元の路線に軌道修正した形跡が多々見られる回だったなぁと思う。その意味で破綻すれすれの危うさが全体に漂っていた。
 こう書くと読んでる人は蒼井の処遇、自殺が夢オチだったことに俺が不満を持ってるように感じるかもしれないけど、実はああいう流れになることは先週「セブン」を引き合いに出した時、何となく予測はしていた。夢オチ自体も四人が夢を見て、人型の後が残ってる描写によって精神的には死んだものと同じと捉えて納得している。ただそこに至るまでの過程というか展開が速すぎるし安易にまとめすぎな気がどうしてもする。あとクラスメイトと修二が野ブタのためといはいえ簡単に和解しすぎな気がした。それじゃ前回の絶望はなんだったの?そんなに簡単に回復するならどん底でも何でもないじゃんと思ってしまうと同時に結局彼らの鈍感さはジャッジされてないのだ。
第9話_a0048991_22231469.jpg 今まで修二が対立してきたのは個人的な悪意でなく、もっとつかみ所のない匿名の集団が生み出す悪意だった。
一人一人はいい人で話せるんだけどそれが集団になった時得体のしれない鵺と対峙しているような気分になったことがないだろうか?無責任で飽きっぽく鈍感さゆえに暴力的な存在、あの場所で「野ブタ良いよなぁ」と言ってた人間がちょっと前までは平気で見下しいじめている。そういう存在の象徴として蒼井かすみがいたはずなのだ。(と同時に蒼井もまた彼らへの憎悪があったからこそメタ視点を持てたのだと俺は想像していた)せめて和解する前に彼らもまた試されるべきだったと思う。
 この早急さが尺の都合なのか?木皿泉が深入りするのを避けたためなのか?はよく解らないが、そんな簡単に解消できる悪意だったの?と思春期には蒼井のように修二たちみたいな仲良しゴッコを嫌悪していた身としては思うのだ。
 前回も書いたけど例えば自分が思春期にこのドラマを見て今のように素直に感動できたか?というと難しかったと思う。過ぎ去った過去だからこそ安心して感動できる部分はあるはずで、同時にソコに後ろめたさを感じていた。そういう欺瞞を壊すと同時に素直に野ブタへ行けない子をも取り込む最後の刺客こそ蒼井かすみだったんだけど・・・でもこれをこのドラマに望むのは筋違いな気もする、実際今回も例えばまり子が野ブタを励ますシーンにはホロっときたし、狭い共同体の人間ドラマとしての野ブタには不満はない。次週はいよいよ最終回なのでよく出来たアイドル青春ドラマとしてまとまってくれれば俺は満足だ。


■中川大地
 まあ、まだ高校生だしねキミたち……てな印象。
 これまでの展開や演出でこのドラマが垣間見せてくれた「とてつもない悪意」との対決というテーマ性からすると、正直食い足りない思いは否めませんでしたが、教室という狭い小社会の中でのちまい情報戦がすべてになりがちな子供たちの人間関係を、いろいろなマジックアイテム(今回はブタのお守り。チェックポイント参照)に仮託させるかたちで、大人たちの示唆や「外部」からの気づきが相対化し、ヤバイところに行かせずに乗り切らせていくというこのドラマの構造の集大成にはなっていたので、納得は納得。チェックポイントで見ていくように、一見通俗的な友情物語に落としたようでいて、細かいところを見ていくとなかなか皮肉な批評性も感じとれる部分もありますので。 第9話_a0048991_22234342.jpg
 今回の焦点はこのドラマの世界観における「ラスボス」になるかもしれなかった「蒼井かすみとは何者か?」ということだったと思うんですけど、「匿名の悪意の象徴」であるとか「修二の陰画としてのネガプロorメタプロ」といった意味性を過剰に突き詰めず、結局よくよく見れば、年相応の了見の狭さや寂しさや浅はかさを抱えた、修二たちをけまらしがってるフツーの女生徒に過ぎないんだというところに落とした「馬脚さらし」の選択はそれはそれで批評的だから、最終的には肯定かな、僕は。ただ、シリーズ全体のクライマックスとして、カタルシス的には拍子抜けではあるんだけど。
 でもま、オイラ的には一貫してマジックアイテムの助けなしに自力でどんどんイイ女になってくまり子だけでゴハン3杯はイケルから、それでもう全部まるオッケーじゃけ!!



