2005年 10月 23日
【今週のあらすじ】 着ぐるみに身を包むよう自分自身を演出し、人気者として君臨する2年B組・桐谷修二。 周囲をうまく盛り上げ、まさにクラスのリーダー。 そんな修二の唯一苦手な人物が、同じクラスの草野 彰。彰は優柔不断でおっちょこちょい。でもって、ちょっとピントがずれている。その性格からクラスでも浮いた存在の生徒。 そんな彰は、修二のことを「親友」と 思い込み、修二になにかと絡んでくるから修二としてはおもしろくない。 どうしても、こいつの前では調子がくるってしまうのだ。 そんなある日、修二の通う隅田川高校に転校生がやってきた。 転校生の名は小谷信子。 外見に無頓着で自身を飾ることをしない暗い印象を持つ、修二とは正反対の少女だった。 信子の、周囲に人を寄せ付けぬ態度や雰囲気が災いし、不良グループのリーダー、バンドーに睨まれてしまう。 そんな修二は、ひょんなことから虐められっ子、信子を人気者にする、プロデュースを引き受けるのだった。 やがて、それは、イジメへとエスカレート。クラスの雰囲気はだんだん、悪くなっていく。 それを見た修二は、「自分は関係ない」とたかをくくっていたが…。 公式サイト 【今週のストーリー解説】 ●善良な市民 「狭くて小さな教室へようこそ!」 この第1話はドラマ版「野ブタ」の世界観を説明した回だ。 物語の舞台はとある高校の教室。大抵の高校生達がそうであるように、この教室の彼らもまた「クラス」という狭くて小さな舞台の上で、それぞれのキャラクターを無自覚に演じて(棲み分けて)生きている。中には主人公の修二のように、それが狭くて小さな舞台でのロールプレイング「ゲーム」のようなものだと悟って上手に立ち回り、おいしい位置を確保する人間もいるし、ヒロインの信子のように不器用で、あっという間に最下層の役を押し付けられる人間もいる。 しかし、修二が達観するように、それは狭くて小さな舞台で演じられる、小さな物語でしかない。教室を一歩出た途端にまったく通用しなくなる。例えば、修二のクラスの人気者らしい男子生徒ふたり組みが放つ一発ギャグは「クラスの外側」の人間である僕たち視聴者には寒くて仕方がないし、この構造に自覚的な修二は彼等を内心バカにしきっている。 この世界観を端的に表しているのが、ヒロインの信子が転校早々いじめられっ子になり、同級生に追い回されるシーンだ。 必死に逃げる信子は学校の外に逃げ出し、忌野清志郎が経営する本屋に逃げ込む。 「ケバイ女」が嫌いな忌野はいじめっ子を店の中には決して招き入れない。 バカな男子高校生の寒いギャグが市民権を得ている「小さな世界(物語)」があの狭い教室の中で成立しているように、ここでは忌野の美醜の感覚がすべてを決する「小さな世界(物語)」が成立しているのだ。 「教室」のルールやキャラ設定は、「本屋」では通用しない。だから信子は本屋に逃げ込むことで助かるのだ。 小さな世界(物語)が無数に乱立し、それぞれのルールとキャラ設定が他の世界ではまるで通用しない戦国時代(ポストモダン)……これが「野ブタ」ドラマ版の基本的な世界観だ。 そしてこれは、何もドラマの中で作られた虚構ではない。今、僕たちが直面している世界だ。 ●成馬01 前作「すいか」のファンで木皿泉の新作は期待していたが、主演はジャニーズの亀梨和也と山下智久だし原作と変わるし野ブタが女になるし、しかも掘北真希でしょ、いじめられねーだろっ単なるアイドルドラマじゃん、と甘くみてたんだけど、予想以上に面白かった。 それにしてもこの枠は前作の「女王の教室」でも思ったけど、どうしちゃったんだろうね(笑)戦後民主主義的な平等空間としての学校は完全に終わってて弱い人間が食い物にされるっていうことが当然のこととして疑いなく描かれている。 だから「いじめ」という状況を悪とするんじゃなくて、いじめられる野ブタの問題に還元されて、どう自分が変わるか?って問いに向かっている。 正直いじめをやる奴が悪いんだから「殴れよ」って俺なんかは思ってしまう。 学校でのコミュニケーションが演技と監視の場になってる一億層踊るさんま御殿的な状況をさらりと描いていて岡崎京子のリバーズエッジを思い出す。 まぁ彰が金の力で何とかするってのはドラマとして反則と思ったけど、少し長いの以外は満足の出来だった。 裏読みとしてはこれは野ブタがジャニオタの女の子の分身で二人の王子さまに助けてもらうっていう願望充足ドラマでもあると思う。 「すいか」は作家性は強すぎて視聴率とうまく結びつかなかったので、今回はうまくいけばいいなぁと思う。 あと全体に漂う明るい虚無感みたいのがどうしようもなく気になった。 亀梨が心の拠り所としていた柳の木のある場所は冒頭から失われるし唐突に母親が飛行機事故にあったり(あとで無事とわかるけど)と、大切なものは簡単に失われるのではないか?