2005年 12月 02日
【今週のあらすじ】 信子に恋心を抱いた彰は信子を独占したいという想いから人気者にプロデュースする作戦を止めたいと申し出る。修二は彰の申し出に苛立ちを感じながらも受け入れざるを得ない。 そんな中、信子は唯一、出来た友人の蒼井かすみによる誘いで放送部へ入部。信子と少しでも一緒にいたい彰も又、放送部へ入部することに。そして、彰は信子への抑えられぬ思いのために、ある、とんでもない行動を取ってしまう・・・。 修二はというと、クラスメイトと適当に遊びながら適当に距離を置くという元の生活に戻るが、日々の生活にぽっかり穴が空いたような空虚感がぬぐえなかった。さらに、まり子から、自分との関係をはっきりさせてくれ、本当の気持ちを教えてくれ、と問い詰められる・・・。そんな折、信子が『私の好きなもの』をテーマに映像作品を募集するコンクール作品を撮影することになり、3人が久しぶりに行動をともにすることになるが、そこにまた陰湿ないたずらが発生し・・・。 公式サイト 【今週のストーリー解説】 ■善良な市民 突然だが、僕はこのドラマの中では主人公の修二が好きだ。器用に、要領よく立ち回ることを心得ているが故に孤独な修二……個人的には「あえてベタな偽善」を行うという最近はやりのキャラ全開の彰や、フツーに健気でいい娘の信子より、断然感情移入できるキャラクターだ。そんな修二の内面にいよいよスポットが当たったこの第7話では、ついに修二がまり子に本心を打ちあけて、原作のオチになっていた修二の転落劇がはじまることになる。原作ではいわば修二が転落して「因果応報」オチで終わるわけだが、この原作よりも何倍も深くて広いドラマ版では、修二にこそ、この経験を通して大きく成長して欲しいと思う。 また、今回の第7話は「終わりのはじまり」だ。劇中で繰り返される「終わる」「諦める」というモチーフが示すとおり、修二、彰、信子の「3人組」の楽しかった時間はいつの間にか終わりを迎えていたのだ。それは基本的にはとても寂しいことには違いない。だが、逆を返せば、短い時間で終わるからこそそれは貴重な時間だったのだ。「終わる」「別れる」「諦める」というモチーフに貫かれたこの第7話だが、これは個人的には修二たちが次のステップへ進むためのジャンピングボードとして機能するんだと信じたいところだ。 ■成馬01 まず、6話のチェックポイントで中川大地さんが書いてた修二とまり子についての解説がまったく的確だったことに見ていて驚いた。 俺はどうにも上原まり子みたいな普通にかわいい子についてはわからないので、そこまで想像力が及ばなかったけど、彼女も知らず知らずの内に追い詰められ傷ついていたのか?「ごめんよぉ~」って修二の変わりに謝りたい気持ちになったけど、あくまで自分と修二の関係を恋愛の問題と捉えるまり子と、どう他人と付き合うか?という問題と捉える修二とでは、コミュニケーションの捉え方が違いすぎる、という断絶が強調された気がする。まり子は修二と付き合うのにはマトモすぎる。こういう子はもっと普通のいい奴と付き合った方がいいと思った。 さて、今回は今までの話をステージを上げて展開した気がして、その意味で目新しさはなかったと思う。ただ密度は濃い。テーマは「人の心の中」と「諦める」だろうか?以前も書いたが野ブタ~は「気付きの物語」で、彰は恋心の発展として嫉妬と独占欲から来る自己嫌悪を知り、野ブタは修二へのほのかな恋心?を知り、修二は自分が今まで冷たい人間だったんだということに気づく。(しかし、その冷たさは人が好きすぎる反動で嫌われるのは怖いという弱さから来ていることを野ブタに発見されている、まったくこういう男に女は弱いんだろうなぁ)彰は自分には野ブタを好きになる資格はないと一端諦め、修二はまり子に本心を伝えることで今までのごまかしの関係を諦めるが、この諦めるという行為が成長のモチーフになってることは前回のチェックポイントで市民さんが指摘してる通りだろう思う。それにしても写真とかビデオというものは過去を刻印するものだからか?郷愁のようなものを強く感じる回だった。予告を見る限り、このままラストまで連続した話が続くのかなぁと思う、一部原作を引き継いでるので比較しながら見守りたい 。 ■中川大地 つるべ落としで終わりに向かっていくことを、これでもかこれでもかと強調する映像エフェクト、音効、モチーフ選択、画面構成、台詞回し、演技等すべての要素がガッチリはまりすぎて、序盤からもうギュンギュンギュンに胸締めつけられっぱなし……。カーッ、もう、せつな殺す気かっつうの、こんちくドらマぁめぇっ!! 今回はもうストーリーラインがどうとかガジェットの仕掛けがどうとかにまるっきり注意が回らないほど、修二の寂しさ、彰の気まずさ、野ブタの気持ちの持ってきどころなさ、そしてまり子のくるしさが、直接的な視聴覚演出のレベルで最短距離から撃ち込まれてくる感じで、マジやばかったです。 もうダダこね競争後の修二と一緒に悶える、悶えるよッ!! でも負けずに、『寄生獣』でミギーになだめられて胸に手をあてて気持ちを鎮めるシンイチよろしく落ち着いて考えてみる。