【今週のチェックポイント】

■ブタのお守り
 前回母親からのおみやげで贈られてきたブタのお守りを修二が彰と野ブタに渡す所から今回は始まり、蒼井も修二の父親から余った一個をもらうのだが、これが最後の四人が同じ夢を見る伏線になっていたことに二度目に見た時に気づいた。そのことにはまったく触れてなく、修二にはわざわざ理由はわからなかったと解説させているが、野ブタが眠る瞬間、そして机のうずくまる蒼井の手にはしっかりブタのお守りが握られている。おそらく修二と彰もそうだったのではないだろうか? 第9話_a0048991_2284530.jpg
 そう考えると蒼井がブタのお守りを地面に叩き付けたシーンは3人から離れたという意味以上に彼女の身代わりとして壊れたことがしっかりわかる。ちょっと雑な構成だと思ってた自分が浅はかだと思った。(成馬)


■「仲間に入れてほしい」
第9話_a0048991_2292681.jpg 桐谷家からブタのお守りを持ち帰り「仲間に入れてほしい」と口にする蒼井。彼女の動機のひとつが「青春を謳歌している3人組がねたましい」というものであることを考えると、これは意外と本音に近かったのかもしれない。(市民)

■彰にかすみの正体を話す修二
 自宅を訪ねてきて嫌がらせの写真を渡し、野ブタのプロデュースに加えるよう要求するかすみのことを、前回のように独りで抱え込まず、修二は早々に彰に相談する。この時点ですでに修二自身の葛藤のドラマはほとんど終了していることを示す場面だ。シリーズで積み重ねてきたものの成果をはっきりエピソード化し、焦点をかすみの側の内面性に絞り込む作劇のメリハリ感が心地よい。(中川)

■呼び出しを受けた彰のおいちゃんとゴーヨク堂店主
 この回のテーマは「友情」ともうひとつ、「騙される」だろう。おいちゃんは旧友の旅館の女将に呼び出され、「まさか」と訝る気持ちと淡い期待を抱きつつも、大量の健康食品を売りつけられた結果に放心する。第9話_a0048991_22112874.jpgデルフィーネは寂しそうな声の友達に夜の校舎に呼び出されるが、キャサリン教頭に「騙されたんじゃないんですか」と水を向けられながらも、現れない呼び出し主のことを思いつつ、月を見上げる時間を満喫する。かすみに騙されたことを許せなく思いながらも、彼女が自殺しなかった事実に安心しながら、その心持ちに思いを馳せる野ブタたちの心境と響きあわせる演出である。(中川)


■蒼井のプロデュース方法
 3人の仲間に入った蒼井が提示したプロデュース方法はスカートの丈をかえて髪も結んで話し方も女らしくしたらどうか?というものだった。しかし評判はよくなく、普通とクラスメイトから言われてしまう。つまり欠点と個性ってのは紙一重なのだ。蒼井はプロデュースを自分じゃない自分を演出するという、実はこの回で蒼井がやってることはかつての修二がやろうとしたことだ。第9話_a0048991_2212425.jpgだからある意味でこの回は総集編的な作りになっていて、今までの負の部分を全部蒼井が担当しているという作りになっている。こういうことをするとどうなるのか?は観ている方はわかると思うが蒼井というキャラクターが突出してしまうのだ。だからショックを受けて引きこもる野ブタの再生劇や修二とクラスメイトの和解といった今までなら重要だったはずのエピソードが全部かすんでしまっている。
 それくらい蒼井が放つ負の魅力が出てしまったのが、この回をバランス悪くしてしまっている理由の一つだ。(成馬)

■「いいよ、子供で。俺はただのガキです」
 野ブタに我慢させ、辛抱させて、素の自分とは違うキャラを演じさせようとするかすみのプロデュース方針に対し、修二は無理な我慢や辛抱が他人に優しくできないイヤな人間ができるんじゃないの、と意見。そんなのは子供の言い分だと馬鹿にするかすみに、修二は迷うことなくそう即答した。第1話で、自分以外の周囲の人間を全員子供だとみなしていた彼の初期状態の演出と、くっきり対応させた台詞である。(中川)