という喪失の不安を暗示していて、その一方で山下がケーキをどっちもほしくないと言うような満ち足りているゆえの空虚さ。 ジャニーズファンの女の子が何の気なしに見たらどう思うのだろうか?それとも当然の気分として共有してしまうのだろうか? この全能感から来るニヒリスティックな感じはちょっとデスノートの夜神月のあの感じに似ている。 この演技せざる追えないしんどさは何だろうか?リバーズエッジの頃は一部のとんがった子の背伸びした気分だったものが、今は土曜9時というドラマ枠で平然と流れている。 これからどこへ踏み込むのだろうか?気になる。 【今週のチェックポイント】 ■修二と彰 ~満たされているが故の空虚さ ここで修二と彰、ふたりの主人公について見てみよう。 主人公の修二は、自分の所属している教室という舞台が「狭くて小さな世界(小さな物語)」であることに自覚的だ。そのため、人間関係(小さな物語の中でのキャラ設定)をメタ視することができ、ある程度自由に自分のキャラを、脚本家や演出家のように立てることができる。しかし、その演出力を彼はせいぜい保身のためにしか使えていない。 彼の相棒の彰は、資産家の息子として育ち、何不自由ない生活を送ってきたために逆に空虚さを抱えている。 彰があえて貧乏下宿に住んでいるのは、何不自由ない実家での生活からあえて離れてみれば夢中になれる「何か」が見つかるかもしれないというありがちな発想である(自分探しに途上国へ旅行する学生やOLみたいなもの)。しかし、結局「夢中になれるもの」を見つけられずにいる。 修二は器用さ、彰は経済力をもっているが故にどこか空虚さを抱えている。 この第1話では、修二の母親が飛行機事故に遭ったという誤報で一家が動転するシーンが描かれ、続いてほっとした修二の父親が「この世界のどこかで、悲しみにくれてる家族がいるんだろうな」と他人事のように、でもどこか後ろめたそうに呟くシーンが続く。 一方の彰は下宿の主人と、茶飲み話のように「世界平和」を語り、その話題が「流される」。 これらは一見、無意味なシーンだがそうではない。この世界観では、主人公の母親が飛行機事故で死ぬみたいなドラマチックな事件は起こりようがないし、「世界平和」のような大きな物語には接続できないのだ(少なくとも第1話ではそう)。彼らが直面しているのは、いくらメタ視できていようとも、結局あの狭い教室という舞台で繰り広げられる「小さな物語」なのだ。 (市民) ■「小さな物語」を書き換えるために……! そしてこの第1話では、そんな世界観の中で、主人公達が何を求めるのかも端的にまとめられている。 ここでも重要なのは、信子が本屋に逃げ込むシーンだ。 いじめっ子に追われて逃げ込んできた信子を忌野が諭す。 「私は自分で自分の(価値観が守られる)世界をつくったのだ」と。 自分にとって、居心地のいい小さな世界を、獲得すればいい、と。 そして信子は決意する。自分が生きているこの世界の価値基準を、自分で塗り替えると。 クラスという「狭くて小さな世界」の価値観(キャラ設定)を塗り替え、人気者になる……! それは決して不可能ではない。 修二が言うように「みんながすごいと言えばすごい、みんなが欲しいと言えば欲しくなる」のが、この狭くて小さな世界だからだ。 そう、それは教室という狭い狭い範囲でしか通用しないローカルルールにすぎない。 だからこそ、ちょっとした工夫でひっくり返すことができるはずだ。 そして修二と彰も、そんな信子と出会うことによって、はじめて目的をみつける。 それは、信子をプロデュースして人気者にする(「小さな物語」を自在に書き換える)ことだ。 修二にとって、保身のための技術でしかなかった人間関係のメタ視が、ここではじめて「人生を楽しむためのアイテム」へと昇華したのだ。 それは小さな物語には違いないが、「大きな物語」に接続できない彼等の世界のすべてだ。完璧にコントロールするには全力でぶつかるしかない。それはまさに「誰もやったことがないすごいこと」なのだ。 (市民) ■平坦な戦場を思いっきり楽しむこと 「平坦な戦場で僕らが生き延びること」と傑作『リバーズ・エッジ』のあとがきで岡崎京子が言ったのは、もう10年以上前の話だ、 あれから10年経って僕らはうんざりするくらいこのフレーズを繰り返してきた。 この10年、日本のサブ・カルチャーは「平坦な戦場」で「絶望から出発」し「乾いた暗さ」をひたすら表現してきた。そして、それで満足してきた。 だけど僕は岡崎の言葉に出会ったときから「そんなの前提じゃん」と思っていた。 「敵がいない」「反抗するものがない」から僕等は辛い。自由で豊かな世の中だから、逆に物語がなくて辛い……。 「他人のせいにするなよ」と僕は思う。 セカイが、シャカイが、上の世代が与えてくれなかったから僕等は可哀相なんだ、特別な時代に生きているんだ……と、みんな口をそろえて言う。