考えてみると、一話完結噺としての今回のお題はまさにそんな「心のコントロール」、より踏み込んで言えば「内的衝動と外的現実を調停すること」なのだと整理できると思います(「終わりの始まり」はシリーズ構成上の見え方ですね)。 現代の通俗的な価値観では、心のまま衝動のまま欲望のままに行動することは(ことに恋愛に関しては特に)基本的に正しいことだとされているけれど、それが本当に望ましい結果をもたらすとは限らない。彰は、野ブタと最終的には「結婚したい」とまでの独占衝動に正直になってプロデュースを打ちきったために彼が本当に好きだった3人でいるときの野ブタとの時間の喪失することになるし、野ブタも思わぬ衝動で打ってしまったパンチや抱きしめに悩む。修二は苦しませたくないと思ったがゆえにまり子を傷つけたり、野ブタを傷つけたくないと思いながらも身体が動かなかったりする。 制御できない心の中の思いと、ままならない現実の齟齬のありようがそれぞれに強調して描かれ、そのことは修二の「恋愛みたいに心がコントロールできなくなるようになるのは嫌だ」という台詞でも明示されます。あと、ネガプロがビデオテープを切り刻んだことへの、「こんなに感情をむき出しにできるなんて」という感想もまた。 で、そうなったときに一体どうすればいいのか、という心と現実との調停のビジョンこそ、劇中で繰り返し描かれる「諦める」という態度なわけですね。これについては後述の成馬さんのチェックポイントに詳しいように、決して西洋近代主義で常識とされているほど「諦める」ことはネガティブなことではなく、ままならなかった現実を心の中に取り込んで発見や成長の糧にするための、人生に不可欠な知恵だってわけです。 そう考えたとき、今回もまたキャサリン教頭や修二父が、いい「諦め方」の手本を見せてくれて(チェックポイント参照)、その示唆を受けた修二が彰に休日の校舎での「諦め放送」を促すというパターンがしっかり踏襲されてるんですよね。そんな仏教説話のような含蓄ある教訓性もまた、シリーズ終盤になっても崩れない、この作品の魅力の骨格になっていると思います。 【今週のチェックポイント】 ■終わりの契機 男女混合の仲良しグループが、メンバー同士の恋愛が原因で崩壊するのはよくある話だ。それが男2×女1のいわゆる「ドリカム状態」ならなおのこと。勿論、修二たち3人組がそれに当てはまるかどうかは分からない。しかし、「男女の関係になる」というのは、モラトリアムの終了を意味するものに他ならない。第3話で紹介した押井守監督の『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』では、ヒロインが主人公に「責任取ってね」と迫る(関係を結ぶ)ことがモラトリアムの終わりを象徴するサインになっていた。 若者たちはラブコメ空間に憧れて群れる。しかし、実際に恋し始めた瞬間に「終わり」ははじまっていたのだ。「野ブタ。」で言えば彰が自分の気持ちに気付いた瞬間がそれに当たる。もっとも、知り合いの女性ライター(40代)は、「ここで恋愛を終わりの契機にするのは安易」と批判していたのだが……。(市民) ■プロデュース終了? 彰の「信子狙い」宣言によって終了したプロデュース。彰と信子は放送部へ、修二は元のクラスの人気者グループへと戻るかに見えたが、信子はあからさまに寂しがり、一見けろっとしている修二も仲間との遊びに全然集中できない。自分達でも気付かない間に、彼等は「本当に楽しいこと」が何か、それを味わうために必要な仲間がどんな存在かを知ってしまったのだ。まさに、第3話で語られているように「楽しかったことは後になってからそれが楽しかったと気付く」ものなのだ。(市民) ■スローモーションの演出 野ブタ。をプロデュースではスローモーションやコマ送りの演出が効果的に使われているが、今回はスローモーションが修二と周囲とのズレを強調するシーンで使われている。周囲が残像のようにぼやける中で訥々と語られるモノローグは無自覚な孤独感を強調する。 またスローモーションで過ぎていくまり子の修二が呼びかけるシーンでは、ここで修二が現実のまり子と自分の気持ちと向き合った、ということがわかりやすく表現されている。 (成馬) ■ダダこね競争 修二の家での食事シーンで、一つしかないメロンを誰が食べるかを決めるために、修二父は「一番ムチャでどうにもならないことをダダこねてみせた奴が勝ち」という競争を提案する。この「ダダこね」儀式もまた、ままならない現実と心の中とを調停する「諦め」のための知恵のあり方のひとつといえるだろう。こういうことを、いまどきメロン争いなんていうしょーもないシチュエーションでさらりとできてしまうこのオヤジの人生力はホントただ事ではない! で、こういう感情マネジメントが図抜けて巧みな父や、その感化ですくすく育つ弟がありながら、修二がちゃんとダダこねられないのは多分、ヘビースモーカーだらけの家族で育った子がえてしてタバコ嫌いになってしまうようなのにも似たリアリティなのだろう(笑)。 