■青春なんかうそ臭い
 嫌がらせの犯人は自分だと告白し、信子たち3人の「仲良しゴッコ」がウソ臭い、と罵る蒼井。気持ちはわかる。いや実際に高校生やっている人間が、ドラマや映画で「美しい青春」を見せられれば、誰でも多かれ少なかれ「ケッ」という気持ちになるはずだ。けれど、安心していい。大人になればきっと許せるようになる。何を隠そう、この僕がそうだった(笑)。第9話_a0048991_22131791.jpg
 ここで蒼井がイソップ童話の「酸っぱい葡萄」のような反応をしてしまっていることは想像に難くない。事実このドラマ自体「ジャニーズ主演の青春ドラマなんて」と思っている人は多いと思うが、君たちが蒼井にならないで済むためには、まずこの「酸っぱい葡萄」反応をしてしまうレベルから脱却することだ。素直になりなさい!
 ……少し横道にそれたけど、蒼井とは、こういう「素直になれない視聴者」の代表でもあり、この脚本はすでにそういった反応さえも劇中に取り込んでいる。(市民)

■蒼井VSまり子
「桐谷君は、本当はこの娘とデキているんだよ」
という蒼井の挑発に、「だから?」とまり子は動じない。やはり、まり子というキャラクターは、修二や蒼井が参加している「学校内のキャラ売りゲーム」の外側にいる存在なのだろう。だからゴーヨク堂で立ち読みもできれば、修二に本音を吐かせることもできる。そして蒼井の攻撃も通用しないのだ。舞台の外に立つ人間に対して、プロデューサーたちは無力なのだ。(市民)第9話_a0048991_22144376.jpg

■野ブタとまり子
 蒼井の正体を知った野ブタのところに偶然(またしても)通りかかるまり子。
ショックで立ち上がれない野ブタのほっぺに焼き栗を当てるシーンは今回もっとも心温まるシーンだ。
そしてまり子と野ブタの「ずっと嘘つかれたまま仲良くしてた方がよかった?」「嘘つかれるのさみしいもんね」「でも、ずっと嘘ついてのも寂しいかも」「そうかもね」というやりとりは蒼井と野ブタの関系だけでなく修二とまり子の関係についてのやりとりでもあるのだ。
第9話_a0048991_2214280.jpg そして、この後の修二とまり子のやりとり「本当のこと受け入れるのすごく辛いけどできないことじゃないから」というのも同様だ。(成馬)

■修二とクラスの和解
 かすみが嫌がらせの犯人だった事実を知ってショックを受けた野ブタを戻ってこさせるため、心からの言葉で頼む修二を、わだかまりの原因となったタニ以下クラスの皆は暖かく受け入れ、彼らの励ましで野ブタは帰ってきた。安易といえば安易だが、あえてヒネた見方をすれば、これも教室内世論を競う情報戦のうちのひとつである。誰だって悪者にはなりたくない。ここで野ブタの復帰に無関心を示すことは、今やクラス内での孤立を意味することになるのだ。そうした世論の動向を見きった修二は、ドブ板選挙で誠意を訴える政治家のごとく謙虚に深々と頭を下げて、見事、クラスの付和雷同な団結をうながす心地よい友情物語を大衆にギブしながら、野ブタ励ましと自身の地位挽回というテイクを得たのである。そして、それだけの成果を得るためには、自分自身もまた提供する物語を心から信じていなければならないのだ。 第9話_a0048991_22152293.jpg
 クラスの連中がジャッジされないのも当然。大衆とはそういうものだという諦念を前提に、より深く巧妙な人心掌握術をプロデューサー桐谷修二が体得していくのが、この『野ブタ。』というドラマの本質だという見方もできるからだ。(中川)

■ビデオレターの善意
 この9話で一番引っかかるのは、登校拒否になった信子を学校に呼び戻すために、修二がクラスのみんなに呼びかけて、ビデオレターを作成する所だろう。これは、これまで仮面を被ってきた修二がはじめてクラスメートに真心で接して、それが通じるという感動的なシーンなのだが、このクラスメートたちは転校直後の信子をいじめ、そして修二たちのプロデュースによってあっさり手のひらを返すような連中である。と、いうより、基本的にこのドラマでは大衆と言うものはそう描かれている。なので、ここで急にクラスメート(大衆)が「ほんとうのことはどうだっていい/表面的なイメージだけが大事」な連中から「真心が通じる相手」に突然変化してしまっているのだ。第9話_a0048991_22155071.jpgここはもう少しシビアに描かないと一貫しない。もちろん、彼等が信子をいつの間にか見直しているのはあくまで修二たちのプロデュースの結果なので、最低限押さえなければいけないところは押さえているのだが……。(市民)