「僕等は不毛な世代だ、時代の犠牲者だ」と。 でも、それって単に甘ったれているだけじゃないだろうか? 「物語がない、という物語」……そんな甘えた物語が通用したのは、もうずっと過去のことじゃないかって思う。 基本的に世を厭うことでしか、「それでも僕は」と逆説的に前を向くことができなかった。 それはあらかじめロマンテイシズムに転化されることが宿命付けられた骨抜きのアイロニズムを、仮想敵として消費しているだけにすぎない。 「平坦な戦場」も「絶望から出発」も「乾いた暗さ」も、いい加減食傷気味だ。 だから何? そんなの大前提、「何を今更」だ。 修二と彰が直面しているのも、たぶんそんな世の中だ。 「平坦な戦場」に立っていることを嘆いていればウットリできた時代は、とっくに過ぎ去ったのだ。 彼等は平坦な戦場だからできることを見つけて、思いっきり楽しむことを選んだのだ。 (市民) ■スクールカースト ドラマ版「野ブタ。」はスクールカーストが前提の学校を舞台に主人公の亀梨と山下が陰気ないじめられっこの堀北をプロデュースするマイフェアレディものになると思う。 「スクールカースト」とははてなダイアリーで一時期話題になった学校内で暗黙のうちに成立している階級制度。 くわしくはこちら⇒はてなキーワード ただし俺はこの注釈のような階層の固定化はあまり信じてなくて、むしろ昨日の人気モノが明日にはいじめられっ子になってるような階層の流動化が今は激しいのではないか?と思っている。いうなれば全員が役者であり観客の演劇を演じてるような状態で俺は密かに劇場化と呼んでいる。 小説版「野ブタ。をプロデュース」は出来はともかく、その一点を押さえられたからこそ若い子を中心に人気があるのだう。 (成馬) #
by nobuta2nd
| 2005-10-23 20:32
| 第1話
2005年 10月 22日
■原作版ロングレビュー ●「キャラクター」を「プロデュース」する 「キャラクター」という言葉が、物語の登場人物の設定や性格付けのことを指す意味で使用されるようになったのは、いつ頃からだろうか? さらに、実際の生活で、本人が前面に押し出してくる自己イメージのことを指すようになったのはつい最近のことのような気がする。 これは、別に最近になって自分たちの属している人間関係を、「物語」としてメタ視する文化が浸透したということだろうか? たぶんそれは違う。今も昔も少し鼻の効く人間なら、誰だってこれくらいのことは自覚していたはずだ。おそらくは「キャラクター」という「和製英語」が浸透するにつれ、実際の人間関係を説明するのに便利な言葉として比喩的に用いられるようになったのだと思う。 『野ブタ。をプロデュース』は、そんな「人間関係のメタ視」が前提となった青春小説だ。語り手の桐谷修二は、周囲の人間をバカにしきっている嫌な奴だ。その割に他人の目ばかりを気にしている彼は「さわやか」で「ノリのいい」キャラクターを演出することで、クラスの人気者の座を勝ち得ている。そんな修二はひょんなことからいじめられっ子の転校生、信太(野ブタ)に慕われるようになり、興味本位で彼を「人気者のギャグキャラ」に「プロデュース」することになる……。 ●「メタ視」の笑い この小説の魅力は、やもすれば暗く、陰惨な内容になりかねない狭い人間関係のメタ視を、軽快な文章とユーモアのセンスである程度ポップにもっていった所にある。もちろん、この程度の「メタ視」なんて生ぬるいと感じる人もいるだろうが、結末で修二がたどる運命などを考慮すれば、こういったヌルさも作者の計算のうちだと納得できる。 これは確かに「みみっちい見栄の張り合い」に違いない。しかし、そうしなければとても住み辛い世の中に、僕等は生きている。そんな悲哀をさらりと笑えるブラック・ユーモアに仕立てたこの作品は、現代における青春小説の佳作と位置づけていいと思う。 僕は、この作品をぜひ、主人公の修二と同じ中校生のみんなに読んで欲しいと思う。リアルタイムで学園生活を送っている君たちには、この小説を笑い飛ばすことはできないかもしれない。もしかしたら、この主人公の修二に自分を重ね合わせたり、逆に反発を覚えることも多いだろう。 けれど、ここで忘れちゃいけないのは、この小説があくまで「コメディ」として書かれているということだ。だから、作者も最後の最後までは踏み込んでいない。この作者が敢えて踏み込まなかったものが何なのか、わかれば大したものだと思う。そして、こういったものにきちんと距離を取って楽しむことができるようになれば、君たちの生活は文化的にも、そして人間関係的にもぐっと豊かになると思う。 (善良な市民) #
by nobuta2nd
| 2005-10-22 20:46
| 原作小説
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