ただ、こういう家族の下地があればこそ、野ブタが見破っている修二の本質的な人間好きな部分や機転の利くところ、そしてなんだかんだで周囲の前向きなメッセージを見過ごさず行動できるところなどの潜在的な長所が頷けるというもの。無意識のポテンシャルに、意識が追いついていないだけ。修二は決して、野ブタが過大評価しているわけでもなければ、まり子が恋するに値しないつまらん奴でもないと、僕は思う。で、彼(および野ブタ)に訪れるべき大人へのなり方とは、リニアに鍛えあげられて力を獲得してゆく「成長」というよりも、ある瞬間にパッと鱗が落ちるように切り替わる「脱皮」なのではないか、とも。(中川) ■修二の「コン」 「コン」とは彰がいつも登場シーンで行うジェスチャー。手を影絵のキツネの形にして、ドアをノックするジェスチャーを行う。おそらく、キツネの鳴き声とノックの音をかけているのだろうが、この彰の特徴的なジェスチャーが今回は修二に伝染している。特に、結局表面的な付き合いでしかないクラスの仲間たちとの遊びにノれない修二が、彰と信子の入る放送部を訪ねるときにこのジェスチャーを行っているのはポイントだ。(市民) ■どじっこ萌え 放送部制作の番組のレポーターとして活躍する信子。彼女の奮闘を見て笑うクラスの面々にもはや悪意はない。修二たちの「プロデュース」の効果は如実に表れていたのだ。(市民) ■彰の鼻歌 アンパンマンの替え歌 ナウシカの回想シーンの唄 マンガニッポン昔話のエンディングテーマ 加山雄三の「お嫁においで」 それぞれ彰の感情をうまく伝える使い方をしている。 (成馬) ■秋のセミ、別れの予感 この第7話のテーマが「終わる」「諦める」であることを考えると、この「秋のセミ」のシーンと、夕暮れ時の3人がそれぞれ別方向に別れて行くシーンは実にわかりやすい。ゴーヨク堂が指摘するように、これは否応なしにやってくる「終わり」なのだ。(市民) ■ヨコヤマ人形揚げ 300万円の宝くじをフイにしてしまった横山先生への怒りを昇華し、執着を断ち切るためにキャサリン教頭が作っていた呪いの藁人形的な手料理。手間暇かけてこんなものを作り、ガブリと食うことで、きれいさっぱり気分を変えるという儀式だ。「諦める」ということはただの内心の変化ではなく、具体的な行動をともない、しかも闇雲なストレス発散ではなく、代償行動としてちゃんと意味のある見立てがあることが望ましいという、何やら民俗学めいた知恵さえ垣間見える気がする。 なお、このヨコヤマ人形を頭からガブリと食いちぎった野ブタが、後のビデオ撮影で頭の切れている横山先生を撮っているという芸の細かさも可笑しい(さらに頭から食いちぎるというのも、前回の彰の鯛焼きの頭の方を食べると幸せな気分になる、というエピソードを引いているという重層構造)。(中川) ■「諦めたら、そこで終わりだ」 彰のおじさんも味のあるイイ大人ではあるんだけれど、「諦める」ということについての考え方は、こうした通俗的なものだった(いやまあ、そういう通俗道徳をちゃんと信じきってみせる度量もそれはそれで必要なんだけど…)。その点の人生哲学の深みの微妙な差が、修二と比較した場合の、彰のエゴの抑制という面における未熟さとして出てしまっていたように思う。彼は野ブタを諦めるという決断こそ自分でしたけれど、スパっと諦めるための具体的な儀式行動は、修二のサジェスチョンに依っていたからだ。だから彰(とかまり子)については、トライ&エラーを繰り返しながらの地道な「成長」が、まだまだ必要なんだな、と感じる。(中川) ■ビデオテープと宝くじ それと連動するのが「宝くじ」と謎の妨害者にズタズタにされた「ビデオテープ」だ。どちらも、一度失われたら戻らない(回復不可能)なもの。「諦める」という今回のテーマも併せて、これはやはり修二たち3人の幸せな時間も、もう終わりを告げようとしていることを示すのだろう。ラスト近く、結局元に戻せなかったビデオテープの画像を、じっと見つめる彰の横顔が悲しい。(市民) ■三人の撮った映像 彰「犬が撮ったビデオみたい(地面や路地を撮る)」 野ブタ(風景や青空を撮るが採用していたのは横山先生の首から下のみ) 修二(人が多い) 修二のビデオを見て野ブタは修二が無関心なふりをしているが人が好きなことに気づく。そして彰は野ブタが修二を気にしていることに気づく。 また三人を撮っている豆腐屋のおじさんの視線がそのまま彼らを見守る大人の視線としてうまく作品の世界観を表している。 (成馬) ■修二の素顔 信子が語る修二の素顔は、やや過大評価といえる。確かに修二は「人が好き」なのだろうし、まわりを大事にするあまり、基本的に自分が我慢する「だだをこねない子供」だ。しかしそれはやはり「子供」のコミュニケーションにすぎない。事実、修二も本音では「ウソなんかつきたくない」と思っているのであり、その苦しさは確実に修二を蝕んでいる。「自分のエゴをむき出しにして他人を傷つける」ことと、「ウソをついて他人を傷つけないこと」は実はどちらも「子供」のコミュニケーションなのだ。人間同士のコミュニケーションは0と1にカッキリ別れるものではない。