■平気で笑っている蒼井
 と、思いきや、ビデオレターに励まされて登校してきた蒼井は満面の笑顔で信子を迎え入れる。この描写はこれまでの「野ブタ。」らしい(笑)。蒼井の屈託のない笑みに心底ぞっとする。(市民)第9話_a0048991_2216756.jpg

■形勢逆転
 最後の切り札(嫌がらせの犯人は自分だと暴露して信子を傷つける)を失った蒼井は、逆に嫌がらせの事実を暴露されることを恐れて追い詰められる。修二もそうだが、蒼井もまた、攻撃(表舞台には出ず、裏から他人をコントロールする)ことには長けているが、防御に回ると脆い。プロデューサーというのは、言ってみれば『ジョジョの奇妙な冒険』の「スタンド使い」のようなもので、本体を知られると弱いのだ(笑)。(市民)

■「覚えててほしい。嫌な思い出でも私がいたことを覚えていてほしい」
 この前後にどうして人を試すような真似をするんだ?と彰は問い、修二は「こいつはこういうやり方しかできないんだ」という。観ていておしいのは前回予感させた修二と蒼井のドラマがここくらいしかなく(「桐谷くんは何でもお見通しね」という台詞にはあなただけが私のことをわかってくれるはずという期待に俺には聴こえてしまう)蒼井と野ブタの関系に焦点が行ってしまったことだ。
 たしかにこのくらいの女の子にとって女友達は場合によっては恋人以上に大事な存在で、裏切られることはかなりショックのはずだが、今まで見ていて修二や彰に較べて濃密な関系を蒼井と野ブタが築けたとは思えないのだ。この回のテーマは明らかに友情や友達だが、それがどうも白々しく見えてしまう。
第9話_a0048991_2216535.jpg 結局蒼井というキャラが作り手が決めた枠組みをはるかに超えて動きすぎているのだ。
 さて、そんな蒼井のバックボーンや動機は結局明らかにされなかった。
 あえて動機らしい動機といえば上の「覚えててほしい」だ。これは蒼井が匿名の悪意の象徴と考えれば納得のいく動機だが、物語だけ追ってる人にはさっぱりわからないだろうなぁと思う。
 でも個人的には凄く納得がいってる動機だ。 (成馬)

■蒼井の動機
 蒼井は信子に嫌がらせをした動機をこう語る。「たとえ嫌なことでもいいから、自分の存在を記憶していてもらいたかった」と。この発言は一見わかりづらい。だが、「野ブタ。」のテーマを考えていくと、ぐっとわかりやすくなる。
 修二たちが戦ってきたのは、自分より弱い存在を蔑むことで、自己保身を図る「普通の人たち」の「普通の心情」だった。「自分」を持たず、なんとなく周りの空気に合わせてものごとを判断する「普通の人たち」の嫌らしさ……修二たちの「プロデュース」はそんなものとの戦いだったと言える。
 そして、そこに立ちはだかった蒼井かすみとは能力的には修二と同じタイプのものを持ち、テーマ的にはその「普通の人たちの無自覚な悪意」を象徴する存在だったと考えればいい。第9話_a0048991_22171125.jpg
 蒼井のような「普通の少女」が、このドラマで描かれているような「青春」を謳歌するのは難しい。事実、このドラマを、実際に高校に通っている10代の視聴者たちの中には現実の自分の学園生活と照らし合わせてしまい素直に見れない人も多いだろうと思う。そう、この「ねたましさ」こそが蒼井なのだ。決して物語の主役にはなれない「凡庸」な存在が孕む僻みの感情こそが「たとえ悪役でもいいから特別な存在になりたい」という蒼井の動機としてここでは語られている。
 そう、蒼井というのはこのドラマ(青春、他人の幸福)を「素直に見れない奴等」の象徴なのだ。(市民)