本音を語りつつ、相手にも合わせるという柔軟な態度が大事なのだが……。(市民) ■野ブタパンチ 野ブタが編集したテープを捨てようとする彰を思わず殴ってしまう野ブタ。一見コミカルだが倒れた彰から鼻血が出たりとかなりナマナマしい。ここは五話でシッタカが反射的に野ブタの唾液で汚れた手を汚いと拒絶するシーンと対になっている。 つまり今度は野ブタの側が反射的に傷つける側へと回ってしまったのだ。木皿泉の作品の登場人物は基本的に皆やさしいが、ふいに感情が湧き出し言ってはいけないことや行為をし傷つけてしまう描写が多い。あとあの野ブタパンチは4話で彰に習ったものだ。 (成馬) ■諦める。 仏教の世界ではで諦めるとは「明らめる」と書き、断念するということではなく、事実を明らかに見るということであり、現実を直視し、それをありのままに受け入れるという意味らしい、修二がそれを知っていたかどうかは不明だがまり子が「私は諦めない」と言った後ビデオの録画を止め修二の気持ちを確かめようとする行為は、その文脈で見た限りではちゃんと繋がっている。そして修二も自分の中のまり子への気持ちを明らめ、彰も野ブタへの気持ちを明らめる。 「すいか」の頃から思うのは木皿泉作品には諦念の美学とでも呼ぶものがある気がする。それは思い出の品を埋める(埋めるや穴は多用される)行為だったり、喪失感を受け入れたり、様々な行為を通して現れるが、同時にいろいろな発見に溢れていることを考えると諦める=「明らめる」とは中々よくできた解釈だなぁ、仏教やるじゃんと思わせる。 (成馬) ■「野ブタの読んでる本が好きだ」「野ブタの歩いている道が好きだ」「野ブタのいる屋上が好きだ」「野ブタのいる所は全部好きだ」 冒頭野ブタを独占したいという彰は、野ブタへの気持ちを断念した後休みの学校の放送室でこう演説する。彰は野ブタ。を独占して閉じ込めておくことよりも三人でいる時間が好きだということに気づく。彰の変化は人を好きになることの両面(独占所有したいという気持ちと彼女を知ることで世界を広がっていくという気持ち)を的確に表現している。どちらも人の心の中にある恋愛感情の両面なのだが前者は君と僕の世界に閉じていくものだが、後者は世界を広げてくれる。彰は野ブタだけでなく、野ブタを含めた周囲の世界を肯定したいという気持ちに気づいたのだ。それは情熱的な感情とは違う落ち着いたもので「すいか」の頃から一貫してスタッフに、こういう価値感があるってことを今の若い子へ伝えたいという気持ちが伝わってくる。 (成馬) ■「どうして感情をむき出しにできるのかなぁ?」「できちゃうのよ切羽つまった人間には」 野ブタの編集したテープがズタズタに切り裂かれた様を見て、その感情を理解できてしまう彰。 これはおそらくネガプロの今までの行動の動機が嫉妬からだと暗示しているのではないか?と予想させる。 この野ブタの世界では感情は唐突に湧き上がるものとして表現されている。 彰を殴ってしまったり反対に修二を抱きしめてしまう野ブタや、嫉妬の感情からビデオを捨てようとしてしまう彰。 彼らにとって感情が湧き上がることはどちらかというとネガティブなもので、感情を抑制し相手を気遣うことの方を美徳して描いてるところが少し他のドラマと違って見えるところだと思う。 (成馬) ■修二とまり子 お昼に野ブタのレポート映像を見て呆けて机に腰掛ける修二そして休みの学校で彰のアナウンスを呆けたように机に腰掛けて聴く修二それは仮面を被った修二が見せた素の表情だ。それに唯一気づくのがまり子だという描写が切ない。 (成馬) ■「俺は寂しい」 そう、修二は寂しい人間だ。視聴者はほぼ全員気付いていただろうが(笑)、修二はこのときはじめて気付いたのだ。スクールカースト(学校社会でのキャラ売りが決める位置づけ)を利用するのに長け、学園生活を「人気者キャラの椅子をめぐるゲーム」と割り切っていた修二だが、彰と信子との付き合いの中でそんな「ゲーム」には回収されないものに気付いたのだ。しかし、修二がそのことを自覚したそのとき、「仲良し3人組」の時間は終わりを告げようとしていたのだ。(市民) #
by nobuta2nd
| 2005-12-02 20:51
| 第7話
2005年 11月 24日
【今週のあらすじ】 何者かによる度重なる誹謗中傷で信子を人気者にする作戦を邪魔されてきた修二と彰は、噂を逆手に取り信子を人気者にする手段を探していた。 そんな折、信子をモチーフにした彰お手製の「ノブタパワー人形」を目にした修二は、人形を流行らせることができれば、信子が人気者になる道も早いと考えた。 そこで、修二と彰は、「ノブタパワー人形」を所持すれば、願い事が叶うという噂を作り上げ、マジナイや占い好きの女子高生の性質を利用すると、人形は一瞬のうちに大流行。 面白いほど売り上げを伸ばした。 浮かれる修二たちだったが、ある落とし穴が待っていた――。 そんな中、彰の実父が、会社を継がせる準備をさせるため、彰を実家に呼び戻すのだった。 それを良しとしない彰は家出をし、修二の家に転がりこむのだった――。 公式サイト 【今週のストーリー解説】 ■善良な市民 第6話は『野ブタ。』のメインテーマのひとつ「価値観」をめぐるドラマが、「商品の流行り廃り」というわかりやすいアイテムで語られている。修二たちの売り出した「野ブタ。」キィホルダーは、修二の「噂」を利用した販売戦略が功を奏して発売当初こそ絶大な人気を見せて売れに売れまくるが、やがてその効力が切れた途端にまったく売れなくなる。まさに「人の噂も七十五日」だ。修二たちはこの挫折をきっかけに、自分たちが小さな世界の住人であること、そしてやがてこの時間が終わっていくことをを強く意識する。 修二たちのやっている価値観の書き換えゲームは現実の社会でも行われていることだ。そう、彼等がやっていることは、決して学校という比較的小さな世界の中での「ごっこ遊び」ではないのだ。いや、今は確かにそうかもしれない。しかし、それはやがて彼等が踏み出していく「次」の世界へ続いていく「ごっこ遊び」なのだ。 この第6話では、「今、ここ」の瞬間の価値を美しいものとして提示しながら、やがてこの幸福な時間が終わっていくこと、「次」に行かなくてはいけないことを強く刻み付けられる。その結果もたらされたものは何か……。それは、彰の「信ブタを俺だけのものにしたい」というラストの宣言だった。そう、彰は「次」の段階へ進むことを決意したのだ。 彼等の幸福な時間は、だんだんと終わりに近づいていこうとしている。だが、彼等は気付いているだろうか。それは「終わる」からこそ貴重なものだということを。 ■成馬01 仮に「野ブタをプロデュース」がどういう話?と問われれば「価値感を巡る話を学園モノの枠組みで描いた物語だ」と俺は答えると思う。 今回の話はそれが一番良く出ていた2話でやったことの発展編でもあり、その挫折とプロデュースという曖昧な関係の終わりの予感を感じさせる回だった。つまり価値を巡る「問いかけ」と将来の進路とも絡む「今・ここ」が確実に終わっていく前兆。 そして学園モノ、あるいは青春モノは渦中の楽しさを描いていればいるほど、どういう風に、その時間が終わっていくのか? 居心地のいい世界からどう卒業するのか? が問われていく。 今回野ブタは「次に行かなくちゃ」と言い彰は「プロデュースをやめたい」とう所で終わり、幸福なトライアングルが一端終わり修二が取り残される予兆のようなものを感じさせる。また面白かったのは今回野ブタグッズ販売は修二たちにとって痛い失敗として終わり、修二はこんなことなら本気でやらなきゃよかったと後悔するのだが、見ている側からすると、例えば修二はビジネスの面白さに目覚め、野ブタは手先を使った仕事に将来進むのでは?という予感を与えてくれる。 一見将来の進路を決めるということから逃避のたねに没頭してるように見えたことですら、ちゃんと繋がっているんだよ、という最後は作り手の優しい目線を感じる回だったなぁと思う。 ■中川大地 今回はあっと驚かせてくれる仕掛けが弱く、ちょっと物足りなかったかな。修二たち3人の活動に、親たちや先生たちの一見関係なさそうな挿話が意外なかたちで主題的に絡む、というのがこのドラマのプロット構成上の面白さのひとつなんですが、初登場の彰の親父や横山先生が過去に抱いていた将来の夢の話と、進路のことで揺れる修二・彰との絡ませ方はストレートすぎ、いまいちな印象でした。「お金よりも心」な通俗教訓話以上のハッとするような「気づき」も特に見出せなかったし。 冒頭の桐谷家の会話(この家族大好き)で、「バラバラ死体をスーツケースに詰めて頼ってくる友達の話を黙って聞いてやるほど、友情にアツイ男になりたかった」修二父の話が、直後の彰の登場の前フリというだけでなくて、後半の仕掛けにも何か絡んでくれたら面白かったんだけど……。 あとまあ、今となっては野ブタが修二たちに「プロデュースさせてやってる」感が漂ってしまうのも辛いとこですね。そういうモラトリアム関係の終わりの始まりがテーマの回だから仕方ないといえば仕方ないんですが、野ブタが普通にいい子すぎて感情移入しづらくなってきてる感はあります。売れ残りキーホルダーへのペンキの嫌がらせも、なんかプロット上のお約束の段取りみたいな感じで、「これで次行けるから」というのもウーンと思った。ま、「強くなる」ってそういうことなんだろうけど……。 とはいえ、そういう不満点はたぶんこちらが擦れすぎてこのドラマへの欲が深くなりすぎてるがゆえのもので、この年頃の子らが人生の原理原則の噛みしめ方としては、すごく妥当だし丁寧に描かれてると思います。全10話が折り返してすぐに「終わり」を意識させる彼らの成長とシリーズ構成の未練のない早さに、こっちが寂しさを感じてるだけかもしれないな、とも。 【今週のチェックポイント 】 ■噂には噂で対抗! そう、「野ブタ。」の基本的な世界観は「世の中にハッキリした価値の基準なんてない」というもの。だから噂を利用して信子の価値を上げてしまおうという修二の発想はまさにこの物語の基本に立ち戻ったものと言える。 事実キィホルダーは修二たちの「やらせ」も効を奏して最初爆発的に売れ、キィホルダーのおまじない効果は抜群の信頼度を得ることになる。