■蒼井の自殺?
 そして、そんな蒼井を信子は「許せない」と言う。ここでダメなドラマだったら、蒼井の動機はわかりやすい「過去のトラウマ」になっただろうし、信子はそのトラウマに同情して蒼井を「許して」しまっただろう。だが、このドラマはそんな絵空事には逃げない。信子は「許せない」と宣告し、蒼井は絶望して屋上から身を投げる。
 だが、これだど話が重たくなりすぎてしまうと判断したのだろう。
 蒼井の自殺シーンは夢だった、というオチがつく。だが、4人が揃って同じ夢を見ていたこと、学校に蒼井が落下した形跡がのこっていたことなどから、蒼井は実際に自殺してしまって、そこから何らかの不思議な力で時間が巻き戻ったのではないか、と思わせる演出になっている。
 これは、第7話、8話でさんざん「回復不可能」というモチーフを繰りかえされてきただけに強烈だ。木皿泉は本当は蒼井を殺したかった、蒼井のような存在はこれくらい救われない存在なのだ、と思っているのではないか……そう思わせる描写だ。
 ラストのキャサリン教頭と蒼井の会話は更に示唆的だ。第9話_a0048991_22174671.jpg
「取り返しのつかない場所へ行ったことありますか」 と尋ねる蒼井にキャサリン教頭は「ある」と答える。そして「友達が連れ戻してくれた」と。ここにはアイデンティティと言うフィクションの置き場はローカルな人間関係に置くしかないという作者の確信が見て取れる。その足場を持たない蒼井は、やはり本来は「帰って来れない」人間なのだ……。いや、もしかしたらあのブタを手にしている間だけ、蒼井はニセモノでも「友達」をもっていたのかもしれない。だから彼女は奇跡的に「戻ってこれた」のではないだろうか。(市民)

■「取り返しのつかない場所へ行ったことありますか」
 取り返しのつかない場所を仮の社会の外や彼岸と言うなら、前作「すいか」でも繰り替えされたモチーフだ。ただし「すいか」の場合は取り返しのつかない場所へ行った友達という現象が先にあり、自明性の壊れた日常をいかに再構築していくか?がテーマで、つまりそこがスタート地点だった。 第9話_a0048991_2218554.jpg
 対して野ブタでは、つねに、その瞬間は回避され悲劇は起こりえるかもしれない可能性としてのみ現れる。それは多分木皿泉の(作中の大人に象徴されるような)良心的な部分なのだが、一方で最後の最後で一番ヤバイトコに踏み込めない限界として表れしまったように感じる。(成馬)


■ヨコヤマ復帰の嘆願
 忘年会の席で酔っぱらって校長に暴言を吐き、勢いで意に反して自ら辞表を提出してしまった横山先生が辞めなくてすむようにするために、生徒たちは厖大な嘆願書をでっちあげ、ヨコヤマの辞職を食い止める。第9話_a0048991_22184190.jpg要は、実は誰も望んでいないヨコヤマ辞職を生徒の熱意が食い止める、という安っぽい物語をあえて演出する儀式が執り行われたわけである。蛇足的に差し挟まれた、このエピソードの意味とは何か? そう、野ブタ復帰の流れにまで至る、「一致団結するクラスの友情と善意」の予定調和性の戯画である。わざわざかすみとの葛藤の本筋の物語が終わった後にこうした挿話を入れ、修二にふたたび「桐谷修二」のセルフプロデュースを決意させるあたりには、感動のクライマックスにあってなお、通俗性を脱臼する教室世間への乾いた批評性が生きていることが見出せる気がする。(中川)


■「もう一度やってみようかな……」
 あのクラスで、もう一度「桐谷修二」を作り上げていこうという修二。「また、人気者を目指すの?」と問う信子に、修二は答えない。今度の修二は人気者を目指しはしないだろう。きっと、彼は彰と信子と築いたような実体のある関係を、他の人とも時間をかけて築いていけたらいいと思っているのだ。しかし、その修二の「次」のフィールドは残念ながらあのクラスではなく……。(市民)

第9話_a0048991_2219115.jpg■そして、別離へ
 エンディング近く、修二の父親が突然の転勤を告げる。修二はこのまま転校してしまうのか……?
 最終回はやはり、シリーズを通して繰り返されてきた「楽しい時間はすぐに終わる(だからこそ美しい)」というモチーフの通り「終わる」ことがテーマになるのではないかと予測される。(市民)

# by nobuta2nd | 2005-12-15 22:25 | 第9話