それにしても、修二の甘言ひとつで人を好きになってしまうクラスメイトというのは、まさに「野ブタ。」ならではの発想と言える。でも、割と世の中こんなものだよなあ。(市民) ■お金という数値化された価値感 野ブタを人気モノにするためにグッズを作り広めるという目的がいつしか数字の魔力に当てられお金を稼ぐということに捕らわれてしまう修二。 前作「すいか」でも主人公が信用金庫に勤めていた関係もあってかお金にまつわる話は何度も出てきたがお金は木皿泉作品にとって重要なモチーフかもしれない。 もっと言うとそれは数値化された価値観という方がはまりがいい。社会が流動的になり、わかりやすい国や神のような価値感が弱体化する中で私たちはお金のほかにも成績、体重、あるいは友達の数などの数字の価値感に囲まれて生きている。本来お金とは商品あるいは何らかの価値のある存在と交換できる存在として現れる。だからただ所有しているだけでは無価値なものだ。だが所有することで所有紙幣や効果の数字が可視化される時そこに具体的な力、価値感を感じ錯覚しいつしか数字の上昇が目的となってしまうことが残念ながら多々あるのだ。「すいか」ではお金の描写(数値化された価値感)と対抗するようにハピネス三茶での談話、食事のシーン(数値化できないもの)が何度となく繰り返されてきたがこれはきっと野ブタにおける見えるものと見えないものというドラマの対立項とも繋がっているのだろうと思う。 (成馬) ■進路調査のプリントで折られた紙飛行機 他の生徒がしっかり進路のことを考えてることに驚く修二と対比される形で屋上で紙飛行機を折る三人。その姿はまるで将来という現実について考えることを保留にするためにプロデュースをしているかのように見える。この回ではプロデュースという言葉にくるむことで出来上がってたものが幸福なモラトリアムの時間だったことが、その崩壊を見せることで気付かせてくれる。だからこそ野ブタは最後に「私たち次にいかなきゃ」と言うのだろう。 (成馬) ■「こっちがオリジナルだろ」 本来そういうジャッジをしない「みんながいい、と思うものがいい」という価値感を生きてるはずの修二がこの台詞を言うのがかなり可笑しい。 (成馬) ■「ニセモノに負けてられるかよ」 しかしこの場合の勝ち負けとは何なのだろうか? 一方で彰の父親が「俺、金に負けちゃったよ」と回想で語るシーンが挿入される。そもそもこのドラマの「野ブタを人気モノにする」という目的自体が勝ち負けが曖昧なものだ。 勝負というものは同じルール、価値感を共有して初めて成立する。スポーツが人気なのはルールが明確で同じ価値を巡って争ってるという前提が疑いようがないからだ。 だけど、「野ブタ~」で描かれてるような戦いはルール自体が曖昧で目的も人気モノにするとあるが、それがどういう状態なのかはおそらく修二ですらもよくわかっておらず、だからいつしか目的が摩り替わってしまったのだろう。今回の修二の敗北は金銭の獲得がゲームの勝利条件だというルールをいつの間にか受け入れていたからだといえる。 逆にいうと、どのようなルールかに自覚的でないと、すぐわかりやすい対立項に飲み込まれてしまうのだ。また普段クールな修二が勝負になると熱くなり自分を見失う一方で今回終始クールな野ブタの描写の対比、そして最後に野ブタが励ましているのを見ると、いつの間にか力関系が変化していることに気付かされる。 (成馬) ■横山先生の詩集 (1) 野ブタグッズの売れ行きと対比される形で描写されるダンボールに入っている横山先生の自主制作の詩集。これは横山先生の青春の思い出だった。3話の落書きを見に来る本屋のオヤジや生霊になって現れた元生徒など、この作品には思い出を大事に抱えている大人が多数登場し、それが彼らの人としての優しさの根拠になっている。またこの詩集は野ブタグッズのブームと入れ替わる形で生徒の間で大ブームとなる、ただし横山先生の執筆当初の意図とは別の「笑える本」として。 この詩集の挿話で、モノの価値や評価とは受けて次第でまるで意味は変わる曖昧なものだという価値感を更にダメ出しする。 (成馬) ■横山先生の詩集(2) 修二たちが売りだしたキィホルダーのブームと入れ替わるように、ゴーヨク堂店主が売り出した横山先生の詩集がブームを起こす。一度は捨てられようとした横山先生が若い頃に書いた詩集が、ちょっとしたきっかけで大ブームを起こす。これは第1話以来繰り返されてきた、「小さな世界での価値観は簡単にひっくり返る」というこの物語における基本的な世界観の反復である。(市民) ■ゴーヨク堂と横山先生 と、同時にこの第6話では、横山先生が詩人を諦めて生活のために教師になった「夢を捨てた大人」として描かれていることにも注目だ。横山はゴーヨク堂の店主に「(夢とお金でお金を取ったことを)後悔しているか?」と尋ねられて「していません」と答える。そして、(これまでの横山のやる気のない言動からは想像できないが)「今のこの仕事が好きなんです」と独白する。そしてゴーヨク堂の店主は、横山の詩集を自分の店で扱うことを提案する。 第1話でゴーヨク堂店主は、店に逃げ込んできた信子に、小さな世界の価値観は書き換え可能であることを示唆する。そして第6話では横山に、彼が捨て去った「もう一つの可能性」をプレゼントする。ドラマ版「野ブタ。」において、ゴーヨク堂店主は、小さな世界のローカルな価値観に埋没しそうになっている登場人物に、それだけが全てではないことを気付かせる存在なのだ。もっとも、この6話の場合、ゴーヨク堂が横山にこういう提案をしたのは、「今の仕事が好き」な横山ならば、自分が詩集を売り出したところで勘違いし、自分を見失ったりしないという確信があったからだろう。(市民) ■「私は変わってないのに」 今回修二が行った野ブタグッズ販売は学校内あるいはせいぜい近隣の中だけで行った小さな商売だったが、その小さな世界の中にモノを作り価値を与え売るということはどういうことか?そして追従するコピーが出回り、競争になり質を上げ価格を低下させる内に回りから飽きられゴミになって忘れられていくという、ある種の社会の縮図を描いている。ただここまでならよくある話でクドカンのタイガー&ドラゴンでも似たような話はあった。 本来、衣食住つまり生活に関連しないものに価値を付加して大量消費させる、というのは言ってみればテレビドラマを作ってるスタッフの心情でもあるのだろう。 前作「すいか」は質は高かったものの残念ながら高視聴率には結びつかなった。それに対し今回はジャニーズの人気アイドルを使いメジャーな学園モノという題材で同じテーマを展開したがための、平均15パーセントの数字を獲得し高い評価も得ている。野ブタの「私は変わってないのに」というのはまるで作り手の苦笑のようだ。だから今回の修二と野ブタの意見の食い違いは、そのまま「すいか」から「野ブタ」へ経由していく上での木皿泉やスタッフのジレンマだとも言えなくない。 ただそれを迎合だと作り手が恥じているか?というとそれは違うと思う。すべてが終わり上辺だけのブームが過ぎた後、誰かの宝箱の片隅に残っている野ブタ人形を見ていると、そこに「本当にいいものは時間を得てもちゃんと残るのだ」という確信のようなものすら感じる。 (成馬) ■修二と信子の路線対立 第6話ではキィ・ホルダーの販売方針を巡って、修二と信子が対立する。修二は「ライバルたちに負けたくない」と言い、あくまで売り上げにこだわる。対する信子は「誰かを勇気づけられたらそれでいい」と言う。このふたりは、どちらも無自覚に「キィホルダー販売を通して信子を人気者にする」という当初の目標を忘れている。修二は自分の能力をお金と言うハッキリとした形で示すことを望み、信子は自分のつくったものにロマンチックな意味を求めている。これは決して不幸なことではない。彼等はまだ自覚していないが、こういうことを通して人間「自分のやりたいこと」が少しずつわかっていくものなのだ。(市民) ■お金の裏と表 お金儲けに勤しむ修二たちに教頭は「お金には裏と表の顔がある」と諭す。この「表」とは価値観が数値化されることのメリットであり、「裏」とは価値観が数値化されてしまうことで見えなくなってしまうものがあるという暗黒面である。事実、修二はこのお金の「裏」の面に報復される。お金と言う「数値化された価値」でしか、物事の価値を測れなくなってしまい、それがもっと他の(数値化されない)充実感をもとめる信子との路線対立を生んでいくのだ。 ちなみに、このお金の裏と表の話は彰の父が後半口にする「お前は道端の10円玉でいろ!」という台詞につながっていく。(市民) ■まり子の距離感 前話以来、修二がどうやら彰・信子とは、自分の知らない「本当の姿」で関係を結んでいるらしいことが気になりだしてるまり子。前回チェックポイントで成馬さんが「人の可視化されたコミュニケーションを疑わない鈍感さ」がゆえにいい奴だと彼女を評していたけど、僕はそうではなく、自分には「本当の姿」を見せてくれない修二の不可視な部分をずっと気にして、そこへのアクセス方法を愚直に不器用に探しているコなのだと思う。今回、野ブタグッズづくりに入れ込む修二の「本気」に気づいていたし、そこになんとかコミットしたいと思ってヘコんでる修二に「私買ってあげる」と、下手だけどまっすぐな入り方をして苛立たせる。で、そこではじめて「本当の姿」に触れられることになった。「次に行かなきゃ」は、きっと彼女についても言えることなのだろう。ガンバレ、おれはきみを応援してる! (中川) ■彰の父 かつて会社を継ぐことを拒否して、妻と幼い彰を連れて家出したことがある彰の父は、横山先生と同じような「夢を捨てた大人」だ。だが、横山同様に、この物語はそんな「夢を捨てた大人」に優しい。彼等は決して「敗者」として描かれることもないし、「夢をなくした抜け殻」とも描かれない。今回の修二たちがそうであったように、試行錯誤を繰り返して少しずつ「自分にとって本当に価値があるものがなにか」を突き止めていった存在として描かれているのがポイントだ。(市民) ■「お前は道端の10円玉でいろ!」 最後の彰と彰の父親の会話で彰の父親は硬貨と紙幣が綺麗に分類された金庫の中を見せ「俺が住んでいるのはこういう世界だ」という。彰の父親は「覚悟を決めろ」と会社を継がせようとして現れた。今回の話はグッズを売る話と将来を考える話の二重構造だが、彰が将来について導きだした解答は急いで進路を決めることでなく、立場を保留にし曖昧な「今・ここ」でじっくり考えるということだ。 そしてこの父親とのやりとりから逆算する形で今までの彰の行動が結果や外見・数字などの目に見えることにこだわる修二と「だれかの力になれた」とか「喜んでもらえた」などの内的な見えないものにこだわる野ブタの中間的な位置で行動してきたのだなぁと思い出させる。 そしてその彰が「プロデュースを辞めたい」と言う=曖昧な関系の終わりを宣言するというラストが物語は確実に終わりに向かっていることをわからせてくれる。(成馬) ■タイムカプセル 信子が公園でみつけた、近所の子供のものらしいタイムカプセル。そこには彼女達が手作りでつくったキィホルダーが大切にしまわれていた。信子は修二と彰にこのタイムカプセルを見せて、自分たちのやったことは意味のないことではなかったのだと力説する。 これもまた、メディアを通してメッセージを発進し続けるスタッフの思いのようなものなのだろう。幸いにもこのドラマはヒットしているが、それが私たち視聴者の心に何を残したか……それが問題なのだとこのシーンは訴えている。(市民) ■次に進むしかない 結局、キィホルダー販売に失敗し、大量の在庫を抱えてしまった修二たち。止目に謎の妨害者に在庫を台無しにされてしまった彼等は「次に進むしかない」と言って失敗を認め、在庫を処分する。この挫折はかつて詩人への道を諦めた横山の失敗や、実家の会社を継ぐことを拒否して家出したはいいものに、すぐに経済的に行き詰って実家に戻った彰の父の挫折にも重なる。この物語において、失敗することは決して負の価値ではない。横山や彰の父と同じように、こうして試行錯誤を繰り返すことこそが大切なのだと、この物語は訴えているのだ。(市民) ■「鯛焼きの頭の方を食べてると幸せな気持ちにならない?」 彰は野ブタと修二にこのことを聞くが二人は「別に」と言う。 そういう気持ちになるのは父親との思い出が元にあり、それに気付くことがオチになっているのだが、一方で彰は「やっぱ俺だけか」とつぶやく。 みんないっしょだった一体感の喪失の予感は、ここでも暗示されている。(成馬) ■ちゃんとした人間になる。」 修二はラスト、進路希望用紙にそんな目標を書いた。そう、第1話で信子と一緒にいる修二の前にひらりと舞い降りたキャサリン教頭が、「こいつ、ちゃんとした人間に教育してやって」と、どちらに向けたのかをぼかすかたちでかけた言葉だ。結果的に、上辺のことにとらわれすぎな修二を、野ブタが導くというかたちで伏線が回収されたわけである。 これは第1話を観て以来の感想でもあるが、修二は最初から、決して自分が思っているほど、数量的な価値や勝ち負けだけを重視し、「心」を信じない上辺づくろいの空虚なゲームに身をやつしている人間ではない。何かに本気になって、それが挫折して今回のように余裕なくヘコむことを無意識に恐れているゆえに、万事を「ゲーム」と割り切るよう、常に自分に言い聞かせているだけなのだ。そうして自分を誤魔化している状態が「ちゃんとしていない」ことを、どこかでわきまえているからこそ、いつも最後の最後では大事なことにちゃんと気づくし、そういう彼の本質を見抜いているからこそ彰や野ブタは信頼を寄せる。あの家族の中で育って、そんなに虚ろな人間になるはずがないのだ。 (中川) ■不真面目なのか? いや、真面目なのか ラスト前、修二、彰、信子の3人が提出した進路調査用紙を見て、横山先生はこう漏らす。「ちゃんとした大人になりたい」修二、「道端の十円玉」と書いた彰、そして「笑って生きる」と書いた信子。無論、こういう公の場で個人的な思いをぶちまけることは不真面目な行為に映るかもしれないし、「イタい」行為かもしれない。しかし横山先生はこれを「真面目」なのだと思い直す。冒頭での修二のモノローグにあったように、高校生が一週間やそこらで将来のことを決めるなんてまず無理なことだ。だから、彼等はジタバタともがきながら、試行錯誤を繰り返しながら、少しずつ前に進んでいく。確かに時間は限られているが、それを暖かく見守る大人たちに、幸いにも修二たちは恵まれているのだ。(市民) ■大人たちの背中 冒頭、「俺たちもあんな退屈そうな大人になるのかなあ」と出勤途中のサラリーマンを見つめていた修二の視線はラストシーンでは大きく変化している。そう、冒頭では自分が「大人になる」ことを想像もつかなかった修二だが、このシーンでは「あの人たちも自分と同じように葛藤を抱えていたんじゃないか」と想像している。これは決して妥協でもなければ敗北でもない。ゆっくりとした歩みではあるが、確かな成熟である。(市民) #
by nobuta2nd
| 2005-11-24 21:52
| 第6話
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